学界展望 日本語の歴史的研究 2021年1月〜6月
(勝又 隆)
日本語研究者が「歴史的研究」2021年前期の動向を振り返ります。
【学界展望】
日本語の歴史的研究 2021年1月〜6月
勝又 隆(学習院大学教授)
今期に公刊・公表された論考の多くは、昨年から続く「コロナ禍」の渦中で調査や執筆、校正等が行われた。「コロナ禍」の影響で、さまざまな研究会や学会大会が中止あるいはオンラインへの切り替えとなり、調査のための移動や図書館等の施設の利用にも制限が生じている。研究会や学会に参加する際の地理的な障壁が小さくなる(=旅費が浮く)のは良い影響と言えなくもないが、2020年度に実施されるはずだった調査がほとんどできなかったという研究者も少なくない。研究への影響が本格的に現れてくるのが、今期以降ということになるだろう。
1. オンラインの研究環境
日本語史の分野において、研究方法の一つとしてコーパスが活用されるのは、今や決して珍しくなくなった。「コロナ禍」の現在、オンラインで活用できるコーパスの重要性はますます高まっている。
3月13日には、国立国語研究所共同研究プロジェクト 「通時コーパスの構築と日本語史研究の新展開」による「通時コーパス」シンポジウム2021*が、オンライン(ZoomによるWeb開催)で実施された。口頭発表6件、ポスター発表11件が行われ、内容的には対面による開催と遜色ないものとなった。
また、『日本語歴史コーパス』(国立国語研究所)*は、2021年3月の公開バージョンで新たに「明治・大正編Ⅳ近代小説」、「奈良時代編Ⅲ祝詞」として延喜式祝詞、「江戸時代編Ⅳ随筆・紀行」の一部として芭蕉の紀行文、「明治・大正編Ⅲ明治初期口語資料」に『春秋雑誌会話篇』が追加された。
こうしたコーパスの着実な拡充の一方で、論文データベースの更新には支障が出ている。国立国語研究所の「日本語研究・日本語教育文献データベース」は発行年での検索ができるが、現時点での最新は2019年である。分野やキーワード等、詳細な検索条件に対応できるデータベースの構築は人の手と頭で行う比重が高い。国立情報学研究所の「CiNii」や国文学研究資料館の「国文学論文目録データベース」等で補完できる部分もあるが、検索の便利さでは及ばない。仄聞するところによれば、国立国語研究所の論文データベース構築には、データ管理の都合もあってか、出勤を伴う作業も多いようで、昨年度は思うようにデータの更新作業が進められなかったとのことである。状況は徐々に改善しつつあるようだが、「コロナ禍」の悪影響はこういう所にも出ている。
また、現在、学会や研究会、シンポジウムの実施方法としての「Web開催」は、選択肢の一つとして定着しつつある。昨年であれば「中止かWeb開催か」を議論していたような状況下でも、「対面かWeb開催か」を議論するようになっており、日本語学会春季大会(5月15日(土)、16日(日))*、第124回 訓点語学会研究発表会(5月23日(日))*など、日本語の歴史研究に関わる全国規模の学会や研究会はオンラインで開催された。
これは、昨年オンラインでの運営に当たった方々の尽力でノウハウが蓄積されたことに加え、参加する側の慣れも大きい。ただし、懇親会を始め、研究者同士の交流、情報交換という面では、元から交流がある研究者同士はともかく、初対面での交流はオンラインでは行いづらい場合もあり、試行錯誤が続いている。
2. 目立つ文字・表記に関する研究
今期は、文字・表記に関する著作の刊行が目立った。単に数が多いのではなく、対象となる時代、アプローチともにバラエティに富んでいる。
単著では、古典文学における「仮名資料」を調査対象として、「仮名資料の文字調査」、「語と用字との関係」、「字体認識と書写態度」の三つの観点から調査・研究した斎藤達哉『国語仮名表記史の研究』(武蔵野書院、2月)*、実例からの帰納を中心とした前著『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)に対し、「理論編」として上代の表記論における構想を論じた尾山慎『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2月、以下『上代日本語―』)*、1900年の小学校令施行規則による平仮名の字体統一について、明治期読本を中心に関係資料の整理を通して「近代仮名体系」の「成立」過程を描き出した岡田一祐『近代平仮名体系の成立―明治期読本と平仮名字体意識―』(文学通信、2月)*が刊行された。
また、論文集として17編を収めた加藤重広・岡墻裕剛編『日本語文字論の挑戦―表記・文字・文献を考えるための17章―』(勉誠出版、3月、以下『日本語文字論―』)*も刊行されている。17編の論考が第1部「言葉をどう書くか」、第2部「文献をどう読むか」、第3部「文字をどう学ぶか」、第4部「文化をどう残すか」に分けられており、「日本語文字論」について、基礎から最新の事情まで幅広く学べる構成になっている。「まえがき」によれば難易度は「入門書からやや簡単な専門書といったレベル」とのことで、この分野について新たに、そして深く学びたいという人へ門戸を開く内容と言える。
中川ゆかり『正倉院文書からたどる言葉の世界』(塙書房、3月)*は、正倉院文書に見られる漢字や漢語、対応する和語などについて、用字や字義、語義、用法などの面から考察した「一 論考篇」と、三つの文書を取り上げ、そこで使われる重要な言葉に考察を加えた「二 付篇―正倉院文書を読むために―」とからなる。正倉院文書が日本語史において重要な資料の一つであることは知られているが、著者は「あとがき」で「正倉院文書の多くは日本史の研究者の手に成る。そのため日本語・日本文学の授業で正倉院文書の読み方が取り上げられることはほとんどないだろう」と現状を述べている。本書の序に付された注には、正倉院文書の概要について知ることの出来る書や「上代の言葉や文章の解明に正倉院文書を視野に入れた研究」などが複数紹介されており、後に続く研究者への道が用意されている。
3. 研究継承の試み
日本語史にはさまざまな研究分野があるが、一人の研究者が専門的に研究できる範囲には限りがある。一般的には、学生が高等教育機関において専門家の指導を受け、その後も研究活動を続けることで、ある分野の研究が次の世代へと継承され、発展していく場合が多い。日本語史研究が幅広く、そして深く行われ、発展していくためには、多様な分野の研究者が存在するとともに、それを学ぶ場も多様である必要がある。
しかし、昨今の大学における学部改組や退職教員の後任不補充などの影響で、日本語史を専門とする教員のポストは漸減している。そのため、分野によってはすでに研究の継承が困難になりつつある。「分野によっては」と言っても程度の問題であり、日本語史、あるいは日本語学という分野そのものの継承も、決して安心できない状況にある。そうした中で、今期は訓点資料研究において、研究の継承と発展への試みがなされている。
「〈小特集〉訓点資料研究に期待すること」『訓点語と訓点語資料』第146輯(訓点語学会、3月)*では、文法史研究から金水敏氏、大木一夫氏、音韻史研究から坂本清恵氏、語彙史研究から岡島昭浩氏、橋本行洋氏、抄物研究から蔦清行氏、山中延之氏、近世漢文訓読研究から齋藤文俊氏、そして訓点資料研究の内部から月本雅幸氏の9氏が、それぞれの立場から訓資料研究に対する提言を行っている。訓点資料研究と隣接分野との関連と可能性を示す試みと言えよう。
編輯主任の肥爪周二氏による趣旨説明には「かつて、日本語史研究における重要な一部門であった訓点資料研究も、徐々に研究者の高齢化が進み、若手研究者がほとんど育っていないという危機的な状況にある。後継者が育たないのには、さまざまな理由があろうが、その一つに、基礎的な技術を身につけた先に、日本語史研究として、どのような可能性が開けているのかという点が、若手研究者(特に、これから自分の専門分野を定めていこうとする大学院生)に見えにくいということがあろう」とあり、強い危機感が表明されている。
訓点資料研究に関連するものとしては、築島裕『古代日本語発掘』(吉川弘文館、2月)*の刊行もあった。1970年に学生社から刊行されたものを原本として、吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズの一つとして復刊されたものである。訓点資料の研究を通した古代日本語の「発掘」作業時のさまざまなエピソードや、調査を通して得られた日本語史上の知見などが語られており、訓点資料研究「入門前」の読者にも興味深い内容となっている。「これから自分の専門分野を定めていこうとする大学院生」が、1970年刊の同書を自主的に手に取る機会がどの程度あるかを考えると、このように手に取りやすい形で刊行されたことには価値がある。
また、小助川貞次「訓点研究「超」入門」(『日本語文字論―』)*は、基本的な専門用語や調査方法についての説明はある程度省略しつつ、訓点資料を研究対象として扱う上での「難しさ」や「楽しさ」が具体的な事例とともに語られ、研究の実際の過程がイメージしやすい工夫がなされている。また、「省略した」訓点研究や訓点資料の調査方法については注2で、「総論的に述べられたもの」5編と、訓点語学会が会員を対象に実施している訓点資料講習会を紹介している。さらに、訓点研究を専門とする指導教員がしばしば、卒業論文で訓点資料を研究したいという学生を「「年季がかかるから止めておいた方が良い」と冷たく突き放す」ことの背景を説明した箇所では、注19で「それでも訓点研究をしたいという学生には、以下のようなフルメニューを提示している」として、書籍や論文などを20項目挙げており、有用である。
4. 研究の発展をめざして
文法史の分野では、高山善行『日本語文法史の視界―継承と発展をめざして―』(ひつじ書房、3月)*が刊行された。本書は現代語と古代語の対照を基盤とした「研究領域の拡張」をめざしており、研究領域拡張の方法として、「既成の枠組みのなかで研究領域の空白を埋めていくという方法」(「研究領域の伸展」)、「ほとんど手つかずの領域を開拓するという方法」(「研究領域の開拓」)、「これまで別々に行われていた2つの領域をつなぐという方法」(「研究領域の接続」)の3種を挙げている。「研究領域の伸展」としてモダリティ、疑問文、「研究領域の開拓」として名詞句、配慮表現、「研究領域の接続」ではモダリティ研究ととりたて研究/条件文研究の接続、テンス・アスペクト研究と存在表現研究/テクスト構造研究の接続に関して、具体的な議論が行われている。
現代語との史的対照という観点では、野田尚史・小田勝編『日本語の歴史的対照文法』(和泉書院、6月、以下『歴史的対照文法』)*も今期の刊行である。「複数の異なる時代の日本語の文法を対照とすることにより、それぞれの時代の日本語の文法をより明確に記述すること」を目的に13編の論考によって構成されている。
また、金澤裕之・川端元子・森篤嗣編『日本語の乱れか変化か―これまでの日本語、これからの日本語―』(ひつじ書房、2月)*は「言語変化の兆しを見いだす」ことと「日本語学の射程を広げる」ことを目指し、現代語に見られるさまざまな「逸脱」を扱った12編の論考から成る論文集である。「誤用」や「若者言葉」などとされる表現に対して言語研究者が「規範よりも記述」という立場を取りながら、研究対象となる言語現象は「カタい」言語表現、規範的なものを選びがちであるという現状に対して、「素直に自分が面白いと思う言語現象を、極めて真面目に分析する」という視点から各論考が展開されている。
続いて、今後の「研究領域の拡張」が期待される個別の論考に目を向けてみたい。
青木博史「日本語使役文の用法と歴史的変化」(筑紫日本語研究会編『筑紫語学論叢Ⅲ―日本語の構造と変化―』風間書房、3月 、以下『語学論叢』)*は、受身文に比べて詳細な記述が見られなかった日本語使役文の歴史記述の必要性について、通時的観点から、現代語とも対照しつつ論じている。「(さ)す」に「指令(強制)/許容/尊敬」の意味を見るべきこと、「(さ)す」の歴史において中世の補助動詞の発達が重要な役割を果たしていることを主張するとともに、「非情の使役」について、「従来の日本語にも存在した用法、欧文翻訳によって発達した用法、日本語には根付かなかった用法」などを整理している。今後、さらに詳細な記述が期待される領域である。
高山善行「連体「なり」の機能をどう捉えるか―「のだ」との用法比較を通して―」(『歴史的対照文法』)*は中古語の連体「なり」と現代語の「のだ」との共通点と相違点を整理した上で、連体「なり」に「なめり」「なりけり」などのモダリティ形式が後接する「複合用法」が多用されることについて、「モダリティ形式は単独用法では狭いスコープしかもたず、「連体「なり」によって節連鎖を判断の対象とすることが可能になる」と指摘する。さらにその機能や通時的な発達時期の一致から形容詞カリ活用と類似するとし、連体「なり」を「助動詞」とする扱いに再考を求めている。
川瀬卓「副詞から見た古代語と近代語」(『歴史的対照文法』)*は、副詞から見た古代語と現代語の相違について「副詞の発達」と「副詞の呼応の分化」の二つの観点から論じ、前者について、「蓋然性のやや低い推量の副詞、推定の副詞、および行為指示や感謝・謝罪における対人配慮を表す前置き表現・副詞が発達したと考えられること」、後者について、「仮定と可能性想定が分化したこと、事態非実現の叙述と未実現事態の希求が分化したこと」を指摘している。また、これらを小柳智一『文法変化の研究』(くろしお出版、2018)*で整理されている日本語の歴史的変化の「形式の分析化」と「文法的意味の分化」にそれぞれ位置づけている。また、こうした見通しの元に具体的な事例について考察された論考が、川瀬卓「副詞「ひょっとすると」類の成立―副詞の呼応における仮定と可能性想定の分化―」(『語文研究』130・131、6月)*である。
なお、川瀬氏は他に「洒落本における不定の「ぞ」「やら」「か」」(『語学論叢』)*も発表している。不定の「ぞ」「やら」「か」について、江戸と上方の地域差を記述するとともに、会話文で「か」の使用率が低い上方で、地の文における「か」の使用がある程度見られることから、「「か」の規範性」を見出しうることを指摘している。文体や「共通語」などの観点からも興味深い。
また、矢島正浩「条件表現史における「恒常性」再考」(『国語国文学報』79、3月)*は、日本語条件表現史の記述における「恒常性」という観点を、「(経験的)恒常性」と「(思考的)恒常性」の二つに分け、中世以前は確定条件節が「(経験的)恒常性」を、仮定条件節が「(思考的)恒常性」を担っていたものが、近世以降は仮定条件節でどちらも表すようになったという見通しを示している。順接・逆接の違いによる変遷の実態の違いなどについても近刊予定とのことであり、今後の進展が期待される。
他にも、格や焦点に関わる論考が今期に集中しており、本展望の筆者が確認した範囲でも、久保薗愛「鹿児島方言における対格標示の条件―ロシア資料と近代談話の比較から―」(『語学論叢』)*、同「鹿児島方言における格助詞ガ・ノの分布―近現代の談話とロシア資料を対象に―」(『語文研究』130・131、6月)*、山田昌裕「無助詞名詞句の格と運用法―平安期鎌倉期の実態より―」(『日本語文法』21-1、3月)*、竹内史郎「主語焦点構文における平安時代語と京都市方言の対照研究―古代語の文法にひそむ多様性を見出していくために―」(『歴史的対照文法』)*、野田尚史「現代語と古代語の「係り結び」―焦点表示機能と主題表示機能を視野に入れて―」(『歴史的対照文法』)*がある。久保薗氏と山田氏の論考はどちらかと言えば「記述」を中心とした研究であり、竹内氏と野田氏は理論的枠組みに基づいた解釈を示した研究である。対照研究においては十分な記述が前提となる。今後、記述と理論的な枠組みが両輪となった研究の進展が肝要であろう。
「コロナ禍」の影響に関して尾山氏は『上代日本語―』の「緒言」(p.3)で、一時「原則大学への入構禁止という状況」になったことなどから、「特に引用文に誤謬や誤記がないかを最終的に確認していく作業が、大幅に予定とかわることを余儀なくされた」と述べている。また、岡墻氏は『日本語文字論―』の「まえがき」(p.(5))で、「大学関係への影響は甚大で、感染防止のために対面授業が禁止され、全国の大学教員は自己努力によって教育内容の変更や新しい教育方法の開発を余儀なくされ、過労死ラインを大きく超えた勤務が続きました。そんな中で原稿を執筆していただいたのですが、残念ながら執筆予定者の中には余力が無く原稿を断念された方もいました。」と記している。
他の書籍や論文についても、言及こそされていないものの、同様の困難を経て刊行に至ったものと思われる。今回紹介しきれなかった優れた論考も数多い。困難な状況下においても研究の歩みを止めずに成果を公表された、すべての研究者に敬意と感謝の意を表したい。
勝又 隆(かつまた・たかし)……論文に「中古散文における「連体形+ゾ」文の用法―ノダ文・連体ナリ文との共通点と相違点―」(『筑紫語学論叢Ⅲ―日本語の構造と変化―』風間書房)*、「上代におけるモノナリ文の用法と構造」(『坂口至教授退職記念 日本語論集』創想社)*、「語順から見た強調構文としての上代「―ソ―連体形」文について」(『日本語の研究』5-3)*ほか。
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