学界展望 日本語の歴史的研究 2025年1月〜6月
(辻本 桜介)
目次
3.位相・文体
今期、藤井俊博『和漢混淆文の生成と展開』(和泉書院、2月)*が出た。本書のあとがきによれば、「和漢混淆文」を書名(主題)として持つ研究書として初めてのもののようである。本書の前半では、漢語を和語に直訳することで生み出された、いわゆる「翻読語」のうち「きたる(来至)」「へゆく(経行)」「おしはかる(推量)」など、同義的な動詞の組み合わせから成るものに注目し、『万葉集』『源氏物語』などを調査する。和語では同義的な結合による「翻読語」は本来的でないゆえ、そのような例は元になる漢語が存在するケースが多いという事実を踏まえた着想で、上手い切り口だと感じた。
個別の論考も見ておこう。大川孔明「平安時代語の性差に関する計量的考察」(『愛知県立大学日本文化学部論集』16、3月)*は古代から中世の和文作品において、男性語/女性語という区別の明確な漢語は存在せず、作者の言語観によって、作者と同性の登場人物であれば地の文と類似した漢語が、異性であれば異なる漢語が選択される、という興味深い事実を指摘している。作者不明の作品に関して、作者の性別を推定するのにも役立ちそうである。
後藤英次「中世後期~近世初期の古記録(日記)における家系と文体」(『中京大学文学会論叢』11、3月)*は、摂関期の古記録に関して、家系ごとの文体があるという峰岸明の作業仮説に導かれつつ、中世後期から近世初期の山科家・九条家(どちらも藤原北家を祖とする)の日記に見られる書式・用語等を観察する。
今野真二「古活字版をよむ」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』46、3月)*は慶長8年古活字版『太平記』において訓点を施さない状態の漢文式表記が和文の中に出現することに触れ、「まさしく文字化における「和漢混淆」というのがふさわしく」と評する。
4.文字・表記
文字・表記に関する論考は、仮名を扱うものが目立ったように思うが、ともかく古い時期を扱うものから見て行こう。
山本久「和化漢文における借字表記語彙」(『日本語学論集』21、3月)*は「目出(めでたし)」など語義と字義が対応しない〝借字表記語〟を15語選定し、和化漢文において使用され始める時期と、「候」使用文書への偏りの程度との関連について論じる。和化漢文に疎い筆者としては、その調査方法、分析の例としても参考になる。
今野真二「日本語におけるテキストの標準設定—本行と振仮名行—」(『語彙史』)*は、従来の研究で振り仮名を「本文」と呼び、振仮名の当てられた漢字と区別する向きがあることに疑義を呈し、右縦書きの標準設定(デフォルト)を「本行+左右の振仮名行」と見た上で、振仮名行を注釈行と見ることを提案している。
久田行雄「近世俗文学における使用仮名字体の通時的変化」(『国語論集』22、3月)*は、仮名草子・浮世草子・黄表紙・合巻など近世の俗文学作品の仮名字体を調査し、どの作品にも共通して使用される仮名字体の存在と、仮名字体の種類の減少の過程を詳細に示す。氏は他に、主に近代において「女文字」という用語の使用状況を精査した久田行雄「近代資料を対象とした「女文字」考」(『国語探究』6、3月)*もあった。近世の仮名字体の変遷に関わるところでは、市地英「享保七年『官刻六諭衍義大意』の平仮名字体」(『弘前大学国語国文学』46、3月)*も出て、手習本として奨励された『官刻六諭衍義大意』の仮名字体を調査することによって、享保期の子供たちがどのような仮名字体の教材で字を学んだかに迫っている。
山田健三「書記モード革命としての〈平仮名口語文〉—平仮名口語憲法成立を準備した書記モード史実態—」(『信州大学人文科学論集』12-2、3月)*は高等小学読本におけるカタカナ文の減少、カタカナ文語文の平仮名文語文化が見られることなどを取り上げ、多様な書記モードの喪失について論じる。
5.音韻・音声・アクセント
音韻史は筆者には難しいが、以下のように漢字を扱うものが多かったようである。
加藤大鶴「『和漢朗詠集』鎌倉期加点本の漢語声点」(『国語と国文学』102-2、2月)*は『和漢朗詠集』の、相互に直接的な書写・移点の関係が無さそうな6伝本を選び、漢字の声点を緻密に調べ、『広韻』と比較しながら日本語化の状況などを見ている。門外漢の筆者では理解の及ばない部分が多いが、それでも学ぶところは多い。
山田昇平「漢語接尾辞の濁音化条件—中世末期の「者」から—」(『語彙史』)*は、中世末の「−者(シャ・ジャ)」が連声濁環境では濁音化するが、前部要素の非語頭に濁音が入る場合(「分限者(Buguenxa)」など)は濁音化しにくいという事実を指摘し、現代語の「−者」の濁音化のあり方と異なっていたことについても考察している。
小幡幸輝「漢語アクセント史の語彙的検討—中世から現代にかけて—」(『日本語学論集』21、3月)*は、『平家正節』所収漢語、SP 盤落語資料所収漢語のアクセントを観察し、現代にかけてのアクセント核の有無の変化、アクセント型の変化を観察する。
大島英之「中世末に常用された漢字音—リスト作成の試み—」(『日本語学論集』21、3月)*は、呉音・漢音の音形対立の実態を、「色葉字平他」類の韻書(大東急本・龍門本)、及び『落葉集』の二篇(色葉字集・小玉篇)という4種の資料で調査し、さらに日葡辞書での掲出例数も併せて示す。漢音が伸長する過程の一局面を見て取ることができる。本論文は、中世末期の資料において呉音と漢音のどちらで読むべきか迷う漢字に出会ったときにも参照すべきだろう。
佐々木勇「「資料横断的な漢字音・漢語音データベース」における用例所在の重要性」(『国語教育研究』66、3月)*は現在拡充が進む「資料横断的な漢字音・漢語音データベース」(早稲田大学のサーバーで公開中)の現状と目指す方向を示す。「研究結果は、追試できなければならない。」(p.37)という一言には、非常に強く共感するものがある。
6.研究資料
国語史研究に資する資料の発掘・紹介は常に一定のペースで進められているような印象がある。今期は抄物とキリシタン資料を扱ったものが目立ったように感じる。
著書としては清水康行(著)・鈴木弘光・小柳智一・山東功(編)『速記と録音と日本語の近代』(くろしお出版、5月)*が出た。これは、2024年に逝去した著者の研究業績のうち近代の速記・録音に関する22編の論考がまとめられたものである。
以下、古代から順に見て行こう。
小助川貞次「成簣堂文庫蔵周礼鄭注について」(『訓点語と訓点資料』154、3月)*は、周礼が現存古写本に恵まれないなかで、成簣堂文庫蔵本は72行のみとはいえ貴重な存在として注目され、これまで知られている10世紀加点の漢籍訓点資料より加点時期が古い可能性があるとする。その内容は難解な上、加点態度も微細なようだが、是非とも解読文を公表して頂きたく思う。
田上稔「『月令抄』三本」(『女子大国文』176、1月)*が紹介するのは清原宣賢による『礼記』「月令」の抄物で、月令本文を見出しとして、漢字カタカナ交じりに『礼記正義』からの引用を付すという形式を基本とする。文語的な文体だが、中世の口頭語も入り混じっているようで、中世後期の国語資料として今後活用されることが期待される。山田尚子「宮内庁書陵部蔵『六韜諺解』について—慶應義塾図書館蔵『六韜私抄』との関わりから—」(『成城国文学論集』46、3月)*は、書陵部本『六韜諺解』が林羅山の撰述ではなく、清原宣賢の講述を筆記した抄物(聞書)の一伝本であることを指摘する。抄物の翻刻としては、奥山光・小池俊希・山本久・王竣磊・小幡幸輝・竹林栄実・岩﨑凜太郎・加藤輝久・康凱欣「東大国語研究室蔵『玉塵抄』の翻刻(六)」(『日本語学論集』21、3月)*が出た。翻刻内容は80頁近くに及んでおり、見逃せない言語量である。
中野遙「キリシタン版ローマ字本「言葉の和らげ」類の語釈側の漢語について—キリシタン版辞書類との対照を中心に—」(『語彙史』)*は、『サントスの御作業』『ドチリナキリシタン』などに付された「言葉の和らげ」と呼ばれる語彙集が、漢語を見出し語としてその語義を基本的に和語で説明するものであるが、一部の漢語も説明に使用されており、そのような漢語は『日葡辞書』等の日本語注記でもよく使用されるような、和語同様の平易さを備えるものであったとする。山田昇平「『サントスの御作業』にみるキリシタン版ローマ字正書法の成立過程」(『訓点語と訓点資料』154、3月)*は、「Teivŏ」と「Teiuŏ」のように v と u の使い分けが揺れる例、「banmin」と「bammin」のように n と m とで撥音表記が揺れる例を試金石として、『サントスの御作業』の正書法を検討し、巻1と「和らげ」は一定の方針が取られ、巻2は不統一(双方の表記が見える)であることを指摘し、後から出版された巻1における正書法の採用が、「和らげ」の編集作業を契機とするものだったと見る。『サントスの御作業』を使用した日本語研究においては、この点を知っておくべきだろう。王子妍「『落葉集』「色葉字集」定訓についての再検討—「いろは韻」の『広益以呂波雑韻刊誤』との比較を中心に—」(『表現技術研究』20、3月)*は、キリシタン版の『落葉集』所載の国語辞書「色葉字集」が、同じく『落葉集』所載の漢和辞書「小玉篇」と同様に、意識的に定訓を採用したものであることを確認している。
久保田篤「持明院基輔『仮字遣』の仮名遣い説明」(『成蹊大学文学部紀要』60、3月)*は、1706年成立と見られる仮名遣書『仮名遣』の内容を詳しく紹介する。簡潔な記述を指向するもので、当時どのような仮名遣いの問題が注目されていたかを知る有用な資料だという。
彦坂佳宣「大黒屋光太夫の日本語」(『語彙史』)*は、伊勢出身の大黒屋光太夫の言葉が収録されていると思われる「パラス辞典」「魯西亜語類」などの資料を使って、光太夫の使った語彙・文法を分析する。
櫻井豪人「『類聚紅毛語訳』の編纂方法の再検討—『波留麻和解』による見出し語の増補—」(『語彙史』)*は、日本初の意義分類体日蘭対訳単語集である『類聚紅毛語訳』が、宇田川玄随『西洋医言』や青木昆陽『和蘭文字略考』など従来指摘されている資料だけでなく、『波留麻和解』の語彙が取り入られていることを明らかにする。
7.おわりに
〝事例研究〟という言葉があるが、これは〝何かの一端〟を見ようとするもののはずである。何の一端なのか、ぼんやりとでも見えているものの話が書かれていなければ、その論文の価値がいまひとつわからないことも多い。今期、筆者の専門にこだわらず、さまざまな分野の論考を眺めていてそのような学びを得ることが出来た。感謝するとともに、要領を得ず、長々と綴った展望記事になったことを心よりお詫び申し上げる。
辻本桜介(つじもと・おうすけ)……論文に「理由節を形成する訓点語の複合辞「をもちて(をもて・をもつて)」について」(『文学・語学』240)*、「助詞イと存在前提—訓点資料の用例を中心に—」(『国語国文』92-7)*、「古代語の複合格助詞「かけて」について」(『解釈』68-11, 12)*ほか。
学会展望 日本語の歴史的研究
2025年7月〜12月は、2026年7月頃掲載予定です。
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