「軍記物語講座」によせて(1)
村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」
参考:アサヒペンタックスS2
Hiyotada [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で
まず撮影機材。各地へ行って撮影するのには身軽な方がいい。折よくポータブルの複写スタンドがLPL(現在も複写スタンドと引伸機専門業者として存在)から発売された。小型の木製トランクにスタンド一式とカメラが格納できるものであった。置き台はラジオパーツ屋でアルミ板を二枚買って折り目を布でつないだ。これを持ち歩いて所蔵者に願い出て、寛容さにかまけて撮影させてもらったのである。ネガ(複写用のミニコピーフィルム。コストの点で一〇〇フィート巻きを自分で切ってフィルムケースに詰めたことも何度かある)の現像は、信頼のおけるコピーフィルム現像を取扱ってくれる写真屋に依頼した。撮影で最も気をつけなければならないのが紙葉のめくり飛ばしである。随分気を付けたが、一度だけあった。恐る恐る文庫に再撮影を願い出たところ、同情してくれた文庫主任がその個所を業者に撮影・焼付けの依頼をしてくれた。それ相応の費用は払ったが助かった。
筆者の使用していたLPLの複写スタンドと置き台
さて印画紙への焼付け。これは自宅でした。といっても暗室があったわけではない。田舎の明治時代建築で、傾きかけた二階建ての二階、八畳間を夜間雨戸を閉め切って星や月明かり(店の明かりや街灯はなかった)を遮り、隅にあった低い物入れの付いた一畳足らずの板の間を処理空間に仕立てて、LPLの三五ミリ専用の引伸ばしアタッチメント(フジなどの引伸機は高価で手が届かなかった)を複写台に取り付け、現像・停止・定着のパッドの三つ(写真用でなく、食品盛り付け用のホーロー引きトレイ)を並べて、安全光(印画紙が感光しない橙色のランプ)のもと一枚ずつ焼き付けた。フジや三菱のコピー用の印画紙(A五判、五〇〇枚入りの箱単位で入手)を使い、丁揃えのためにナンバリングを打ったのだが、一晩で二〇〇〜三〇〇枚ぐらいのテンポだった(一度昼間に処理し、八〇〇枚ほど焼いたのが最高である)。印画紙の水洗いは風呂でした。井戸水をモーターで汲み上げ、チョロ出しするので水道代はかからない。水洗いを充分しないと茶色に変色するが、半世紀たった今も印画は健在である。乾燥は畳の上に新聞紙を敷いて並べた。半乾きを重ねて百科事典を重しに平らにした。撮影の出来ない龍門文庫へは春夏十数回かよって類似の本に異同を記入した。万法寺本曾我物語は著者による正誤表を古典文庫主宰の吉田幸一博士から入手して使用した。
このようにして、所蔵者の寛容により、曾我物語と義経記の写本、古活字版から主要整版本各種、さらには幸若舞曲諸本の本文を網羅できた。最後にはペンタックスS2はスローシャッターの減速歯車が摩耗して時々シャッタースピードが狂い、LPLの引伸機ボディはガタがきて捨てた。こうしたドタバタの末、曾我物語は校本を作って積み上げたが、当初の期待に反してがっかりする結果しか出なかった。
諸本の本文入手を志してから半世紀たった現在、ネット環境とデジタルシステムの急速な発展に伴い、国文学研究資料館はじめ各機関の資料提供の方法も媒体まで変わって、本文比較には飛躍的に便利になった。皮肉にも、困難さの減った本文比較の結果からは、語りによる本文の成長展開を論ずる可能性は空しくなった。小生が曾我物語や義経記の本文比較でその片棒を担いだといわれるならばしょげるしかない。ただ、今でも当時の貧乏だったが夢だけはあり、身軽に動き回れたころを懐かしく思い出す。おそらく当時本文を扱っていた研究者には経験的に共感してくれる所が多いはずである。国文学が肉体労働を伴っていた頃の話。
名古屋大学大学院文学研究科博士課程中退、文学博士。
静岡県立女子短期大学講師・助教授、国文学研究資料館助教授・教授、豊橋技術科学大学教授、名古屋工業大学教授、名古屋大学教授、大谷大学教授を歴任。
松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻
第1巻『武者の世が始まる』 2019年11月刊
第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊
第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年 9月刊
第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊
*各巻仮題・価格未定。