「軍記物語講座」によせて(1)
村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」

2019年9月の『軍記物語講座』(全4巻)刊行開始に先立ち、軍記物語研究にまつわる文章を随時掲載していきます。第1回は、元名古屋大学教授の村上學氏です。ネット環境とデジタルシステムが確立される以前、どのようにして本文を入手していたのか。研究史の一頁がひもとかれます。

国文学研究が肉体労働であったころ
 
村上 學  
 
 
 今から半世紀前の昭和四一年秋、静岡県立女子短大国文学科の文化祭で曾我物語文献展が催された。中川芳雄教授の指導によるものであった。充実した展示だったが、特に目を惹いたのは曾我物語の太山寺本と本門寺本の実物が出展されていたことである。県文化財審議委員たる中川教授の働きによるものであった。当時同校の浜松教場に就職したばかりの小生にとってはこの上ない刺激であった。その頃横山重翁の厚意により修士論文で神道集巻九を手掛かりとして諸本整理にメドをつけ、それと表記と本文に共通性の高いとされていた真名本曾我物語本文と、それから展開したとされていた仮名本の展開の様相を知りたいと思っていたからである。
 
 当時曾我物語は、義経記とともに歴史社会学派からは「伝記文学」、すなわち変革の時代を表現しない準軍記物語として関心が薄く、一方民俗学派は怨霊鎮魂を目的とするという発生論に目を向けていて、両派ともに諸本には関心が薄かった。後発の研究者が諸本論の空白を埋めるチャンスが大であったのである。ただ当時の小生にはそんな大それた気迫も展望もなかった。ただ馬車馬的に走っただけである。そのドタバタぶりを振り返ってみたいというのがこの一文の中身である。
 
 まずは諸本の所在と本文の入手。真名本の妙本寺本と本門寺本は展示以前に角川源義博士のお仕事の手伝いをして写真で目に触れていたが、仮名本はとりあえず『国書総目録』の曾我物語、ついでに義経記の項目に記載の諸本(版本とも)すべての実見を志し、可能な限り写真撮影を願い出ることにした。この当時各地の図書館・文庫は資料の扱いに寛大で、自写(自分で撮影すること)を認めてくれるところが多く、貧乏書生にとってはありがたいことであった。更に当時の写真撮影の機材の進化にもたすけられること大であった。すなわち一眼レフの発明と進化である。
 
 一眼レフ発明以前は、三五ミリレンジファインダーカメラ(ライカ・キヤノン・コニカなど)による撮影手段はあったが、写角と露出を決め、カメラを被写体と垂直になるように設置して物差しでフィルム面との距離を測り、レンズの焦点目盛を合わせるなど煩瑣な手続きを必要としたうえ、しかも撮影結果はネガを現像するまでは判らないという状況であった。業者撮影は別として、数枚の撮影を除き、全巻撮影などは普通の研究者が手を出せるものではなかったのだが、一眼レフ(アサヒペンタックスS2など)の開発と普及により、これらの難点は一挙に解決した。といっても問題は費用である。文庫側に複写を依頼するのはもちろん、自写フィルムの印画紙焼付けを写真屋に依頼すれば莫大な費用がかかる。コストを抑えるには自写と、紙焼きも自分で作成する以外にはない。そこで田舎者のドタバタが始まった。
 


参考:アサヒペンタックスS2
Hiyotada [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

 まず撮影機材。各地へ行って撮影するのには身軽な方がいい。折よくポータブルの複写スタンドがLPL(現在も複写スタンドと引伸機専門業者として存在)から発売された。小型の木製トランクにスタンド一式とカメラが格納できるものであった。置き台はラジオパーツ屋でアルミ板を二枚買って折り目を布でつないだ。これを持ち歩いて所蔵者に願い出て、寛容さにかまけて撮影させてもらったのである。ネガ(複写用のミニコピーフィルム。コストの点で一〇〇フィート巻きを自分で切ってフィルムケースに詰めたことも何度かある)の現像は、信頼のおけるコピーフィルム現像を取扱ってくれる写真屋に依頼した。撮影で最も気をつけなければならないのが紙葉のめくり飛ばしである。随分気を付けたが、一度だけあった。恐る恐る文庫に再撮影を願い出たところ、同情してくれた文庫主任がその個所を業者に撮影・焼付けの依頼をしてくれた。それ相応の費用は払ったが助かった。


筆者の使用していたLPLの複写スタンドと置き台

 さて印画紙への焼付け。これは自宅でした。といっても暗室があったわけではない。田舎の明治時代建築で、傾きかけた二階建ての二階、八畳間を夜間雨戸を閉め切って星や月明かり(店の明かりや街灯はなかった)を遮り、隅にあった低い物入れの付いた一畳足らずの板の間を処理空間に仕立てて、LPLの三五ミリ専用の引伸ばしアタッチメント(フジなどの引伸機は高価で手が届かなかった)を複写台に取り付け、現像・停止・定着のパッドの三つ(写真用でなく、食品盛り付け用のホーロー引きトレイ)を並べて、安全光(印画紙が感光しない橙色のランプ)のもと一枚ずつ焼き付けた。フジや三菱のコピー用の印画紙(A五判、五〇〇枚入りの箱単位で入手)を使い、丁揃えのためにナンバリングを打ったのだが、一晩で二〇〇〜三〇〇枚ぐらいのテンポだった(一度昼間に処理し、八〇〇枚ほど焼いたのが最高である)。印画紙の水洗いは風呂でした。井戸水をモーターで汲み上げ、チョロ出しするので水道代はかからない。水洗いを充分しないと茶色に変色するが、半世紀たった今も印画は健在である。乾燥は畳の上に新聞紙を敷いて並べた。半乾きを重ねて百科事典を重しに平らにした。撮影の出来ない龍門文庫へは春夏十数回かよって類似の本に異同を記入した。万法寺本曾我物語は著者による正誤表を古典文庫主宰の吉田幸一博士から入手して使用した。

 このようにして、所蔵者の寛容により、曾我物語と義経記の写本、古活字版から主要整版本各種、さらには幸若舞曲諸本の本文を網羅できた。最後にはペンタックスS2はスローシャッターの減速歯車が摩耗して時々シャッタースピードが狂い、LPLの引伸機ボディはガタがきて捨てた。こうしたドタバタの末、曾我物語は校本を作って積み上げたが、当初の期待に反してがっかりする結果しか出なかった。

 諸本の本文入手を志してから半世紀たった現在、ネット環境とデジタルシステムの急速な発展に伴い、国文学研究資料館はじめ各機関の資料提供の方法も媒体まで変わって、本文比較には飛躍的に便利になった。皮肉にも、困難さの減った本文比較の結果からは、語りによる本文の成長展開を論ずる可能性は空しくなった。小生が曾我物語や義経記の本文比較でその片棒を担いだといわれるならばしょげるしかない。ただ、今でも当時の貧乏だったが夢だけはあり、身軽に動き回れたころを懐かしく思い出す。おそらく当時本文を扱っていた研究者には経験的に共感してくれる所が多いはずである。国文学が肉体労働を伴っていた頃の話。


村上 學(むらかみ・まなぶ)
1936年生。
名古屋大学大学院文学研究科博士課程中退、文学博士。
静岡県立女子短期大学講師・助教授、国文学研究資料館助教授・教授、豊橋技術科学大学教授、名古屋工業大学教授、名古屋大学教授、大谷大学教授を歴任。
著書に、『赤木文庫本義経物語』(角川源義と共著、角川書店、1974年)、『舞の本 毛利家本』(横山重と共著、角川書店、1980年)、『曽我物語の基礎的研究 本文研究を中心として』(風間書房、1984年)、『語り物文学の表現構造』(風間書房、2000年)、『中世宗教文学の構造と表現 佛と神の文学』(三弥井書店、2006年)など。
 

松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』      2019年11月刊

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』   2020年 5月刊

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年 9月刊

  第4巻『乱世を語りつぐ』      2020年 3月刊

   *各巻仮題・価格未定。