学界展望 日本語の歴史的研究 2019年7月〜12月 
(深津周太)

日本語研究者が「歴史的研究」2019年後期の動向を振り返ります。


【学界展望】
日本語の歴史的研究 2019年7月〜12月
深津周太(静岡大学講師)

 

 近年、歴史語用論のような若い分野の広まりやコーパスの整備によって日本語史研究のあり方も多様化の途を辿っている。同じ対象・似た現象を扱っていても、その研究意図は大きく異なるということも少なくない。ここでは、研究の方法や方向性という面に着目し、当該期間における日本語史研究の動向を眺望する。今期は全体的に、最も素朴な作業仮説とも言える〈共時:通時〉に対する自身の立場を明確にした論が目立つように感じられた。また、目に見えて活発化しつつある地域言語を視野に入れた研究が今期も盛んであった。以下、大きく共時的研究と通時的研究に分け、そこに地域差に関するものを加える形で述べていく。

1. 共時的研究/共時ベースの研究

 はじめに、「共時態と通時態を切断してよいか」というソシュール以来の問題に切り込んだ野村剛史「ノダ文の通時態と共時態」(森雄一・西村義樹・長谷川明香編『認知言語学を拓く』、くろしお出版、10月)を挙げよう。野村は共時的記述が抱える問題点を挙げ、通時態を視野に入れることで記述の妥当性が保証される場合もあるとする。本論で扱われるナリ文とノダ文については、歴史的なブランクが確認される両表現に直接の引継関係は想定しがたいとする立場と、構造的な類似・一致を偶然とみなすことは蓋然性を欠くとする立場とがあるが、上述のように通時的説明を重視する野村は後者を支持している。このナリ文:ノダ文問題について前者の立場をとる福田嘉一郎『日本語のテンスと叙法—現代語研究と歴史的研究—』(和泉書院、12月)は、副題に銘打たれた通り、現代語を対照とした理論的研究とそれに基づく分析を行う歴史的研究の二部構成となっている。歴史的研究の多くが現代語研究の知見を援用する中にあって、本書は両作業を一手に担ってみせる。
 通時態を背景に据えながら行われた共時的研究としては、対照的な二本があった。まず、上林葵「関西方言における終助詞的断定辞「ジャ」の機能—マイナス感情・評価の提示—」(『日本語の研究』15-2、8月)は、語形変化の面から論じられてきた「ジャ/ヤ」の両形について、現代の共時相における文法・意味的位置づけの差異を明らかにすることで、それがどのような変化であったかを確認する。一方、山田昇平「漢語接尾辞「チュウ」・「ヂュウ」の歴史—中世末・近世初期における—」(『訓点語と訓点資料』143、9月)は歴史的段階の共時相にアプローチし、そこから現代語の状態に至るまでの展開を見通す。当該時期における漢語形態素「中(チュウ/ヂュウ)」のふるまいは清濁によって決定づけられるのではなく語構成上の問題であり、その後現代語に至るまでに清濁差が意味の弁別特徴へとシフトしたと見るものである。
 時代別の視点をとってみると、今期は上代語を対象とした研究が豊富であった。岡村弘樹「上代における自他対応と上二段活用」(『国語国文』88-8、8月)は、自動詞に偏る上二段活用動詞が自他対応形式を生み出さなかった理由を、四段活用をその相手とした場合、最も使用頻度の高い連用形が形態的に重複することに求める。自他対応と活用の関係について大きな方向性を示しながら、個別の動詞への目配りも行き届いた好論だと言える。釘貫亨『動詞派生と転成から見た古代日本語』(和泉書院、8月)では、著者が古代日本語を変革・形成した最大の要因とみなす動詞の機能変化(派生的造語/形容詞転成)に関する議論がなされる。共時的記述にとどめることなく、掬い上げた歴史的事実に対して通時の観点から合理的推論を施す、というのが著者の一貫した研究態度である。本書でも、自身のもつ日本語史観に基づく積極的な価値づけ・解釈の提案がなされており、議論の発展のためにはこうした姿勢も必要であることを教えられる。なお前掲の岡村論文では、釘貫の前著である『古代日本語の形態変化』(和泉書院、1996)の内容に関する重要な再検討も行われている。屋名池誠「続日本紀の「宣命書き」システム」(『芸文研究』117、12月)は、「宣命書き」を三字種(表意表記の大字漢字/小字の万葉仮名/大字の万葉仮名)の書き分けの問題として捉えると、続日本紀の「淳仁・称徳期」とそれ以外の「一般期」における様相は異なるとする。前者には全体を貫く機構群のみならず、語形情報から概念要素(=表意字/仮名大字で表記)であるか文法的機能要素(=仮名小字で表記)であるかを決定づけられない文法化要素(たとえば「アリ」)に対し、文中における他要素との統語論的関係によって表記を決定する「対比的字種選択」の機構を加えたシステムが働いていることが示される。文法史研究の観点からも学ぶことが多い。これら以外にも、上代語を対象としたものには、沖森卓也「活用語由来の訓仮名」(『国語と国文学』96-8、8月)金銀珠「古代日本語の助詞「が」の機能について」(『Trans/Actions』4、11月)などが見られる。
 そのほか丹念な記述的研究として、用例の博捜に基づく小田勝「中古和文における3語以上の助動詞の連接について」(『表現研究』110、10月)や、日葡辞書の資料性に関して意欲的に発信を続ける中野遥「キリシタン版『日葡辞書』の「id est」について」(『訓点語と訓点資料』143、9月)があった。

2. 通時的研究/通時ベースの研究

 まず、文法史研究の実践方法を論じたものとして、小柳智一による書評「吉田永弘著『転換する日本語文法』」(『國學院雑誌』120-10、10月)は、吉田の著作と併せて必読である。書評としては一切の否定的文言を排して文字通り“文句なし”の意を示しつつ、文法史研究の手本となりうる本書の考え方・論じ方を広く知らしめようとする。また、当の小柳が前年に発表した著作(小柳智一『文法変化の研究』、くろしお出版、2018)に対して、今期二名の文法史研究者から出された書評も有益である。衣畑智秀による書評論文(『日本語文法』19-2、9月)は、本書の価値を認めた上で今後を見据えた修正・補足案の提示を行う。現象に対する考え方や整理方法を提案しようとする小柳の意図を汲んだ書評となっており、併せて読むことでより理解が深まる。衣畑は本書の“起こりにくい変化への目配り”を評価するが、これは一般化を目指そうとする昨今の研究において見落とされがちな点であり、重要な指摘だと言えよう。他方、ナロック・ハイコによる書評(『日本語の研究』15-2、8月)では、研究史に対する精緻な目配りの必要性が述べられる。
 小柳智一「副詞の入り口—副詞と副詞化の条件—」(前掲、『認知言語学を拓く』)を真に理解するためには、上記前著の文脈に据えながら読むことが望ましい。小柳による副詞の把握は、様相性と量性を表すもの(A)を典型として中心に据え、その周辺に非典型的な副詞群(B)、さらにその外側に連続的意味を持つ他品詞(C)を配置するというものである。その上で、(C)が(B)へと変化する「副詞化」について意味的条件と統語的条件が提示される。副詞を対象とした研究という点から見ると、副詞の変化事例を類型化し、いわゆる“分析的傾向”の流れに乗せようとする川瀬卓「副詞から見た古代語と近代語」(日本語文法学会第20回大会、12月)の方向性は、ある意味で小柳に対置されるものである。これは両者の副詞に対する認識の違いに起因する。小柳は副詞を他品詞と連続しながら緩やかなまとまりをもつものと捉えるため、その歴史的研究の方向は自然と“副詞への変化”へと展開することになる。一方、川瀬はあくまで副詞という枠内で議論を進めることを提案したものであり、こちらは必然的に“副詞の変化”が研究対象となる。今回、二つの異なる研究の枠組みが提示されたことで、自身の立ち位置を明確にした副詞史研究が増えることが期待される。
 文法化の事例研究も蓄積され続けており、今期の劉小妹「近代における名詞「アカツキ」の文法化について—『日本語歴史コーパス明治・大正編Ⅰ雑誌』の調査による—」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』48、12月)もその一つに数えられる。ここで扱われる「あかつきには」のように文法化形式であることが外形的に自明である場合、“文法化が起こったこと”を前提とした立論がなされることが少なくない。結果として論の焦点は個別事情を求めやすい意味変化の部分に置かれがちであるように思う。こうして得られる結論は、精確な語史記述の達成という点で有意義である一方で、文法(変)化研究への寄与という点ではその価値付けが難しい。同じく「文法化」を冠する論に青木博史「補助動詞の文法化—「一方向性」をめぐって—」(『日本語文法』19-2、9月)があるが、二つの論を比較してみると研究意図が大きく異なっていることがよくわかる。本動詞と補助動詞の関係において、前者から後者へという意味変化の「一方向性」が素朴には想定される。しかし実際には使用頻度が高く意味的に抽象化している補助動詞の方が新たな意味を獲得しやすい環境にあり、先んじて意味変化を果たすケースがあるという。これは文法化の方向と意味変化の方向を同一視してはならないということを論じており、まさに日本語における文法化そのものを論じた“文法(変)化の研究”と言ってよい。
 命令形式から条件形式への変化を二文連置の再分析による統語的変化として捉える北﨑勇帆「命令形式から条件形式へ」(『国語と国文学』96-7、7月)も同様の観点をもつ。当該変化を類似する現象群に位置づけ、それら対人的意味をもつ文末形式が文中に位置するようになる事例は文法化が示す意味的な方向性とされる「間主観化」に反する点で異質であるとしたこの論も、やはり文法(変)化そのものの問題へと舵を切ったものである。
 上記論考以外にも、各時代における形容詞生成の仕方を丁寧に整理しながら、形容詞化接尾辞における形容詞派生全体の中に当該形式を位置づけようとする村山実和子「接尾辞「ハシ(ワシイ)」の変遷」(『日本語の研究』15-2、8月)や、「恐縮」という基本的意味をもつ「どうも」が語用論的に配慮表現化し、実際の使用現場において謝罪・感謝・挨拶に結び付いていくことを論じた川瀬卓「感謝・謝罪に見られる配慮表現「どうも」の成立」(『近代語研究』21、9月)などがある。

3. 地域差に関する研究

 今期の重要なトピックとして金澤裕之・矢島正浩編『SP盤落語レコードがひらく近代日本語研究』(笠間書院、8月)の刊行があった。SP盤落語レコードの文字化資料公開に先立ち、同時代の他資料との比較/近世語との異なり/語彙的特徴といった面からその資料的価値が示され、さらに実際のデータを用いた実践報告がなされる。本書の価値を正しく受け取るためには、編者の一人である矢島による解説を道標とすべきである。そこには個別に得られた成果群が“変化は東において先行する”という方向を指し示すことや、各論がどのような立場から構築されているかといった点が矢島ならではの視点から詳細に整理されており、本書が“論集”という形態をなすことの意義を知ることができる。
 近世後期の尾張方言に焦点を当てたものには、三宅俊浩「近世後期尾張周辺方言におけるラ抜き言葉の成立」(『日本語の研究』15-3、12月)森勇太「近世後期洒落本に見る行為指示表現の地域差—京・大坂・尾張・江戸の対照—」(『日本語の研究』15-2、8月)があった。前者は、「ラ抜き」現象が尾張方言において先んじて現れることに着目し、“尊敬用法レル・ラレルの運用実態”、“存在動詞オルの頻用”、“ラ行五段動詞の可能動詞化の定着”という条件下にあった当該方言だからこそ「ラ抜き」が起こったと説明する。後者は、行為指示表現を運用する際の言語形式の使い分け方に焦点を当て、京・大阪と江戸が対照的な傾向を見せることを確認した上で、その中間地点にあたる尾張の運用は江戸に近いものであると位置づける。興味深いのは、「近世後期」「尾張方言」という共通項はあるものの、両研究が指向するものが全く異なる点である。三宅が「方言史料を利用した歴史的研究」だとすれば、森は「歴史的資料に基づく方言研究」とでも言うべきものだろう。また、三宅の場合は特定形式を対象とするため雑俳資料をも活用できるが、森のように行為指示表現の運用を見ようとすると当然まとまった会話文が必要となるため洒落本に依拠せざるを得ないという事情も見えてくる。研究目的に即した資料選定という点でも両研究のあり方は示唆的である。
 このように地域差に焦点化した論考があった一方で、村上謙「「中央語」という思想—「中央語」は「国語」でも「標準語」でもなく、また、「地方語」の対概念でもないことについて—」(『近代語研究』21、9月)は、「中央語」とは特に通時的研究において研究者が意識的/無意識的にもつ「日本語の歴史を一筋の線として描きたい」という研究思想を具体化するための説明概念にすぎない=実在するものではない、ということを改めて示す。その上で「中央語」をどのような意図で用いるか、どのような思想に基づくかについて自覚的であることが促される。殊に近世以降を対象とする日本語史研究者にとっては、いったん歩みを止めて傾聴しなければならない内容となっている。

 研究のあり方がそうであるように、研究者それぞれが日本語史に対して抱く興味のあり方もまた様々であろう。すぐれた研究に触れたとき、誰しもが自身の視野の限界を思い知らされたり、隣の芝生が青く見えたりした経験をもつのではないかと思うが、関心の生み出され方は畢竟、個人の気質に由来するのであって意識的に変えられる部分ではない。ただし、それをどのように論じるかは次の段階の課題であり、そこには任意の方法論を働かせることが可能なはずである。今回の展望では、そのような観点から見て重要だと思われるものを取り上げた。もとよりこれも一つの方向性に基づいた見方に過ぎず、文脈に沿った論の選択を行った都合で挙示しきれなかった論も少なくない。ご寛恕願えれば幸いである。


深津周太(ふかつ・しゅうた)……論文に「「大した/大して」の成立と展開」(『国語と国文学』96-2)、「動詞「申す」から感動詞「モウシ」へ」(『国語国文』82-4)、「近世初期における指示詞「これ」の感動詞化」(『日本語の研究』6-2)ほか。


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