「軍記物語講座」によせて(13)
木村尚志「後嵯峨院時代の和歌」

軍記物語研究にまつわる文章の連載、第13回(最終回)は、和洋女子大学人文学部准教授の木村尚志氏です。
武士が権力を握るなか、後鳥羽院、土御門院、後嵯峨院は皇統権威の失墜を和歌界の領導者となることで埋め合わせてきました。『続後撰和歌集』と『続古今和歌集』が編纂された後嵯峨院時代、どのような歌がよいとされていたのでしょうか。藤原定家、家隆、為家ら御子左家の歌学から探ります。


後嵯峨院時代の和歌

木村 尚志 

1. はじめに
 後嵯峨院(在位1242-46、院政1246-68)は、白河院1[注1]『後拾遺集』の勅命と『金葉集』の院宣を出した。を先蹤に仰ぎ、藤原定家の子で御子左家を継ぐ為家を撰者に任じて『続後撰集』『続古今集』という2つの勅撰集を編んだ。
 承久の乱の後、朝廷の力が凋落する中、武士の台頭の歴史を回顧すべく作られたものが『平家物語』ならば、それと時期を同じくする後嵯峨院による2つの勅撰集の編纂は、どのような意味を持つのだろうか。

2. 摂取してよい近き世の歌
 後嵯峨院時代の歌合のひとつの場面を取り上げたい。歌合とは主催者を中心に左方、右方に分かれ、歌題に従って詠んだ和歌を一首ずつ出し合って、勝負を争う和歌行事である。建長3年(1251)9月、後嵯峨院仙洞で、『続後撰集』の成功を祈念して歌聖柿本人麻呂の画像を供え祭った歌合が催された。

   六十五番(暮山鹿)
    左               前太政大臣
  夕されば妻ごひすらし高砂の尾上にひびくさを鹿の声
    右              民部卿為家
 夕暮はおのがすみかの山にてもなほうき時と鹿ぞ鳴くなる

「尾のへにひびく鹿の声」、高く聞ゆる由申し侍りしかども、のちの歌に勝字をつけられ侍りき。
此の番、はじめは左の勝にて侍りき。後日に民部卿為家給はりて言葉をかき侍る時、身にとりてよき歌なり(私にとってよい歌である)とて、右に勝の字をつく。しかるを、人々申していはく、「おさへて勝字申しうくること(押しとどめて勝の字を付けることをお願い申し上げること)しかるべからず。そのうへ、古今に、
本歌B 世を捨てて山に入る人山にてもなほうき時はいづちゆくらん
此の歌の心をとりて(意味内容を本歌取りして)、建保二年[順徳院]の内裏の歌合に、秋の鹿といふ題にて、左近権中将雅経朝臣かくつかうまつれり。
 思ひ入る山にてもまたなく鹿のなほうき時は秋の夕暮
其の時、今の判者の父定家卿ことにほめたる歌なり。それを今かくたがへず侍ることこそ、ただ人の詠みたらましかば、いかばかりの僻事〈ひがごと〉とか沙汰もあらまし」と、人々申しあひ侍り。(影供歌合)

 衆議判に基づき為家が後日判詞を記し、それに不満を持つ者が反論を加えたのが判詞の3行目以下である(穂久邇文庫本の独自本文)。為家が「身にとりてよき歌なり」と主張したため当初の判が覆され、の勝ちとなった。これを不服とする3行目以下の陳状は、当時にとって近代の歌であるとの類似をの歌の短所と指摘する。しかし、本歌Bとの関係ではどうか。
 山里の鹿の鳴く音の悲しさは、牡鹿が妻を求めて鳴くとされる鹿の思いと山里にいる人の思いの重なりにある。本歌Bでは作中主体が自分以外の鹿や人の心情を思いやるのに対し、では鹿の心情を序詞的に用いて作中主体自身の心情を詠む。本歌Bの遁世者の行き着く「すみか」を問う「いづちゆくらん」を鹿の「すみか」という言葉で受け止め、本歌Bの心により緊密に応えながら趣向を変えている。本歌Bの趣向に鹿や夕暮という趣向を継ぎ足したに過ぎない。
 ここでの為家の言動は、自身の歌論書『詠歌一体』に記す、

歌を読みいだして歌がらを見ん(一首全体の風格を吟味しよう)と思はば、古歌に詠じくらべてみるべし。いかにも歌がらのぬけあがりて清らかに聞こゆるはよきなり。へつらひてきたなげに、やすく通りぬべき中の道をよき(避け)すてて、あなたこなたへ伝はんとしたるはわろき也。(詠歌一体、206~7頁)
すべて少し寂しきやうなるが面白くて、よき歌ときこゆる也。詞少なくいひたれど、心の深ければ多くの事どもみなそのうちに聞こえて、ながめ(詠吟し)たるもよき也。(同、208頁)

といった教えを行動に移したものであった。
 これは院政期以来の歌論の流れを汲むものである。鴨長明の『無名抄』には師である俊恵の、

よろづのこと極まりてかしこきは、淡くすさまじきなり(少し寒々しいのだ)。この体は、やすきやうにて極め難し。(89頁)

という言葉が見える。そうした歌論の伝統に則しつつ、古歌を印象的に今の表現に結びつけることは、勅撰集の成功を祈願するこの歌合における為家の課題だったのだろう。

3. 摂取すべきでない詞
 宝治元年(1247)に後嵯峨院が主催、為家が判者を務めた『院御歌合』〈いんおんうたあわせ〉に次のような番がある。

  四十四番(初秋風)左            権大納言公基
いとどまた身にしむ風の吹くなへにはやしられぬる秋の空かな
  右                     為教朝臣
うたたねの衣手すずし吹く風の目には見えずて秋やきぬらむ

左ふくなへに身にしられぬるなど、たけある(壮大で格調のある。「たけ」は「長」と書く)さまに侍るにこそ。
吹く風の目に見えずといへること、ことに不庶幾(望むべき歌のあり方ではない)之由、庭の教侍りしをいま思ひいだして侍れば、以左為勝。 (87、88)

 為家は子の為教の歌の下線部の言葉「吹く風の目には見えず」の使用を禁ずる定家の庭訓を想起して負けとした。これは『古今集』の紀貫之の歌、

世中はかくこそ有りけれ吹く風のめに見ぬ人もこひしかりけり(恋上・475、定家八代抄・恋一)

を本歌とするもので、平安期の和歌には確認できないのだが、鎌倉期以降になると本歌取りで詠まれた例は相当数にのぼる。
 建保4年(1216)3月、後嵯峨院の父土御門院の初期の作品『土御門院御百首』の中から後に『続古今集』に入集した歌に、

ゆふされば籬の荻を吹く風の目に見ぬ秋をしるなみだかな(続古今集・秋上・303・土御門院)

がある。百首では定家の朱点、家隆の墨両点がある。
 『古今著聞集』「和歌第六」の説話には家隆・定家が絶賛した土御門院(「故院」)の当該百首の歌の風格が、後嵯峨院(当院)に受け継がれているとの家隆の言葉が見える。

誠にかの御製は、及ばぬ者の目にも類ひ少なくめでたくこそ覚え侍れ。管絃のよくしみぬる(深く心にしみた)時は、心なき草木のなびける色までもかれに順〈したが〉ひて見え侍るなるやうに、何事も世にすぐれたる事には見しり聞きしらぬ道の事も、耳にたち心にそむは習ひ也。当院の御製も昔者にはぢぬ御事にや。そのゆへはそのかみ御乳母の大納言のもとに渡らせおはしましける比〈ころ〉、はじめて百首を詠ませおはしましたりけるを、大納言感悦のあまりに、密々に壬生二品(藤原家隆の異名)のもとへ見せに遣はしたりけり。二品御百首のはし春の程ばかりを見て、見もはてられず前に置きてはらはらと泣かれけり。やや久しくありて涙を拭〈のご〉ひていはれけるは、「あはれに不思議なる御事かな。故院の御歌に少しもたがはせ給はぬ」とて、不思議の御事に申されけり。(第217話、189頁)

 『続古今集』にはもう一首、承久の乱後、土佐へ配流された直後の土御門院の歌、

    羈中晩風といふことをよませ給ひける 
  吹く風の目に見ぬ方を都とてしのぶも悲し夕暮の空(羈旅・942)

が見える。『土御門院御集』の巻頭歌であり、そこには家隆の、

  先〈まづ〉うち見候より、已〈すでに〉落涙かきくらし候〈さふらひ〉〈おはんぬ〉。善悪すべて不覚候へども、心詞無申限候歟。

との讃辞が続く。
 貫之歌の「吹く風の目に見ぬ」の言葉の使用を認めない定家の庭訓とは、土御門院により印象的な形で新たな命を吹き込まれたこの言葉を、近い時期に詠み出された独創的な表現の使用を禁ずる「制詞」に準じて扱うものではないか。
 『続古今集』にはこの言葉を詠む土御門院の歌が2首入集し、1首は貫之歌とは対照的な男の心離れを嘆く女歌、1首は土佐配流の直後の帰京を願う歌である。「世中はかくこそ有りけれ」の余韻につれて、院の人生を象徴する意味を帯びることになった貫之歌の恋の言葉は、定家をして軽々しい利用を躊躇せしめた。その定家の弟子たちが撰者を務める『続古今集』への2首の入集は、土御門院の歌への畏敬の念に基づくのであろう。土御門院は個人的な形でしか歌を詠んでいないにも拘らず、崇徳院に重なる天皇退位に至る経緯(『増鏡』に詳しい)への「畏れ」も相俟って、隠然たる影響を歌人たちに与えた上皇であった。

4. おわりに

詞なだらかにいひくだし、清げなるは姿のよきなり。おなじ風情なれど、わろく続けつれば、あはれよかりぬべき材木(もっとよい歌を作れたはずの素材)を、あたら事かな(惜しいことだな)と難ぜらるるなり。されば案ぜん折、上句を下になし、下句を上になしてことがら(品格。「こつがら(骨柄)」の音変化)を見るべし。上手といふは同じ事を聞きよくつづけなすなり。聞きにくき事はただ一字二字も耳にたちて、卅一字ながらけがるる也。まして一句わろからんは、よき句混じりても更々詮あるべからず(全くもってそのかいがない)。(詠歌一体、204頁)

 このような一字一句をもゆるがせにしない為家の姿勢は、「聞きにくき」歌の「よかりぬべき材木」は改作し「聞きよくつづけなす」ことを許容した。祖父俊成は『六百番歌合』の判詞で、「撰集などの歌の外は必ずしも避〈さ〉りあふべからず(重複を避けなくてよい)」(恋上・五番・老恋)とする。しかし、為家と対立する好敵手の真観は建長八年『百首歌合』の判詞で、「撰集にいらざらむ歌をば避りあふべき事ならずとぞ六百番歌合俊成卿は判して侍れど、さては歌道狼藉にや(無秩序状態になるのではないか)」(六百二十九番)とこれに反駁している。他人の歌の表現の二次使用によって、歌の「姿」を再生すべしとの考え方には抵抗も多かったわけである。
 後嵯峨院の子で、鎌倉将軍となった宗尊親王(1242-74)は次の歌を詠んだ。

うき身とは思ひなはてそ三代までに沈みし玉も時にあひけり(瓊玉集・雑下・460・「(六帖題をさぐりて、をのこども歌よみ侍りける次に)玉」)

宗尊親王の『文応三百首』には、親王を「三代御秀逸御相伝」と父祖の歌道を継ぐ者とする藤原基家の評語が見える。承久の乱後、長い沈淪の時を過ごした後鳥羽院、土御門院、後嵯峨院3代の皇統は、後嵯峨院の御代に遂に時流に迎えられた。3人の院は権威の失墜を和歌界の領導者となることで埋め合わせてきた。和歌界の領導者の歌への畏敬の念は、定家、家隆、為家による王の述懐性の強い歌への評語にしばしば登場する。その領導者を支える立場として、俊成の晩年以降御子左家は歌の「姿」を中核とした戦略で六条藤家を凌駕し続けてきた。
 後嵯峨院時代の2つの勅撰集のうち、『続後撰集』は『新勅撰集』の「姿すなをに心うるはしき歌」を集め、道を学ぶ人の手本とする方針を院が受け継ごうと意図したものであった(『続後撰目録序』)。しかし、『続古今集』は「一勅撰集としての多様性の極限をさえ示す特異な撰集」2[注2]谷山茂「〔討論会要旨〕中世文学における和歌の意義」Ⅱ(『中世文学』第11号、1966年)。と評される。後嵯峨院が当代を代表する歌人として重んじ3[注3]信実は後世、二条派により『七玉集』と呼ばれ、後嵯峨院が召集した『弘長百首』の7人の作者の1人に、最も低い身分の者として入っている。、晴れの歌から誹諧歌、戯笑歌まで詠みこなした藤原信実は、鎌倉時代の歌学書『野守鏡』に、

おのが姿を様々に詠めばこそ、人の心を種とする義にもかなふ事にては侍れ。(78頁)

と語ったと伝えられる。この集が相当に多様な歌の「姿」を包摂していることはもっと注目されてよい。

 

*和歌の引用は私家集は『新編私家集大成』(古典ライブラリー)、それ以外は『新編国歌大観』(同)に拠った。その他の底本は下記の通り。『詠歌一体』:久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫、1934年)、『古今著聞集』:永積安明・島田勇雄校注『日本古典文学大系84 古今著聞集』(岩波書店、1966年)、『続後撰目録序』:樋口芳麻呂「続後撰目録序残欠とその意義」(『国語と国文学』第426号、1959年9月)、『野守鏡』:佐佐木信綱編『日本歌学大系 第四巻』(風間書房、1956年)。
[注1]『後拾遺集』の勅命と『金葉集』の院宣を出した。
[注2]谷山茂「〔討論会要旨〕中世文学における和歌の意義」Ⅱ(『中世文学』第11号、1966年)。
[注3]信実は後世、二条派により『七玉集』と呼ばれ、後嵯峨院が召集した『弘長百首』の7人の作者の1人に、最も低い身分の者として入っている。
*本研究はJSPS科研費JP19K13059の助成を受けたものである。


木村 尚志(きむら・たかし)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
和洋女子大学人文学部准教授。
著書・論文に、『和歌文学大系38 続古今和歌集』(共著、明治書院、2019年)、「宗尊親王の和歌と『萬葉集』」(『中世文学』第54号、2009年5月)、「宗尊親王の和歌―表現摂取の特質―」(『国語と国文学』第90巻第2号、2013年2月)など。


「軍記物語講座」全4巻
第1巻『武者の世が始まる』 2020年1月刊 本体7,000円
第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 6月刊予定
第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円
第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 5月刊予定 本体7,000円


軍記物語講座によせて
12. 浜畑圭吾「長門本『平家物語』研究小史—その成立をめぐって—」
11. 中村文「歌人としての平家一門」
10. 本井牧子「古状で読む義経・弁慶の生涯―判官物の古状型往来―」
9. 田中草大「真名本の範囲」
8. 木下華子「遁世者と乱世」
7. 堀川貴司「和漢混淆文をどう見るか」
6. 中村文「頼政の恋歌一首―『頼政集』五〇七番歌の背景 ―」
5. 藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」
4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」