学界展望 日本語の歴史的研究 2020年7月〜12月 
(川瀬 卓)

日本語研究者が「歴史的研究」2020年後期の動向を振り返ります。


【学界展望】
日本語の歴史的研究 2020年7月〜2020年12月
川瀬 卓
(白百合女子大学准教授)

 

 2020年は日本も含め世界がCOVID-19の影響を大きく受けた。学会や研究会のオンライン開催が当たり前となり、日本語学会も2020年度秋季大会では初のオンライン開催となった。昨今の社会状況で暗いニュースが多くなりがちだが、日本語学会会長の金水敏氏が日本学士院会員に選出されたことは、学界全体にとって大変喜ばしい出来事であった。
 さて、COVID-19に揺れる社会状況において、己の行う研究がどのような意味・意義を持ちうるのかあらためて問われているように思われる。意味のある研究を行うにはどうすればよいのだろうか。研究の方法を見つめ直すという方針のもと、今期における日本語の歴史的研究を振り返りたい。
 なお、筆者の興味関心の偏りと文脈の流れに沿った選択の結果、重要な研究でありながら取り上げられなかった論考も多い。とくに表記史、音韻史、古辞書、日本語学史に関するものにはあまり言及できなかった。バランスに欠いた点があることについてはご寛恕いただければ幸いである。

1. 言語史研究の方法

 まず、文献資料にもとづいて個別言語の歴史を記述し解釈することを目指す、言語史研究の範とすべきものを見ていこう。今期、最も注目されるのは丸山徹『キリシタン世紀の言語学―大航海時代の語学書―』(八木書店、7月)である。イエズス会の活動を通して生まれたキリシタン文献は、日本以外にも、ポルトガル語で書かれた現地語語学書が世界各地に存する。このことを視野に入れ、キリシタン文献語学書を中世日本語の資料としてのみ捉えるのではなく、「大航海時代の語学書」として捉えることの必要性を説く。資料の丹念な解読と、ポルトガル語をはじめとした多くの言語に関する幅広い知識に支えられた考察によって、中世日本語の音韻、16世紀・17世紀のポルトガル語正書法規範、キリシタン文献の成立背景など、多くの重要な問題を明らかにしている。
 文法史分野では、「です」を中心に「丁寧語」の歴史を叙述した青木博史「第Ⅲ部 日本語における丁寧語の歴史」(小川芳樹・石崎保明・青木博史『文法化・語彙化・構文化』開拓社、7月)が必読である。単に理論に当てはめるのではなく、個別言語の歴史に必要十分な説明を与えることが重要であり、それが結果として理論化に対しても寄与するものになりうることを具体的に示す。日本語史を専門としない研究者や大学生、大学院生をも読者として想定されており、日本語史研究入門としても優れた内容となっている。青木博史「「動詞連用形+動詞」から「動詞連用形+テ+動詞」へ―「補助動詞」の歴史・再考―」(青木博史・小柳智一・吉田永弘編『日本語文法史研究5』ひつじ書房、11月。以下、『文法史5』)も言語の歴史叙述のあり方が実践的に示されている。
 また、文献資料と向き合って読むとはどういうことかを痛感させられる名著の一つ、小松英雄『新版 徒然草抜書 表現解析の方法』(花鳥社、10月)が、講談社学術文庫版(1990年刊)に小川剛生氏の解説を付して刊行された。こうした本が再び世に出されるのはありがたい。著者がところどころで語る「〈膝をたたいたときが危ない〉」「真実は、もっと遠くにあるはず」といった戒めの言葉も胸に刻みたい。ほかにも、文献学に関する重要な書籍として、高田信敬『文献学の栞』(武蔵野書院、12月)の刊行があった。

2. 日本語の歴史的研究の基盤となる資料研究

 日本語の歴史的研究にとって、その基盤となる文献資料の資料性を検討する研究は欠かせない。米田達郎『鷺流狂言詞章保教本を起点とした狂言詞章の日本語学的研究』(武蔵野書院、9月)は、あまり重要視されてこなかった鷺流狂言詞章保教本(1716~1724年書写)を中心として、狂言詞章の言語表現を詳細に調査、検討する。園田博文『日清戦争以前の日本語・中国語会話集』(武蔵野書院、10月)は、これまであまり注目されていない日本語・中国語会話集の日本語資料としての可能性を具体的事例とともに示す。
 抄物資料については、古田龍啓「清原良賢講『論語抄』の諸本について」(『訓点語と訓点資料』145、9月)があった。清原良賢講『論語抄』の各諸本の特徴や諸本間の関係性を明らかにするとともに、『応永二十七年本論語抄』を言語資料として扱う際の注意点も指摘している。駒走昭二「レザノフ資料の批判的検討」(『名古屋大学国語国文学』113、11月)は、18世紀末の仙台石巻方言が記された貴重な方言史資料であるレザノフ資料を批判的に検討し、方言史資料として活用するために、資料の限界を見極めることの必要性を説く。資料性を把握するという点では、意志・推量形式の非終止用法に注目してロドリゲスの規範意識を明らかにした北﨑勇帆「『日本大文典』の意志・推量形式と「話しことば」「書きことば」」(『高知大国文』51、12月)も印象的であった。

3. コーパスの利用と資料のデジタル化

 国立国語研究所が開発を進める『日本語歴史コーパス』が、年々充実してきている。その恩恵は計り知れない。とはいえ、集めたデータをどのように整理し意味あるものにできるかは研究者の手にゆだねられていることに変わりはない。松本昂大「中古和文における移動動詞の経路、移動領域の標示」(『日本語の研究』16-3、12月)は、コーパスを活用しつつ、用例の丁寧な分析を行うことで、中古和文における移動が行われる場所の格標示を明らかにするとともに、中世以降の変化に対する見通しも示している。
 コーパスならではの特長を活かした研究も進められている。計量的手法を用いた文体研究として、大川孔明「文連接法から見た平安鎌倉時代の文学作品の文体類型」(『日本語の研究』16-2、8月)大川孔明「叙述語から見た平安鎌倉時代の文学作品の文体類型」(『計量国語学』32-6、9月)などが注目される。計量的アプローチによって、中世後期の代表的な口語資料の特徴を把握する試みとして、渡辺由貴「短単位N-gram からみた『虎明本狂言集』と『天草版平家物語』の表現の特徴」(『文法史5』)もあった。9月に開催された「通時コーパス」シンポジウム2020オンラインテーマセッション『統計と日本語史研究』では、自然言語処理との協同がもたらす新たな可能性を認識させられた。
 もちろん『日本語歴史コーパス』だけで全てが足りるわけではない。研究課題に応じて扱う資料を選ばなければならない。辻本桜介「中古語における連体助詞的な複合辞「といふ」の諸用法」(『文法史5』)は、中古語の全体的な実態を捉えるために、和文資料だけでなく、訓点資料も調査している。田中草大「変体漢文の構文論的研究―受身文の旧主語表示を例に―」(『国語国文』89-11、11月)は、変体漢文における受身文の実態を明らかにするとともに、そこから文語文の史的展開の把握につながりうることを示す。文法史と文体史にまたがる問題を扱っているという点でも注目される。
 資料のデジタル化に関する大きなニュースとしては、国内外の複数機関が所蔵・管理する史的文字について横断的に検索できる、奈良文化財研究所「史的文字データベース連携検索システム」https://mojiportal.nabunken.go.jp/)が2020年10月より本格的に稼働開始となったことがあげられよう。デジタル資料についての知見も重要性を増してきている。10月に開催された日本語学会2020年度秋季大会では、ワークショップ「国文学研究資料館の情報資源の日本語学研究への活用」も行われ、史資料の電子化に関する現在の取り組みの報告や今後の利活用に関する提言などがなされた。論考としては、平安時代の漢字字書をデータ化するための統一的な符号化モデルを提示する岡田一祐「日本平安期古辞書の符号化モデル―TEIをもとにした符号化―」(『デジタル・ヒューマニティーズ』2、11月)があった。

4. 日本語の歴史を捉えるための視点、手法

 近年、通言語的、言語類型論的観点の必要性を強く感じさせられる研究が目立っている。竹内史郎「上代語の従属節、主文連体形・已然形節における主語標示―ガ、ノ、無助詞における意味的、統語的な制限の検討―」(『文法史5』)は、類型論的観点をふまえ、動作主性階層と名詞句階層による整理を行うことで、上代語の主語標示のありようを鮮やかに照らし出している。これとは逆に、日本語の歴史的研究の成果が言語類型論の議論に取り込まれたものもあった。新永悠人「北琉球奄美大島湯湾方言の名詞・代名詞複数形の機能とその通言語的な位置づけ」(『言語研究』157、9月)である。そのほか、9月に開催された国立国語研究所シンポジウム「係り結びと格の通方言的・通時的研究」においても、類型論的観点を取り入れた多彩な研究が展開されていた。言語類型論と日本語の歴史的研究のインタラクションは、今後望まれる方向性の一つだろう。
 対照言語学の手法も新たな発見への力となる。志波彩子「受身・可能とその周辺構文によるヴォイス体系の対照言語学的考察―古代日本語と現代スペイン語―」(『言語研究』158、12月)は、2つの言語を対照することで、両言語のヴォイス体系を精緻に記述することに成功している。複数の言語(方言)を対照することで歴史変化にせまるものとして、森勇太「西日本方言における連用形命令―地域差と成立過程―」(『方言の研究』6、8月)日高水穂「方言文法の対照研究」(『方言の研究』6、8月)もあった。
 枠組みの提示という点では、宮地朝子「副助詞類の史的展開をどうみるか―これからの文法史研究―」(『日本語文法』20-2、9月)が興味深かった。「体言」(無活用の言語形式)という枠組みによって、副助詞などの、多機能をもつ文法形式の変化に説明を与えることができるようになるという提案がなされている。射程の広い見方で、本展望筆者としては、副詞研究にとっても大きな示唆を与えるものと受け止めた。

5. 継承と発展、研究成果の共有

 研究という営みにおいては、これまでの研究を継承しつつ、それをさらに発展させていくことが不可欠である。研究書の読み方を教えられるものとして、吉田永弘「【文法史の名著】小林賢次著『日本語条件表現史の研究』」(『文法史5』)をあげたい。丁寧な読解によって、条件表現史の名著から学ぶべき点(何を継承して、何を発展的に解消していくべきか)を見事に浮かび上がらせている。仁科明「中古の「らむ」―体系変化と用法―」(『文法史5』)は、先行研究の論点を整理しつつ、用例の丁寧な検討を行うことで複雑に絡み合う問題を鮮やかにほどいてみせる著者の手腕が光る。小柳智一「機能語の資材―昇格機能語化と複合機能語化―」(『文法史5』)は、前著『文法変化の研究』(くろしお出版、2018)に対するナロック・ハイコの書評(『日本語の研究』15-2、2019)への応答も行いつつ、一つ一つ論証を積み重ねる。思考することの手本とも言うべき論考である。文体史分野では、資料の丹念な検討によって通説の修正をせまる吉野政治『明治元訳聖書成立攷』(和泉書院、10月)も刊行された。
 また、研究成果の共有も重要である。青木博史・高山善行編『日本語文法史キーワード事典』(ひつじ書房、12月)は、文法史に関わる77のキーワードについて、これまでの蓄積と最新の知見、残されている課題をコンパクトに解説する。こうした手に取りやすい形での研究成果の発信は、他分野との交流を進めることにもつながるだろう。語彙史については、現在、刊行が進められている「シリーズ〈日本語の語彙〉」のうち、陳力衛編『シリーズ〈日本語の語彙〉5 近代の語彙(1)―四民平等の時代―』(朝倉書店、7月)小野正弘編『シリーズ〈日本語の語彙〉4 近世の語彙―身分階層の時代―』(朝倉書店、8月)の2冊が刊行された。語彙という観点から、各時代の代表的な資料について多くを学ぶことができるとともに、語彙へのアプローチの多様性を知ることができる。表記史に関するものとしては、日本史分野主導で編まれた書籍に吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『シリーズ古代史をひらく 文字とことば―文字文化の始まり―』(岩波書店、11月)があり、学際的という意味でも注目される。

 コロナ禍においては、すぐに都合の良い結果を求めたがる、あるいは都合の悪いことはなかったことにしたくなる人間の弱さが浮き彫りにされることが多くなったように思う。誘惑に負けて安易な結論に飛びつくことなく、問い続け、考え抜くこと。それが研究者に求められる役割であり、使命だろう。とある有名な漫画のセリフを借りれば、結果だけを追い求めるのではなく「真実に向かおうとする意志」をこそ大事にしたい。


川瀬 卓(かわせ・すぐる)……論文に「副詞から見た古代語と近代語」(『日本語の歴史的対照文法』和泉書院)、「洒落本における不定の「ぞ」「やら」「か」」(『筑紫語学論叢Ⅲ―日本語の構造と変化―』風間書房)、「副詞「どうぞ」の史的変遷―副詞からみた配慮表現の歴史、行為指示表現の歴史―」(『日本語の研究』11-2)ほか。


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