シーズン2 第16回
道教入門(前編)
尾山 慎

コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。
道教とは
「道教」と聞いて、すぐにイメージが浮かぶ人はあまり多くないかもしれない。仏教やキリスト教ほど身近ではないだろう。しかし実は、漫画やゲームに登場するような仙人、気功、霊符、不老不死の薬——そんな物語のモチーフや道具立ての源流にあるのが、道教である。
道教とはどんな宗教なのか。ごくシンプルに言えば、「自然のしくみと調和して生きようとする宗教」である。古代中国の人びとは、山や川、風や雨や雷といった自然の力を前にして、それらをただの物質や現象とは考えなかった。世界は目に見えない力によって動いていると感じており、その力を「気」と呼んで、さらにその大もとのはたらきを「道(タオ)」と呼んだ。世界が世界として成り立つ、その〝流れ〟や〝しくみ〟のことである。昼と夜がめぐり、四季が移り変わり、生命が生まれ、やがて死ぬ。その全体を貫いている大きな流れ、それが道(タオ)だと考えた。そして人間の身体も、その自然の一部である。だから身体の中にも同じ「気」が流れている。呼吸を整え、心を静め、身体をととのえれば、その流れをよくすることができる。流れがよくなれば、病を防ぎ、寿命を延ばすこともできる——究極的には、死をも遠ざけられる——そこまで考えた。
ここから生まれたのが、仙人という理想像だ。仙人とは、自然と完全に調和し、老いや死の制約を超えた存在である。山奥で修行する不思議な老人のイメージは、ここに由来する。道教は、従って死後の世界などよりも、ひたすらに「今をどう生きるか」を重んじる宗教であるといえる。私たちを取り囲む自然というものと対立するのではなく、その流れに身を合わせる。無理に支配するのではなく、うまく乗る。そうした生き方の知恵が、長い歴史の中で宗教の形をとったものが道教なのである。
いつ頃、どこで生まれたか
道教は、中国で生まれた宗教である。
その思想のもとになる考え方は、今から2500年ほど前、春秋戦国時代にさかのぼる。老子や荘子といった人物が、「自然の流れに逆らわずに生きる(無為自然)」ことを説いた。これが後の道教の土台になる。しかし、この段階ではまだまだ一種の哲学に近い。宗教としての形をとるのは、今から約2000年前、後漢の時代である。中国の各地、とくに四川などで、神を祀り、病を治し、呪術を行う宗教集団が現れた。張道陵という人物が始めたとされる教団は、その代表例である。ここで、
・神々への祈り
・霊符や呪術
・病気平癒の儀式
・仙人になる修行
といった、儀礼・祭祀の実践を備えた宗教としての道教が姿を整える。その後、道教は中国の歴代王朝と関わりながら発展していった。皇帝が保護した時代もあれば、弾圧された時代もある。しかし完全に消えることはなかった。民間信仰や医術、占いなどと結びつき、中国社会の中に深く根づいていったのである。
現在も、中国大陸や香港、台湾には道教寺院が数多く存在する。赤や金で彩られた廟で、人びとは線香を手に祈る。関帝(三国志の関羽)や媽祖(航海と漁業を守る女神(のような存在))といった神々は、いまも日常の信仰の対象である。横浜中華街でも関帝廟があるのはご存じの方も多いと思う。また、道士と呼ばれる宗教者——仏教で言うところの僧侶のような祭祀者——も現役で活動している。祭礼や厄除け、葬儀、祈祷などの儀式を執り行い、地域社会の中で役割を果たしている。

(画像は生成 AI による)
道教とことば
道教を理解するうえで、大切なのが「ことば」である。道教の中心概念である「道(タオ)」とは、もちろん、もともと「みち」を意味することばである。人が歩く道であるが、生き方であり、物事の進み方でもあるとも喩えられる。このことについて老子は、有名なことばを残している。
「道の道とすべきは常の道にあらず。(道可道非常道)」『道徳経』
ことばで説明できる「道」は、本当の永遠不変の「道」ではない。ここでいう「道」とは、単なる方法や道筋ではない。宇宙の根本原理、万物を生み出し、動かし続けるはたらきそのものを指す、というのだ。だが、それを「これが道である」とことばで定義した瞬間、それはすでに限定された概念になってしまう。老子は何が言いたいのか?限定されたものは、もはや無限でも普遍でもない。究極のものは、ことばで完全には言い表せない、というのだ。ここには、ことばへの深い慎重さがある。あるいは、ことばの「限界」への察知である。いま筆者はここに、「道」とは便宜上こういうことだと説明したが、これはかりそめであって、老子に言わせれば説明した時点でもうそれは本当の意味ではない、ということになるわけである。この点は、仏教、とくに禅の「不立文字」とも非常によく似ている。真理は経典や文字の中にあるのではなく、直接の体験あるいは感知にある、という立場で、やはり同じくことばはかりそめにすぎないという見方である(『日本語の文字と表記』コラム5参照)。
ただし、だからといって道教はそこで「ことばを捨てる」方向には進まない(仏教もだが)。むしろ逆に、ことばや文字に強い力を認める宗教でもある。霊符と呼ばれる独特の文字、呪文、祝詞のような祈り。正しく書き、正しく唱えることで、現実に作用すると考えられてきた。
つまり道教は、
・究極のものはことばを超える
・しかしことばや文字には力が宿る
という二つの立場を同時に抱えていることになる。
ことばを疑いながら、ことばを使う。ことばを超えるものを認めながら、なおことばを大切にする。ことばは万能ではない。しかし無力でもない。道教は、そのあいだを生きる宗教なのである。
キョンシーと呪符
1980年代、霊幻道士という香港映画が日本でも流行った。キョンシー(漢字でかけば「殭屍」〈硬直した(殭)〉〈死体(屍)〉を意味し、長い年月を経ても腐乱せず動き回るというゾンビのようなもの。香港映画だったこともあって広東語の「キョンシー」という読み方が定着)を操ったり戦ったりする道士が登場するが、これはまさに道教的世界観のお話である。

(画像は生成 AI による)
両手を前に突き出し足を揃えてぴょんぴょんと跳ねながら進むキョンシーが、額に黄色いお札を貼られるとぴたりと動きが止まる。道士が筆で何やら文字を札に書き、それを振りかざして操ったり、退治したりする——この黄色い札こそが、道教の「霊符」である。映画なのでもちろん誇張も多いが、あの設定はまったくの作り話ではない。道教では霊符や呪文を用いて悪霊を鎮め、災いを祓う儀式が行われてきた。呪符は使い方もさまざまだ。家の入口に貼って魔よけにする。水に溶かして飲み、病気平癒を願う。儀式の中で焼き、煙にのせて天に届ける。どれも、「目に見えない世界とつながる方法」として用いられてきた。先ほども述べたように、道教が「ことばは真理を言い尽くせない」と考えながら、同時に「ことばや文字には力がある」とも考えている点がよく伺える。究極のことはことばを超えている。けれど、だからといってことばは無力ではない。正しく書き、正しく唱えれば、現実に影響を与える、と考えるのである。
霊符は、神々の力を文字として写し取ったものだと考えられている。道士は、一定の作法に従って筆をとり、神の名や象徴的な線を記す。それは「力を呼び出す回路」のようなものと理解されていた。映画のキョンシーは死体が動く(!)という設定だが、道教の世界では実際、「死後の魂」や「邪気」は現実にあり得る問題と考えられていた。だからこそ、霊符で抑え、封じ、鎮めるという発想が生まれる。ここで何より重要な存在が、その道士だ。儀式を行い、呪文を唱え、霊符を書き、神と人間のあいだを取り持つ専門家であり、先ほど触れたとおり、いまでも中国や台湾には、実際に道士がいて、葬儀や厄払いの儀式を行っている。
(後編に続く)
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

