第4回 
「カタカナでしゃべる」 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

漫画のセリフと文字

 漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦作)の第4部、もりおうちょうに住む高校生で、主人公のひがしかたじょうすけの親友ににじむらおくやすというのがいる。億泰は、あるとき現れた、自分を宇宙人だと言い張るはせくらたかなるアヤシイ人物(?)に対し、宇宙人だなんて信じられるかよと疑いをかけては、ことあるごとに絡んでいく。あるとき、この際はっきりさせておくぜ――と、「オメー「宇宙人だと思い込んでる」スタンド使いなんだよなーっ?」と詰め寄る(「スタンド使い」というのは超能力者のようなもの。ジャンプコミックスDIGITALカラー版14巻「鉄塔に住もう その①」)。そうすると、未起隆は「最初カラハッキリシテイマス ワタシハ宇宙人デスヨ」と相変わらず動じることもなく答えるのだが、ここで億泰は奇妙なツッコミをする。「何急にカタカナでしゃべってんだよ!てめー 言い張るのか」というのだ。「カタカナでしゃべる」——なんとも不思議な言葉だ。しゃべる言葉は見えないわけだからこんな奇妙なツッコミはない。
 似たような例で、『SLAM DUNK』(井上雄彦作)に、「おまえがそのを連れてきな」というセリフに対して、本人である桜木花道が「桜木と書いてバカと読みやがったな」と怒るというのがある(ジャンプコミックスデラックス『SLAM DUNK 完全版』1巻 #2「流川楓だ」)。この場合、作中で花道が耳で聴いたセリフは「バカ」それだけであるはずだから、目に見えないはずの「桜木」の2文字と、それへのふりがな「バカ」が立ち現れていることになる。「俺のことをバカと言いやがったな」ではないのがミソである。相手が「話した」ことを耳で「聞いた」、それを「書いて」「読み」やがったと怒るというずらしが起きているわけだ。吹き出しのセリフは漫画の外の世界にいる読者にしか見えないことだが、それが作中の登場人物にも見えていることになって、思わずふふっ(笑)となってしまう、作者の遊び心だといえるし、漫画という形式のメディアだからこそできるくすぐりだともいえる(アニメやドラマではこうはいかない。視聴者にも、セリフは文字化しない限り見えないから無理だ)。登場人物なのにこちら側(読者たる自分の存在する現実世界)にいるように思えてくる。

日本語独特の表記スタイル

 ところで、『ジョジョ』の億泰の例と、『SLAM DUNK』の花道の例を「似たような例」といったが、実はちょっと違う。というのは、花道の場合は「書いて」「読んだ」といっているのでまだ文字上のことだということに引き留まっている。しかし億泰の場合は、もはや「しゃべる」といっている。文字(種)をしゃべる――しかも、花道よりも、セリフ全体が見えていることになっていて、これは「表記体」が変わっていると指摘していることになるのだ。
 表記体というのは、自立語は漢字、付属語は平仮名、外来語はカタカナといった具合にどこをどんな文字で書くかというその様式そのものをいう学術用語である(『日本語の文字と表記』p180参照)。この概念と術語が重要になるのは世界広しといえども、ほかでもない日本語(の特に歴史的研究)である。というのも英語だとアルファベット、中国語だと漢字というように、普通、一言語に文字は一種類で、複数の文字体系を並行して使う、といったことがないからである。しかし日本語は、古代も含めると、全部漢字だけ、ほぼ平仮名、漢字片仮名交じりなど、いろいろ書くメディアに合わせて表記体のスイッチングがあったらしい。たとえば男性貴族の日記は漢字ばかりで書かれているが、和歌は平仮名が占める割合がぐっと高くなる。『方丈記』や『今昔物語集』は漢字片仮名交じりで書かれていた(これらは伝本が多いので、中には平仮名になっているのもある)。特に大福光寺本『方丈記』は片仮名がメインといってもいいほどの分量を占める。こういう様々な表記のスタイルを表記体という。

大福光寺本『方丈記』(
国立国会図書館ウェブサイトから転載

 現代日本語は、漢字と平仮名の組み合わせがほとんどだが、『ジョジョ』の例のように、「ワレワレハ宇宙人ダ」(それにしても、こんな妙な自己紹介もないが)とか、「ワタシ日本クルノハジメテデス」のように、ネイティブではない日本語を演出するときに普通平仮名で書くところをことごとく片仮名におきかえたりする。通常の書き方と〝総とっかえ〟のようになっているので、文字表記研究では、文字の変更というよりスタイルそのもののスイッチ――表記体の変更であると見なす。 
 『ジョジョ』のこのシーンではしかも「急に」といっているので、さっきまでとは違うという指摘でもあって、これまで未起隆は漢字と平仮名の組み合わせでしゃべっていた。ということは億泰は、なんと、ということになるのだ。さっきとは違うからこそ「何急にカタカナでしゃべってんだよ」とツッコめる。肝心の未起隆はどういうつもりで「カタカナでしゃべ」ったのだろうか。分かりやすく、「自分ハ宇宙人ダ」と演出すべくそうしたのだろうか。ならば、未起隆もまた、表記体のスイッチングとその効果を知っていたということになる。億泰にわからせるためなのか(実際ちゃんと伝わった)、読者に見せるためなのか、その双方なのか、興味深いところだ。

「メタ発言」

 文学研究や日本語学研究では、こういうときに、「結局作者のさじ加減でしょ」と言ってことが多い。作者の荒木飛呂彦氏がちょっと冗談で演出したんじゃん、というのは理解の一つだが、それで終わるだけの話ではないのである。文学研究や言語研究では、「作者」という存在を、その作品の〝全てを統べる生みの神〟のように必ずしもみなさないことがままある。それどころか、分析する側が、「作者」という生身の人間(とその思考、状況等)を最初から最後まで完全無視したりする。信じがたいかもしれないが、研究にはいろいろな切り込み方があるのである。
 たとえば存命の小説家の作品を研究するとき、その小説家が様々な作品について講演をしたり、エッセイを書いている、あるいは他でもないその自著を自ら語っているとなると、重要な手がかり、いやもはや決定打であって、第三者が研究する余地なんてないのでは?と思うかも知れない。ところが、その作品研究の際に、そういう情報類を一切持ち込まないという研究方法もあるのである。著者本人が自著を解説していても、それとは違う第三者による研究がありうる。まさに「作者は死んだ」というやつである(フランスのロラン・バルトによる)。その詳細は別回に譲るとして、ここでは漫画やアニメ、ドラマでしばしば話題になる「メタ発言」というものに触れておこう。
 「メタ」はこの場合「高次の」というほどの意味でいっているが、「メタ発言」とは、作中人物にもかかわらず、作品の外に飛び出して自分も含めた作品世界を俯瞰、客観視しているような状態、あるいはそうして客観視しないと決して言い得ないようなセリフを指して、我々(現実世界の読者)がそう認定するものである。
 分かりやすいのは作中人物が「読者」や「作者」という、まさにそのものの言葉を口にしてしまうものや(鳥山明氏の作品にはしばしばある)、明らかにコマの向こうからこちら、つまり現に読んでいる読者と目が合う形で、視線を向けてくるものなどが挙げられる。たとえば『こちら葛飾区亀有公園前派出所』ジャンプコミックス45巻「しっかりわすれくんのまき」では、両津勘吉が、物忘れが異常に激しい同僚、忘田について、「読者のみなさん この忘田をどうしようもない奴だと思うでしょ」とこちら(読者)に向かって(ただし、このとき背景は暗転している――漫画世界を飛び出ているというマーカーかもしれない)。あるいは漫画に限らず、落語でも、桂枝雀演「ごくばっけいもうじゃのたわむれ」において、「そんなことも知らんとあんたこの噺(地獄八景亡者戯)聞きなさんなや」「いや、私は!この噺の登場人物ですよ!」というやりとりで爆笑を取っているというシーンがある。
 このように明らかなものから、判定に迷う微妙なものもいろいろある。たとえば、『サザエさん』で、カツオが日曜日の夜は憂鬱だと嘆息してみたり(いわゆるサザエさん症候群と思われるような)、『クレヨンしんちゃん』では、風間君が野原家の飼い犬のシロに二人きりになれたね、と言って可愛がったりするシーン――実は風間君の声優はシロも演じているという事実があって、つまり風間君がシロにほおずりする場面は、声優が一人二役している恰好というわけだ。ただ、カツオの発言は作中だけのこととしてもおかしくはないので判定は難しい。小学生として明日からまた月曜か~と嘆息することはありうるからである。一方の『クレヨンしんちゃん』も、作品内だけで考えても特に不審なセリフとまではいえず、つまりは単に、が犬を可愛がっているだけのことともいえる。
 メタ発言かともとれるかどうか微妙、というところだ。そしてまたそこが、鑑賞という点で楽しいところでもあるし、そのとき、もう「作者」という存在はどっかにすっ飛んでしまっていることも分かるだろう。


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。