第10回 
時間は流れているけど、止めてみる(前編) 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

個人的なことと、みんなに共通すること

 言語研究は、基本的には一般化を目指している。つまり、〈どこそこの誰々さん〉の〈あるときの言葉遣い〉といった、具体的かつ個別的な現象の解明を目的として追究することは、ほぼない。もし取り組んでも、「、そういうふうに話すんですね」で、行き止まりになってしまうからである。学術研究とは、おおよそ一般化と構造化(体系化)を基本とするから、〈どこそこの誰々さん〉の行いというのは、それ以上でもそれ以下でもないわけで、そうでないならば、1億人いれば、1億通りの日本語があるといわなければいけなくなってしまう——実はそういう視点も必要ではあるのだが——構造的に研究を推進していく、そのメインストリームとしては、据えにくいものがある。

 文字表記研究にしてもおなじことで、「ある個人の文字」「ある一例の書き方」といったただそれだけをゴールにおいて進むことはできない。たとえそれがどれほど歴史上の有名人であってもだ(前述の通り、どこまでいっても、その人はとある〝個〟にすぎない——一方、その有名人自身を研究しているなら、それはもちろん、意味があることだ)。とはいえ、「個」「とある一例」は、さしあたり研究の大事な入口であるのも事実だ。たとえば、夏目漱石は「詐欺」という漢字を、写真のように書いている(夏目漱石『坊ちゃん』より筆者再現)。

漱石という有名な大作家のこんな間違いがあるなんて、と話としては面白いが、こんな書き方があります、ということ以上の研究ステージに行くためには、この現象はどういう理由によるのか、他にも類例があるだろうかと展開させていく必要がある。それはつまり、夏目漱石という一個人や、このとある一例から離れていくことを意味する。この「詐欺」表記の間違いは、おそらく下の字の「其」との同化という現象であると思われる(下の字を書く準備をしていて、先走った、ということなのだろう。サギという犯罪行為の漢字が、言偏を持つことは納得できるが、下の字の方は言偏ではないので、〈下の字は言偏ではない〉ということを意識しすぎた結果なのかもしれない)漱石による他の事例、漱石以外の類似の事例(つまり「詐欺」に限らない)へと調査対象を広げていくことで、〈どこそこの誰々さん〉の〈あるときのある一例〉という、点的な立ち位置から離陸するのである。

 筆者もかつて、万葉集の漢字の使い方を調査してみようと大学院生時代に思い立ったとき、まずはもっとも有名な歌人の一人である柿本人麻呂の作品に目がいった。漢字の音を当て字で利用して、「楽」(「さくら(桜)」への当て字)のように、「サク」と2音節の当て字を使う方法がある(これを二合仮名という)。これに興味を持ったのだが、この方法をもっとも一人で多彩に使ったのが人麻呂だった。従って、調べ始めるとどうしてもこの柿本人麻呂にあちらこちらで行き当たる。そもそも歌聖ともいわれる人物だから、漢字漢文に通じていただろうし、調査しているとさいさいお目にかかるのは大いに納得できることだった。が、当時の指導教員に、人麻呂の文字使いだけを見ていてもそれで終わってしまうから、万葉集全体で調査してみないといけないし、そちらこそ目的にしないといけないよと助言され、PCの力も借りつつ人麻呂以外も大々的に調査することにした。
 このように、入口はある一人の人の行いであってもそれを意味づけたり、位置づけたりするためには、結局そのほかはどうなっているのか調べていくことになる。おおよそのバックグラウンドがわからないと、結局、人麻呂の表記の位置づけも出来ないからである。目の前にある1本の棒、それだけでは長い短い、太い細い、重い軽いをいうことはできないのと同じで、何かと比べないといえないはずである。
 言語学では、個人のそれをパロール(parole)、一般をラング(langue)と呼んで区別する。後者だけが言語学の研究対象になるといったのがフェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)だ(これらの用語の詳細は『日本語の文字と表記』で解説している)。ただ、文献を扱う言語研究では、人麻呂の例のように、個がどうしても入口になるので、結局〝個と一般〟というのは、研究上の両輪のように、レベルやステージは違えど、いずれも必要なまなざしだと筆者は考えている。

時間の流れ

 「時間が流れる」というが、これはあくまで比喩だ。必然的に「時間を止める」も比喩だが、さしあたりその言い方が一番、日常のことばとして馴染んでいてイメージしやすいので、ここでもそう言っておこう。歴史的研究を通時論(通史論)というが、言語研究には、歴史的時間や、変遷に感知しない研究方法もある。それを共時論という。英語では通時論はdiachrony、共時論はsynchronyである(シンクロ——同時的というのは聞いたことがあると思う)。
 時代性・変化・変異を考慮しない共時論は、いわば変化を無視することであり、前は姿が違ったがいまはこうだ、とか、いまはこんな形だが将来はこう変わるだろう、といった変異には興味を向けない。そういうことは一切度外視する。実際には全てのものは移りゆくわけだから(ちなみに仏教はまさにそういう思考をすることで有名——後編で詳述する)、それを分かっていて、無視する——静止物と割り切る、方針のようなものである。本当に、永久不変だとは、きっと誰も思っていない(が短いものなら錯覚はするかもしれない——後編にて)。
 そうすると、共時論という立場は、変化自体を考える通時論とまるで噛み合わない立場になりそうだが、実際は、両者が連携したり、対照しつつ展開されるのが研究としては好ましく、いずれかの立場や視点が、そのうち一方を駆逐して撲滅してしまうというものではないはずだ。さきほどの〈個と一般〉でも述べた通り、何かにつけ複眼的な視座というのは重要である。いずれかの立ち位置で固定してしまうと、必ず見えない何かがある。これはそれこそ、仏教——ことに禅家の石庭(枯山水)などが教えるところだ。本当に、その通りだと思う。竜安寺(京都市右京区)の石庭は、全部で15の石があるが、必ず、どこからみても1つ足りない14になるよう配置してあるという。

写真① 竜安寺(京都市右京区)の石庭

あるところに立って眺めると、見えなくなる石があり、そこで別のところに立つと、あらたに見える石がある一方、先ほど見えていた石が今度は見えなくなる。写真①の青矢印の石は、写真②の角度からは見えない。

写真②

ソシュールとヘルマン・パウル

 一般言語学という、言語の普遍的な特徴を講じたのが、先ほども出てきたフェルディナン・ド・ソシュールである。弟子が刊行した『一般言語学講義』でその考えを知ることができる(本人ではない人たちが、講義をまとめて刊行したので、この本で立ち上がってくる「ソシュール」と、歴史上に実在し、ジュネーヴ大学で講義した生身の「ソシュール」を分けるべきともいえる——いわば、——が、いまは「ソシュール」を主語に話を進めよう)。小林英夫により日本では世界に先駆けて翻訳(邦題『言語学原論』)がもたらされ(1928年)、その後の日本の言語学、ソシュール研究に多大な影響をもたらした。
 このソシュールより少し年上で、正反対に近い言語学観をもっていた人がいる。それがヘルマン・パウル(ドイツ、1846–1921)という人物だ。ソシュールより11歳上なのだが、この人は、言語研究というのは歴史的研究をしてこそであるといい(『言語史の諸原理』)、そして、抽象化しては正しい言語の法則は見えない、ということで個別例を重視したのであった。順番としては、このパウルのあとに、ソシュールの考えがでてくるので、反対というならソシュールのほうこそをそういうべきだが、ともかくも2人の考えは対照的だ。結局ソシュールの考え方がその後主流になったから、20世紀の言語学の礎となって、「言語学の父」などと呼ばれるソシュールに対し、パウルは「19世紀の言語学」などといわれたりする。これは単に年号的呼称ということ以上に、〝古さ〟というニュアンスの含意が伺えよう。
 ソシュールは共時論で切り込む人だから、つまりは歴史性を考慮しない。そして個別例(パロール)には関知せず、ラングを研究するというものだから、まぁ噛み合わないように見える。2人は〝直接対決〟はしていないが、後世から眺めるとそのように違いが際立つ。では、我々はどちらにくみして取り組むべきか——実は、「どちらか」という選択自体がそぐわないことであって、やはり結局両方の目が必要である。個も一般も、歴史も共時も両方である。こればかりは、〝欲張り〟とはいわれないので、そういった多角的な視点をもつのがいい。
 ところでこの〝両方〟とは、筆者の新見というわけではなく、もう60年以上前に、『日本語の歴史 別巻』(平凡社、2008に文庫版で復刊)が、ソシュールとパウルの、それぞれの考え方を引き合わせつつ、両者に白黒つけるというよりは、連携、並行して取り組むべきことを看破している。換言すれば、パウルの観点を葬り去らなかった。言語学という看板を掲げる限り、共時論と名乗りを上げるべしという風潮に一石を投じるものであり、本書の筆者の一人、亀井孝氏が希代の文献学者でもあったということも、大きく関係しているだろうと思う。

ある言語の研究は、まずその現状の共時的考察の確固たる地盤のうえになさるべきであることは、もはやあえてくりかえし述べたてる必要のないところであるが、しかし、その共時的考察にのみ終始しただけで、生きた言語のその歴史像の真の理解はえられない。共時的考察なるものは、歴史の流れに対する一つの抽象であって、それも言語研究の一つの重要な課題ではありえようが、(中略)決してその窮極の目的ではありえない。(文庫版pp56-57)

後編へ続く)


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。



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