シーズン2 第2回
外来語と外国語
尾山 慎

コラム延長戦「文字の窓 ことばの景色」。
シーズン2がスタートしました!
日本語学では区別する
「外来語」と「外国語」は、どんな違いがあるだろうか。字面を見ればなんとなく想像がつくかもしれないが、外来語は日本語に入ってきたことば(主にカタカナで記されることが多い)であり、一方外国語は、そのまま、日本語ではない、よそのことばという意味である。日常生活ではあまり厳密に使い分けなくても問題はないかもしれないが、日本語学ではテクニカルターム(専門用語)としてしっかり区別されている。日本語はどういう種類のことばで構成されているのかというその来歴を考えるとき、この分類はとても重要になる。
たとえば日本語に登場する「OK」「バイバイ」「ストップ」などは、典型的な外来語である。もはや日本語の一員とみなして差し支えないだろう。「OK した」とか「ストップする」などサ変動詞化する場合もあるし、強く呼びかけるときの「ストップ!」という咄嗟の叫びのことばは、「止まれ!」よりも先にでるほどではないだろうか。「バイバイ」は、時と場合、あるいは相手を選ぶが、裏返せば、確固たる〝働き先〟があるということであり、いまや欠かせない。たとえば親しい友達に別れ際に「さようなら」と声かける方が、なにやら特別な意味を帯びてしまって妙な空気になるかもしれない。つまり、多くは、「バイバイ」だろう(筆者は中年になって、気軽な別れの挨拶が「ほいじゃ」とか「じゃまた」といった言い方に変化していることに自分で気づいた。バイバイは子どもの頃や若いときは使っていたのだけど)。ということで、これらはれっきとした日本語の一員であるし、もはやなくてはならない。これらの語を巡っては、おそらく異論はほぼないと思う。とはいえ、日本語だとみなしてもやはり「止まれ」や「さようなら」とは由来、来歴が違うのは事実だから「外来語」と括って区分しておくのである。ここで重要になるのは、アメリカ人が母語の英語で話す「stop」や「bye」も勿論存在しており、それは「外国語」と呼ばれるということである。外国語と外来語という術語が両方必要な点はここにある。いつかどこかの時点で外国語「stop」が、日本語(日本語話者)と接触し、そして日本語化した(=外来語になった)ということである。語によっては日本語化しないまま(厳密には、そうなったと判定できるかどうか)のものもあるだろう。あるいは判定が難しいものもある。それは後節でみてみることにしよう。
漢語も外来語である
漢語、つまり音読みのことばもおおよそは外来語である(おおよそ、といったのは、たとえば「火事」とは、もともと日本語にあった「ひのこと」を音読みしてできたことばなので中国由来ではない。「大根」も「おほね」だったが「ダイコン」と読まれるようになった、いわば日本製の音読み語だ)。「漢語」という別の看板を掲げて区分しているのは、漢語とて中国という外国からやってきた外来語であるに違いないが、日本語体系に占める割合として大変に数がおおいので、西欧語由来とは区別しておくほうが何かと分かりやすいということで別置している。日本語は、長い歴史の中でこの漢語というものにかなり頼っている。とくに抽象概念や学術用語は漢語への依存度が高い。
時々 youtube などで、「英語禁止」でボーリングやゴルフをしたりするゲームがある(うっかり口にすると罰ゲームがあったり)。日本語学的に言えば、日本語と英語は外国語同士の関係にあり、日本語の中の「ストライク」や「スイング」「ナイスショット」などは外来語である。ということは、「英語禁止」なのだったら、普段通り話すだけでゲームクリアということになってしまう。勿論それではゲームにならずつまらないから、もし厳密にいうならば、英語禁止とか外国語禁止ではなく、「外来語禁止」というべきだろう(が、後述のように、外来語の判定も時に難しいのだが)。このとき、たとえばストライクは、野球なら「ど真ん中」とか、ボーリングなら「全部倒し」などと言い換えようはまだあるが、漢語禁止となると本当に難しい。というか、ほぼ不可能である。「大学の講義でレポート課題が出た」は、外来語禁止なら「レポート」だけ言い換えればよいが、漢語禁止となると、「大学」「講義」「課題」も全部アウトになってしまう(大学をユニバーシティという手はある。が、もし漢語も外来語もダメ、和語(日本固有のことば)のみで言え、となるとほぼ無理だ)。これらを言い換えるとなると、その場限りの長ったらしい説明文のようにするしかない(「講義」は、「学びを授ける」とか、どうにもピンとこないのばかりだ)。
このようにいうと、和語ってそんなに貧相なのかと思われるかもしれないが、それぞれちゃんと活躍の場があって、分担していることが多い。たとえば「朝食」は漢語だが、「あさめし」は和語だ。そして「朝ご飯」は和語と漢語のミックスである(こういうのを混種語という)。「あさめし」や「朝ご飯」は「朝食」とは棲み分けられているだろう。ホテルなどではやはり「朝食会場」「朝食券」であって「あさめしひろば」はおかしい。それに、「あさ」とは言うが「チョウ」とは単独では言わない(何かと複合しないと使えない)。「あさめしひろば」は、意味はわかるが、まず言わない。これが「棲み分け」ということの実態であり、言語の余剰性というべきものだ(ここでいう余剰とは、意義のある余分、時と場合と文脈にあわせた言い換え候補のストックようなもの。TPO にあわせて服の着替えを持っているのに似ている)。
余談であるが、筆者の自宅近所の人気和食割烹店(夜のみ営業)が、あるとき「ひるめし始めました」と貼り紙をした。興味深かったので夜、店にいったとき、それとなくこのことばの選択について店主に聞いてみたら、「うちの店構えで「ランチ」はないやろ、と思いましてね。で「昼食(チュウショク)」やと「はじめました」となんかあわへん。で、「昼御飯」とまよったけど、インパクト重視で「ひるめし」にしたんですわ(笑)」とのこと。
外来語と外国語の線引き
「インキュベーション」という「カタカナ語」をご存じだろうか。もとの、英語の「incubation」とは「親鳥が卵をあたためて孵化させる」という意味である。
The incubation period of the swan is 42 days.
「白鳥の孵化期間は 42日だ」
(『新英和中辞典 第7版』研究社、2003)
「教師の卵」とかいったりするように、資格を目指して勉強中だったり、実習中の人を「卵」に喩えることがあるが、「インキュベーション」はとくにビジネスの世界で、新人の起業家を、卵とその孵化に喩えるときに使うのが典型的なものだ。「AI 新興企業のインキュベーション施設」などのように使う。ところで「カタカナ語」とは妙な言い方であるが、カタカナでもっぱら書かれる語ということで、ようするに多くは西欧由来の外来語である(これと似たような現象に、外来語や外国語について、会話の中で——つまり音声の言葉としても「横文字」ということがある。また韓国語を「ハングル語」と呼ぶことがあるのもそうだろう。ハングルは「偉大な文字」という意であって語や語彙体系ではないが、ハングルで書かれることば、ということで両者が重なりあってしまったのだろう。「横文字」にせよ「ハングル語」にせよ、文字表記というのがそれほどに語と密着しているという印象ゆえのことだと思われる)。
さて、2002年度に、文化庁が「カタカナ語の認知率・理解率・使用率」を調査したとき*、実はこの「インキュベーション」は、認知率ほぼ最下位だったことばだ(全120位中、119位)。20年経って少しは知られるようになったかもしれないが、上に挙げた「OK」や「ストップ」の存在感には未だ遠く及ぶまい。そこでだが、これを「外来語」と称することに疑問はないだろうか。それはつまり、日本語の一員とみなせるかどうかということだ。依然として外国語ではないのか、という疑問はないだろうか。それは、「自分は日本語を話していて「インキュベーション」なんてことばは使わない」という主張にほぼ同じだが、ここはおそらく是非の判断は割れるだろう。なぜなら個別にその感慨は様々あるだろうからである。たとえばベンチャー企業をサポートする仕事に就いている人にとっては日常なじみのことばであるに違いないし、それこそカタカナという日本語の文字で書かれ、そして日本語の文中で使われる以上それは外来語であって外国語ではない、という主張は十分認めうる。しかし、「ニーハオ」と片仮名で書こうが、それを日本語のメール文中に練りこもうが、依然として外国語だとしかいいようがない(し、おそらくそう受け取られる)例もあるから、なかなか難しい。
カタカナ語の氾濫というのがときどき悲観的に語られたりする。既存の日本語があるのに、読み手・聞き手の気を惹くために濫発する、ということはたしかにある。耳慣れない響きがキャッチーになることは確かだ。結果的によくわからないことばが増えた、という感想に繋がるのはよくわかる。語によって実情は様々で、公的な場での発言——たとえば知事の会見などで発せられることばとして「レガシー」(遺産、オリンピックの競技場の事後利用など)や「コンプライアンス」「ガバナンス」など、いまやそこそこ認知を得ているものもある一方、「ワイズスペンディング」(賢い支出の意、アメリカの経済学者のことば)、「スプリングボード」(きっかけ、の意)のように、一向に定着しないままのものもある(これらは小池東京都知事がしばしば使っていたことば)。「カタカナ語」に対する感慨が十人十色なのも頷けることである。
このようにみると、「外来語」というカテゴリーはあるが、そこに何が入るかというのは一律にはなかなか線引きできないというのが実情だろう。それは、現在進行形で変容を続けていること、そして位相によって捉え方が違うこと(なじみがある/ない)、などの理由によるのである。
術語はやはり必要
では、もう一律に「外国語」でいいのでは?と思われるだろうか。日本語の一員なのかどうかで悩ましいなら、外来語/外国語という区別をいっそ廃絶してしまえばスッキリするのでは、と。しかし、これは否である。冒頭に述べたように、日本語の語彙がどのように構成されているか、という議論をするときに、〈日本語の中の、英語由来の語〉といった語群を区分けするための容れ物がやはり、いる。このとき、それを外国語とか、英語と呼んでしまうと、本当に、イギリスやアメリカの母語話者が話すそれと区別が付かなくなってしまうが、それでは実態にそわない。日本語の「ストップ」と、英語の「stop」はもはや違うのである。もちろん限り無く重なりあっているが、寸分違わず重なりあうということはあり得ない。これは日本語と立場を逆にしてもおなじ事だ。mottainai や kawaii が海外でも使われていることは有名で、訳すことができないのでそのまま用いられている、とされる。しかし、日本語とまったくおなじ意味かというとその保証はない。特に、kawaii は主に日本のアニメや漫画などのポップカルチャーに関することばとして用いられることが多いが、それはつまりは日本的なことと結びついていることを窺わせる。また英語話者にとって cute との違い、使い分けを説明することが多いが、cute と比べて kawaii がどういう意味かと説明している時点でもう、それは日本語世界ではない。日本語では「かわいい」は、当然アニメや漫画以外でもごく普通に使うわけで、時には年配のおじさんにもいうし、スイーツのトッピングを評しても、いえる。ということで、日本語は日本語で、様々な語との関係性の中に「かわいい」はある。つまり、kawaii は、英語にとっての外来語(from Japan)であり、そういう意味では「かわいい」とはもう違う日本語にとっての外国語になっている、といえるのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。
次回は6月15日頃の予定です。