シーズン2 第3回
比喩の創造性と限界
尾山 慎

シーズン2がスタートしました!
比喩表現は世界の見え方を支える
比喩というのは小学校で習うが、何も文学的技法だけではなく、日常普段、あらゆる場面、場所で実は活躍している。比喩は私たちの認知を助け、〝世の中のさま〟の理解を深め、〝世の中〟を見据えるその視野の解像度を上げているのである(この「解像度」も、デジタル画像関連用語からの比喩だ)。単に、比喩とは飾られた文章、小粋にうまいことをいいたいというようなオマケ的存在なのではなく、抽象的、複雑なモノ・コト・ココロを、ほかの、より具体的で分かりやすいモノ・コト・ココロに託し、そのイメージを結びつけることで思考を明晰にする役目を負っている。
いくつか、例を挙げよう。その日常性を実感するべく、できるだけ、平凡ないい回しから探してみる。
・「このプロジェクトを進めるに当たって、視点を変えてみよう」
見方・考え方を変化させる。 思考が硬直している、行き詰まっていることからの打開を、物理的な目の動きに置き換える。
・ 「トラブル解決の糸口が見える」
複雑で絡んだ問題の突破口を、布や糸の構造でとらえる。解決のきっかけやヒントが見えてくる感覚をイメージ。「混乱状態を一歩打開できそう」という状況を、目に見える“からまった糸とその始まりの箇所〟として想像させる。
・「あの人とはどうにも話がかみ合わない」
コミュニケーションのズレ、疎通不全を「歯車」にたとえる。機械的なかみ合わせの失敗として表現し、目に見えない対話の不具合を、視覚的に実感させる。
・ 「芯が通っている人」「ぶれない人」
性格や価値観、思考の安定性を、物理的な構造にたとえる。
中心に「芯」があれば、 折れない、曲がらない。 目に見えない「性質」を、物理的構造の強さで表す。
私たちは、結局は世界の多くのことを、比喩でとらえているのである。先ほど述べたように、比喩はただの文章装飾ではなく、考えるための足場そのものであり、世界の見え方、とらえ方をあらゆる面からサポートしている。ということで、もし比喩なるものがないと、結構大変なことになる。まず単純に、抽象的概念の理解が困難になるということが挙げられる。たとえば「方向性が見えない」「手応えがある」などが使えなくなるわけで、一応は代替的に「計画が漠然としている」「努力に対して反応がある」などと逐語的に説明する手はあるが、やはり今ひとつ訴えかけてこない。いずれも文としていささか硬く、そしてまた比喩表現の簡潔さに比して冗長でもあり、直感的に伝わりにくいという難がある。そしてこの結果、認知のスピード・正確さが低下することになり、ひいては思考が鈍重になってしまうかもしれない。かように、比喩という手段を失うと、その負の影響が様々なところに波及していってしまう恐れがあるのだ。
「胸がふさがる」「腹の底から怒りが湧く」「心が晴れる」などの身体化された感情表現が使えないとなると、感情という目に見えないことを、客観化・伝達することばを失い、「怒り」「悲しみ」といった、大きく、概括的な抽象ラベルとしてのことばしか使えなくなってしまう。これだと情の深度や質感が伝わらなくなるため、コミュニケーションの共感が乏しくなるかもしれない。比喩は、抽象と具体、感覚と論理、個人と社会といったことをなめらかにつなぐ潤滑油のような存在なのである(と、これも、まさしく比喩であるが)。
想像力の限界と比喩に縛られる私たち
これまで比喩の重要性を紹介したが、逆に今度はその比喩に縛られ、私たちが知らず知らずにそのくくりの中で、認知、判断してしまっていることについて述べたい。比喩は似たもの、既知のものを連携したり重ねたりして、目下の対象への理解を促進する方法だが、このやり方に慣れすぎると、今度は未知のものを想像、推察するときに、結局の所、既存、既知のものの延長上で考える、発想してしまうという癖をもたらす。そうすると、自由で無限の可能性があるはずの想像・空想なのに、実際はごく凡庸なところに落ち着いてしまうのである。これはひいてはイノベーション、技術改革の、時に妨げになるかもしれない。例として、以下に〈30年前の未来映画〉から一例を挙げよう。
シルベスター・スタローン、ウェズリー・スナイプス出演の「デモリションマン」という映画が1993年に公開された。話の舞台は2032年という、〝未来 SF 系映画〟である。劇中、当時はほぼあり得なかった、複数人同時接続の WEB 会議の様子がでてくる(これ自体は、すばらしい想像力だ)。ただし、そこでは1人の顔が1つずつのディスプレイにうつっていて、ホストだけは生身で、まるで会議机に座るようにディスプレイが1台ずつ並んでいるのだ。ようは人間の代わりにディスプレイが着席しているわけである。

かつて空想された WEB 会議の様子
(画像は生成 AI による)
何より、ディスプレイが接続の人数分必要とは驚きである。コロナ禍で一般化した Zoom などを知っている我々からすると、どこか滑稽ですらある。たとえ数人いても、一画面に複数人を分割して全員映せば済むからだ。つまり、〈5人とつながるならディスプレイが5台〉というのは、1993年時点での、当時の価値観・技術観に縛られた未来の想像の例であり、やや大げさにいえば想像力の限界だったということになる。未来を描いているつもりでも“いまと地続きの延長ということでしか描けない”ことが露わになっている(もちろん、後からこうしてあれこれいってしまうのはたやすいことだ。我々も、50年後の人類にそういわれるかもしれない。従っていま、1993年頃の人間の想像力を貧困だの乏しいだのと揶揄したいわけではない)。
この、デモリションマンの WEB 会議シーンでは、生身のホストが立ち上がって動くと、なんとディスプレイも振り向いて、歩くホストを目で追うように顔(画面)をホストのほうへ向ける。つまり、どこまでいっても物理的存在がそこにある前提なのだろう。しかも、複数いたとしても発言は1人ずつで、同時にワーワーと口々に話すということがない。当時、テレビ電話というのは一応存在していたようだが、それは、顔が見える相手と1対1で話すというのが前提だった。したがって、「参加者全員とテレビ電話をつなぐ」となると、「それぞれにディスプレイが必要だ」という発想にいきつき、そしてしゃべるとしても1人ずつ、なのだろう。「人間の存在=個別の顔と声」という発想から抜けられなかったことがわかる。前項の比喩の説明では、抽象的なことを表現、伝達する際の機能とその効果、有用性に触れたが、それを下支えするのが、既に述べた通り〈人間は未知のものを想像するとき、既知の「似たもの」に置き換えたり、スライドしがち〉という点である。それはまさに比喩、メタファーである。しかし、これがときに、人間の自由な発想、空想を邪魔してくる。既存知に縛られ、制限されてしまうのである。
このように、新しいテクノロジーを旧来のメタファーで置き換えて想像することにより、結果としては(というか、後世から見れば)、往々にして想像力が貧困化することがある。ただし、常に、単に貧困と断じられるわけではなく、〝慣れていてわかりやすい〟という合理性によることもあるのはもちろんだ。たとえば電子書籍は、紙の本の見た目にそっくりにしてある。電子化したのだから、テクストをいかようにもできそうなものだが、やはりページをめくる動作や表紙、裏表紙などが模倣されている。これは、そのほうが、経験的にわかりやすいからである。タブレットなどの、タップ、スワイプ、絞ったり大きくしたりのあの二本指の動作も、私たちの身体行動としての〝旧来の認知〟によく当てはまるので、新しいテクノロジーでもそのまま流用されるわけである。
ほかにもある、様々な発想の縛り
スマートフォンが比喩的存在、というと意外だろうか。スマホは本質的には「小型のコンピュータ+ネット端末」だが、やはりなお「電話」として認識されているだろう。「スマホは、通話のため」だということで、依然として「耳に当てる形状」で上部にスピーカー、下部にはマイクが位置しているデザインになっている。もっといえば、スマホとは、人間の外部記憶装置であるが、ガラケーから進化してきたということもあって、いまだに“通信機器”のカテゴリのほうが、しっくりくる(決してこの認知がダメだというわけではない。私たちの認識がまだそこに引きとどまっている、引きとどまっているほうが認識しやすいと見做しているという点に注目したい)。
AI を「人間っぽいロボット」として想像することが多いのもそうだ。AI というのは、本質的には「データ処理の最適化技術」とでもいうべきところだが、よく人間の姿で描かれる、あるいは画面上で、線描画だけのような人型が話すように演出されるだろう。これは「知性は人型に宿る」という、神話や宗教的直感の延長であると思われる。これも〝結局このほうがピンとくる〟という点では意味があることなのだろう。本当に身も蓋もないことをいえば、どれほど人間に寄り添った暖かみのあることばを表示したとて、AI からすれば実際にはそれはサーバー上の無数の演算結果にすぎないのだが、そこに“顔”や“感情”があると思う(感情移入する)ことで理解しやすくなり、受け入れやすくなるのだ。このように、人間の想像力の、ある意味では〝制約〟〝限界〟によってこそ、私たちは落ち着いて、あたらしいテクノロジーなりを受け入れているところがある。それは認知の安全弁のようだともいえる。
最近しばしば耳にする「メタバース」すなわち多次元仮想空間も、最新鋭のように思えるが、やはり現実空間の模倣を引きずっているところがある。つまり、メタバースでもやはり「家」やら「部屋」やら「椅子」やら「会議室」などがあって、現実の空間構造を模倣していることがよくある。しかし、せっかくバーチャルなのだから、重力にも面積にも縛られないはずなのに、 わざわざ壁に囲まれた空間を再現する意味はないともいえる。メタバースなのだから空間を再設計する自由があるのにもかかわらず、「現実を模倣する」ことにとどまっているところがある。この場合も、まさに“現実の延長”でしかない思考ということになるだろう。
繰り返すがこれらは何も、一概に悪いこと、つまらないこと、というのではなく、ごく自然なありようである。それは、ほかでもない言葉と、そしてそれが捕捉する概念が、“既存の枠”でできていること、つまり、 「既知のことば」でしか未知を語れないという制約があることによる。そして、文化と記憶が“類推”に支えられているため、たとえば馬車が自動車へと置き換わってもなお、いまだに「馬力」といったりするように、「既存の物の拡張」として想像するのが常態となっていることのあらわれである。また、身体感覚が想像力を補助することも少なくない。体の部位をつかった比喩は日本語に限らず多いが、それはいい換えれば、身体経験とは一番直感的に分かりやすいということだ(「腑に落ちる」「かみ砕いていう」「飲み込みが早い」など)。ということは、 実際に体験していないものを、“体を通さず”に思考するのは難しい、という理屈になる。これも、結果的には、認知の助けでもあり、また一種の制約ともなっている。
比喩は、私たちの認知を豊かに、広く伸ばしてくれる潤滑油である一方、私たちの、突き抜けた創造力や、全く違う認知へと飛び出すイノベーションを、いわば凡庸な〝いまと地づつきの世界〟にとどまらせてしまう保守的な力をも、もったものだといえるのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。
次回は7月10日頃の予定です。