シーズン2 第13回
過去に学んでこそ
——「古典」不要論再び
尾山 慎

コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。
新・中華料理「ヌーベル・シノワ」の伝統と革新性
前回コラム、中華料理を巡る様々な話で最後に紹介したヌーベル・シノワから今一度はじめよう。「伝統」に基づいた「新しい世界」——伝統を軽んじるのではなく、むしろ深く理解し、そこから再構築する営み。その発想の根には、そもそも中華料理そのものがもつ圧倒的な文化的厚みがある。
我らが和食も誇らしいが、やはり中華料理もまた、広大な風土と、幾千年にもおよぶ生活の記憶の結晶であり、その厚み、幅、奥行きはとてつもない。中国料理は、まず山東・江蘇・四川・広東を中心とする「四大菜系」として形づくられ、のちに浙江・福建・湖南・安徽を加えた「八大菜系」へと発展した。これらの料理体系はいずれも、その地域の自然環境や食材、歴史的背景を背負いながら独自に成熟してきた。素材の扱い、火加減の哲学、包丁の入れ方、盛りつけの美学——そのどれもが、偶然ではなく、数百年単位の試行錯誤の末に磨かれた、文化的知である。たとえば広東料理の「清淡(チンダン)」には淡味の極致を追う美意識があり、四川の「麻辣(マーラー)」には湿潤な気候と保存の工夫がある。つまり味の違いは、文化と自然環境の差異の表れであり、料理はその土地の「思想」を語る言語でもある。中華料理とは、火と水と油と時間によって綴られたまさに一大文化である(……と、筆者、無類の中華料理好きにつき、つい、力が入ってしまう)。
こういった歴史と伝統の深さを踏まえてこそ、ヌーベル・シノワは生まれた。八大菜系が築き上げた「文法」を解体し、そこに異国の発想を織り込む。油を抑え、素材を見極め、香りや食感のバランスを再構築する。伝統の否定ではなく、伝統の「翻訳」。大げさでなく、古典を理解してこそ、はじめて現代の文脈に置き換えうる革命としてなし得たものだといえる。しかもこのヌーベル・シノワは、いわゆる一発屋のようなごく刹那的な流行で終わらなかったことも、単なる伝統に対する異端ではなかったことを証している。だから、「ヌーベル(新しい)」といいつつ、もうかれこれ40年ほどの年月が経つ。
過去の蓄積に学ぶこと
さて、料理のみならず、裁判も、科学も、建築も、実はすべて「過去を参照する」仕組みの上に成り立っている。司法の世界では、過去の判例がいまの判断を方向づける。似た事例を照らし合わせ、先人の判断の筋道を踏まえて結論を導く。これは単なる保守ではない。むしろ、過去の判断のどこが時代に合わなくなったのかを見極め、必要な修正を施すための土台となる、必須のプロセスだ。判例の蓄積は、社会が何を正義とみなしてきたかという「人間の経験の記録」であり、そこに学ぶことでしか法は成熟しない。従って、裁判に臨むに当たり、過去の判例を全く見返さない法曹の人間などというのは、存在しない(いたら怖い。そんな人たちに弁護されたり、裁かれたくない)。
科学の世界でも事情は同じだ。新しい理論や発見は、過去の知見を完全に棄却するのではなく、その内部を拡張したり、再解釈したりすることでこそ生まれる。ニュートン力学があってこそ相対性理論があり、相対性理論があってこそ量子論がある。古い理論は必ずしも間違いばかりではないし、間違いだから上書きされた、というわけでもない。それらは、より大きな枠組みに包摂されたり移行したりする、ある時点ある時点での段階ないしステージなのである。
建築もまた、過去を読む学問である。最新のデザインや素材を扱う建築家ほど、古典建築を学び、比例・光・空間の感覚を身体に刻んでいる。寺院や神殿の調和のとれた柱間、町屋の梁の長さには、何世代にもわたる知恵の蓄積がある。古い図面を読み解くことは、過去の人間がどのように「居場所」「住空間」をつくってきたかを知ることであり、それが現代建築の基礎感覚を形づくる。歴史を忘れた建築は、見た目だけの造形で終わってしまうだろう。
こうして見ると、「過去に学ぶ」というのは、人間の知的活動の、きわめて自然な姿であることがわかる。別に、何も難しくなければ、奇妙なことでもない。法も科学も建築も、みな古い知の上に新しい知を重ねる。ところが、文学や哲学、宗教といった分野になると、とたんに「古い=時代遅れ」「いまに合わないし、いまさら顧みる意味なし」などとみなされがちである。そのことに、筆者個人は「なんで??」とただただ疑問におもうばかりだが、個人を超えて、社会全体がもしそれを志向しはじめるとなると、本格的に危ういとおもう。実際、古典文学不要論は、とても不自然で、不具合の多い認識であるといわねばならない(思うに、高校までのいわゆる学校教育・カリキュラムとしての古典教育の是非や、抱えられている問題点と、現代社会における不要論とで議論がすり替わってしまっているようでもある。あるいは不用意に混交してしまっているきらいがあるともいえそうだが、そのことを論じるのはまた機会をあらためよう)。古典文学とは、過去の理念や表現の「判例集」であり、「理論体系」であり、「設計図」でもあることをあらためて知っておきたい。
古くても価値がある
古い作品には価値がない、という発想があまり成立しない領域を挙げるなら、なんといっても美術がその好例であろう。展覧会には多く人が集まる。2016年東京都美術館で開催された伊藤若冲展は、なんと320分待ちとなり、人気テーマパークのアトラクションの待ち時間以上だとニュースになった。
鑑賞する人だけではない、もちろん作り手——絵画を学ぶ者の多くは、盛期ルネサンス、15世紀以降に確立した写実的技法——線遠近法、光と陰の操作、人体比例——を必ず参照する。これらはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロらの試行の集積であり、後世の画家や教育制度によって長く継承されてきた。たとえ現代の画家が前衛的な手法を用いるとしても、その作品が「絵画」である以上、キャンバスに線を引き、顔料を置くという行為そのものが、過去数世紀にわたって積み重ねられた方法論のうえに成り立っている。ここで重要なのは、古典が単なる模倣対象ではなく、後続の表現を試行錯誤させる基盤として機能している点である。過去の成果を完全に無視して制作することはほとんど不可能だ。歴史的前衛運動が古い様式を批判したとしても、批判が成立するのは、その対象を認識し、共有された規範体系の内部に位置づけられているからである。多くの画家は、新しい表現を獲得するためにこそ古典に立ち返る。既存の技法を理解し、身体化したうえで初めて、それを越境し新たな可能性を切り開くことができる——そのことを経験的に知っているのである。
音楽の世界でも同じだ。バッハやベートーヴェンの楽曲は、今日もコンサートホールで演奏され、音楽教育の基本に据えられている。誰もそれを「時代遅れ」とは言わない。そこに込められた構成の緻密さ、旋律、音楽的思考は、時代を超えて学ぶに値するからである。クラシックの名を冠しながらも、それは「古い音楽」ではなく、「人間の感性を探究する方法論」なのである。むしろクラシックを学んだ者ほど、現代音楽や映画音楽の新しい響きを生み出すことだろう。古典が制約ではなく、創造のための基盤であることを、音楽家は肌で知っている。
以上、様々に、こうして「古いものの価値」を見てきたが、すでに述べたように、まさに過去を学ぶことはごく当然の行いであり、何ら特別なことではないということがあらためてわかる。にもかかわらず、古典文学の領域だけは、「古いからいらない」「現代に合わない」といわれてしまうことがしばしば、あることを、あらためてここで、2025年現在の社会的危機感として、言挙げしておきたいと思う(コラムシーズン2 第5回「「文学」を考える(後編)」も参照)。
この先を見通すためには
いまの世の中では、「未来を見通せる人」「次に何が起こるかを予測できる人」がもてはやされる。政治でも経済でも、教育でも、あるいは技術の世界でも、「これからこうなる」と、より断言に近い形でいってくれる人物ほど、期待を集める(そのかわり外れるとボコボコに叩かれて炎上することもあるのが最近の常ではあるが)。しかし、未来を語ることができる人というのは、本来、過去を深く見返し、参照できる人のことであるはずだ。過去の出来事や思考の積み重ねを読み取り、その中に繰り返される構造や周期を見いだせる人こそが、未来の形をある程度予見できる。歴史は、まったく同じかたちでは繰り返さないにせよ、人間の行動原理や社会の反応には一定のパターンがある。それを見抜く洞察があってこそ、未来を描くことができるのだと思う。
経済にしても、金融の危機や景気の循環は、過去の膨張と崩壊の歴史を精密に参照してこそ理解できる。政治においても、理念や制度の形成は一朝一夕に生まれたものではなく、長い時間の中での失敗と修正の結果である。古典文学を軽んじることは、単に文学的教養を放棄することにとどまらない。それは、社会全体の記憶を軽視し、未来を語るための視野を自ら狭めることでもあるのだ。未来志向という言葉は一見、前向きに聞こえるが、過去を見ない未来志向は、まるで根のない樹のようなものである。根が深いほど、枝は遠くまで伸びる。過去に学ぶことは、後ろを向くことではなく、これから先を支えるために地中へ根を張る行為にほかならない。
人間はことばによって思考し、社会を築き、未来を描いてきた。ことばは人間そのものの根幹であり、その最たる記録、足跡が古典文学作品の類いである。過去の人々の感情も、迷いも、希望も刻まれている。自分の思考の根を自ら断つことのないよう、継承していきたいものだ。もちろん個々人の考えや嗜好は自由ではあるが、少なくとも、そんな「空気」を個を超えて社会に蔓延させないようには、できないものだろうか——私たちの、次の100年のために。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

