シーズン2 第14回 
果てしない数字の単位
——感覚を超えた世界 
尾山 慎

本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

数を区切ることばたち

 仏教では、「」や「不可思議」「せつ」「微塵」ということばによって、とても大きいもの(宇宙の広がり)と、とても小さいもの(一瞬・微粒子の世界)の両極を見つめてきた。つまり、世界とは「はてしない広がり」と「かぎりない細かさ」の両方を内包するものだという感覚である。現代の科学でいえば、「那由他」「不可思議」は宇宙論——ビッグバンや銀河の数といったスケールの世界に通じ、「刹那」や「微塵」は量子論——原子や電子、さらにはその奥にある粒子のゆらぎの世界に近い発想といえる。仏教は、すべてのものが互いに関係し合い、絶えず移ろい続けていると説く。この「つながり」と「うつりかわり」の思想は、量子論が示す「粒子と波の二重性」や「観測によって現象が決まる」という考え方にもどこか響き合う。要するに、仏教も量子論も、世界を固定した実体ではなく、絶えざる変化の連続としてとらえるという点で、同じ方向を見ているのだ。
 そういう意味では、古代の人々は、数やことばという道具を通して、すでに〝宇宙のスケール〟を感じ取っていた、ということができる。その感受の深さが、2500年の時を越えて、現代科学の思考とふたたび共鳴している——そう考えると、人間の知の射程は実にたくましく、したたかだと驚かされる。
 「那由他」や「刹那」ということばが存在したからこそ、人は〝想像を超える大きさ〟や〝見えないほどの小ささ〟を思い描くことができた。ことばがあることで、初めて世界のその部分に「目」が向けられることとして立ち上がってくる。もしことばがなければ、人間の認識は、経験できる範囲の中に閉じ込められてしまうだろう。ことばとは、世界を区切り、かたちづくる枠である。ことばがあるから、思考は届くべき場所を得る。ことばをもつということは、その分だけ世界を「知りうる」ということだ。仏教が生み出したこれらのことばは、「世界」の果ての両極を指し示す指標であり、人間の認識そのものを押し広げる装置でもあった。そしてそれは、科学が新しい単位や記号をつくって未知を測ろうとする営みと、実は、何も変わらないのである。

大きな数の単位

いちじゅうひゃくせんまんおくちょうけいがいじょじょうこうかんせいさいごくごうしゃそうりょうたいすう

 私たちが日常で使う数字の単位といえば、多くの場合は「万」「億」、せいぜい「兆」までである。国の予算、企業の規模を語るときに「~兆円規模」と聞けば、それはもう現実感の薄い、どこか遠い世界の話に感じられるほどだが、この「兆」のさらに上には「けい」があり、その名は日本のスーパーコンピュータにも用いられた。科学の最先端では、「京=1兆の1万倍(10の16乗)」という単位が、実際の計算速度やデータ量の目安として現実に使われたわけである。
 恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数の五つは、いずれも仏教に由来する数の単位である。もともとはインドのサンスクリット語で、宇宙や時間の果てしなさを表すために使われた語だった。

ごうしゃ……インドの聖なる河ガンジス川(恒河)の砂の数、という意味。無数のたとえ。
そう……サンスクリット asaṃkhyeya の音写。「数えきれないほど多い」という意味。
…… nayuta の音写。「はかりしれない数」。
…… abhūta の意訳。「思いはかることも、語ることもできないほど大きい」。
りょうたいすう…… aprameya。「量ることのできない数」、最高位を示す語。

これらはもともと、仏教が宇宙や仏の数、あるいは時間の無限を説くときに使った比喩的表現である。それがのちに中国・日本に伝わり、十進法の中に組み込まれて「大きな数の単位」として定着した。このことは、数字の漢字単位が単なる古風な表記ではなく、人間の世界認識の階層を支えることばであることを示している。私たちの身の回りでは、せいぜい「兆」までで止まるのは、生活の中で扱う規模がそこまでだからで、それ以上の単位となると、科学や経済、あるいは宇宙を相手にするときに必要となってくる。先にも述べたように、ことばがなければ、その先を考えることは難しい。「京」「垓」「那由他」などの語は、普段の生活からは遠く離れているようでいて、人間が世界をどこまで思い描けるかを支える装置でもある。スパコン「京」という名は、その象徴であった。なお、現在は、京の百倍のスピードの計算能力をもつ「富岳」が後継となっている(日本を象徴する富士山にちなむ)。
 「京」が開発された当時、日本の技術が到達した計算能力の極点を示すために、大きな数の単位の一つを冠した。古代に生まれた漢数字の体系が、21世紀の科学の最前線で再び息づいたわけである。

小さな数の単位

 小さい方の世界にも、昔の人は細かく名を与えていた。それは仏教の思想から生まれた語もあれば、江戸時代の算術や度量衡(どりょうこう)から発達したものもある。一覧にすると次の通り。

十分(じゅうぶん) … 1の10分の1。十進法の最初の小数単位。
りん……1の100分の1。もとは中国の度量衡からきた実用語で、金銀の重さや土地の面積にも使われた。
もう……1の1000分の1。「毛の先ほど」という比喩にあるように、極めて小さいものの象徴。
……1の1万分の1。糸のように細く、さらに小さな単位を表す。
こつ……1の10万分の1。「こつぜん」ということばがあるように、瞬間や極小。
……1の100万分の1。「微塵」「微妙」など、仏教的にも〝限りない細かさ〟を表す。
せん……1の1000万分の1。「繊細」の「繊」。江戸の算術書に見られる人工的な単位。
しゃ……1の1億分の1。「恒河沙(ガンジス川の砂)」の〝沙〟で、仏教語由来。
じん……1の10億分の1。文字通り「ちり」。仏教でも「微塵」「じんこう」など、極小の比喩として使われた。
あい……1の100億分の1。「ほこり」。実際の計算よりも、〝最も小さいもの〟の象徴的な終点として置かれることが多い。

小さい数の単位には、上述の通り大きく分けて2つの由来がある。1つは仏教由来。「忽」「微」「沙」「塵」などは、インド仏教の宇宙観や時間観から生まれたことばであり、「刹那」「微塵」と同じく、ものの変化や存在の儚さを示す思想と深く結びついている。これらの語は、単なる数量表現ではなく、極小の時間や空間を思想的に表すための単位でもあった。つまり、「どこまで細かく世界を分けて考えられるか」という問いに、宗教哲学の側から応えたものといえる。
 もう一つは、江戸時代の算術や度量衡の発展に由来する。
「厘」「毛」「糸」「繊」などの単位は、中国の度量衡体系をもとに、江戸期の算術家たちが十進法に沿って整えた単位である。これは宗教的象徴ではなく、実際に重さや長さ、金銀の取引といった現実的な計算のために使われた。やがてこれらのことばは、日常語として「ほんのわずか」「ごく小さいもの」を表す比喩にも転じ、文化的にも定着していった。つまり、極小の単位をめぐることばの系譜は、仏教が生んだ思想的な“微”の世界と、江戸の算学が築いた実用的な“微”の世界という、二つの異なる知の流れが交わる場所に成り立っているのである。

見えない世界を探求する

 現代の科学には、私たちの感覚ではまったく捉えられない世界を扱う領域がある。たとえば素粒子物理学では、誰も直接見たことのない粒子の存在を、数式や間接的な実験結果から推定している。量子論では、「観測する」という行為そのものが、現象のあり方を変えてしまうという不思議な世界が広がっている。そこでは、目に見える現実よりもはるかに深い層で、物質や時間、存在そのものの仕組みが問われている。科学は今や、感覚の限界を超えたところにまで、思考と実証の手を伸ばしているのだ。こうした営みは、もちろん宗教や形而上学(哲学)とは異なるものでは、ある。科学は実験と検証を基盤とし、理論は常に再現性と証拠によって裏づけられなければならないからだ。それでも、語弊をおそれずに言えば——科学の根底には、「見えないものを信じ、探り、世界の奥行きを理解しようとする心」が流れている。この「信じる」とは、単なる信仰と同じではない。それは、人間の理性が届かないほどの広がりを前にしてもなお、「そこに秩序があるはずだ」と考える知の希望であり、好奇心であり、ある種の敬虔さでさえ、ある。その意味で、科学と宗教はまったく別の道を歩みながらも、どこかで深く通じ合っていると思える。宗教は、存在の意味や世界の根源を「ことば」と「象徴」によって語る。科学は、同じ世界を「数」と「理論」で描こうとする。

——なぜ世界はこうあるのか。私たちはこの中でどう生き、どう在るのか。

科学者が、まだ観測されていない粒子の存在を仮定し、何年もかけて実験を積み重ねる姿は、宗教者が目に見えぬ真理を思索し、祈りを通して世界の秩序を見出そうとする営みにも似ている。どちらも、「見えないものを見ようとする知の勇気」によって支えられている。そこには、人間が世界を理解しようとする根源的な欲求、そして未知への畏れと憧れがある。
 科学を宗教と同一視するような言い方は、語弊があるかもしれない。しかし、人間が「見えない世界」を想像し、数式やことばによって橋をかけようとする行為そのものにおいて、両者は静かに響き合っていると思うのである。筆者自身、その両方(学術研究/寺の住職)に関わる人間として、そう感じざるを得ない。
 どちらも、人間という存在が、無限に思い描こうとする営みであり、その中にこそ、私たちが世界を生きるための深い「智」が息づいている。

 

次回更新は2月25日頃の予定です。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

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