シーズン2 第17回 
道教入門(後編)
尾山 慎

本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

仙人になりたい

 ごく単純にまとめると、

仏教は、悟りたい(仏陀になりたい)。
儒教は、聖人になりたい。
道教は、仙人になりたい。

 仏教は生老病死の苦しみを超え、悟りに至ることを目指す。儒教は道徳的に完成した人格、聖人を理想とする。それに対して道教は、自然と一体化し、不老不死に近づく仙人を目標とする。「仏道」に対して、道教はいうなれば「仙道」である。仙人とは、従って皆、もとは人間である。だが修行を重ね、気を整え、自然の流れと完全に調和した存在とされる。老いず、死なず、山中に住み、ときに人里に現れる。超能力者というより、「世界のしくみを知り尽くした人」として描かれることが多い。ここが重要である。
 権力に媚びず、時代に流されず、長い年月を見てきた存在。だからこそ、物語などでは若い主人公に助言を与える師匠役になりやすい。アニメ、ゲームなど、仙人は、よく世界の裏側や法則を知っている人物として登場する。さらには、

修行によって強くなる主人公へ、様々な助言、指南。
体内のエネルギーを覚醒させる設定。
何百年も生きる賢者。
山奥に住む超越的、世間と没交渉の存在。
不老不死の薬や霊符(を授けたりする)。

あらためて列挙すれば、成長系の物語にこれほどまでに向いているキャラクターモチーフもないだろう。

(画像は生成 AI による)

道教は「死」をどう考えたか

 道教にとって、死はどういう意味を持っていたのか。仏教との最も大きな違いが死に対する考え方である。仏教は、死を不可避のこととして理解し、そして受け入れる。、生老病死の苦しみから「解放」されることを目指す。死そのものを避けたり、超えたりするのではなく、死を含んだ世界の構造として、受け入れようとする。それに対して道教は、もっと率直である。

「できれば、死にたくない」

これが出発点であり、そして目標だ。筆者は仏教徒だけれども、道教が吐露するこの願いは、実に正直なところだなとおもう。言い換えれば、この願いは、誰しも、一笑に付せるようなものではない、実に人間らしいリアルな渇望ではないか。
 ところで前回も述べたように、道教は自然にまかせて生きる宗教である。それならば、死こそ自然なのではないか?死なないように願うのは、自然に逆らうことではないか?
 道教にとって自然とは、「放っておくこと」ではない。宇宙を動かしている法則、気の流れ、その全体を指す。死もまた、その法則の中の一つの現象である。人は気が衰え、散じることで死に至る、と考えられた。ならばどうするか?その気を整え、保ち、乱さないようにすればよい、という発想になる。死を否定するのではなく、死に至る流れをできるだけ遅らせる。これは自然に逆らうというより、自然の仕組みを理解し、その内部で最善を尽くす態度である。川の流れにたとえるなら、激流に逆らって泳ぐのではなく、流れを読み、無理をせず、岸をうまく使って、結果できるだけ長く浮かび続ける。そうした知恵に近い。
 道教は、死を恐れて目をそらす、あるいは死を否定するような宗教ではない。むしろ、死の仕組みを観察し、それを扱おうとした。仏教が「死を受け入れ、超える」道を示したとすれば、道教は「死を研究し、できるだけ遠ざける」道を探ったと言える。
 そこには、人間の率直な願いがある。できれば長く生きたい。できれば健やかでありたい。その素朴な願いを、道教は正面からじることなく問うのである。ということで、道教にとっては、自然に従うことと、長生きを願うことは、必ずしも対立しない。自然の法則を知らずに無理をすることこそが逆らうことであり、法則を知り、その中で自分を整えることは、むしろ自然と調和する道なのである。
 道教は「死んだら終わり」とも考えない。魂は分かれ、天に昇る部分もあれば、地に残る部分もあるとされた。だから葬儀や鎮魂の儀式も重んじられる。死は断絶ではなく、変化の一段階である。しかしそれでも、理想はやはりとにかく「生き続ける」ことであった。ここに、道教の非常に人間的な側面がある。死の理解を仏の悟りへの入口と考えて達観しようとする仏教とは違い、死をどうにか少しでも先延ばしにしたい、なんなら死なないのが一番良いと願う。とても率直で、とても現実的である。だからこそ仙人は、その「老や死を克服した者」として、象徴的に物語などにも登場する。実在するかどうか、というより、抽象化された理想型のようなものだ。何百年も生き、時代を見てきた存在。死を超えた視点を持つ者として描かれる。道教にとって死とは、否定すべき敵というより、「乗り越えたい自然現象」であった。死をどう理解し、どう付き合うか。その問いの延長線上に、仙人という理想像が生まれたのである。

無為自然

 色鮮やかな寺院、複雑な儀式、霊符や呪文まであるので、まさしく映画のキョンシーや道士の姿(前編参照)がまずもって連想されて、言ってしまえば「なにやらアヤシイ」「科学の現代にはなじまないオカルト」などと感じる人も少なくないだろう。ゲームやアニメはこれらをもとにしているのに、逆に、道教の儀式や祭祀のほうが、まるで映画やゲームみたいなどと思われてしまったり。たしかに、道教は儀式の宗教である。霊符を書き、目に見えない力を扱おうとする。しかし、その表面だけを追いかけていると、本質を見失ってしまう。道教の核にあるのは、きわめてシンプルな発想である。

世界には大きな流れがある。
人間も自然の一部である。
無理をすれば壊れる。
身と心を整えれば、より長く、穏やかに生きられる。

 これ以上でも、これ以下でもない。
道教は、自然を征服しようとはしない。自然と対立するのでもない。むしろ、その流れを観察し、自分の力みをほどき、流れにうまく乗ることを考える。老子のいう「ぜん」とは、何もしないことではない。余計なことをしない、ということである。無理に操作しない、そういう流れを見極め、乗っていく——これはようするに、体をそういう風にもっていく、つまりできるだけ健康であるようにという私たちの普通の感覚や志向と根っこは同じであるということだ。
 現代社会は、常に努力を求める社会となっている。競争し、成果を出し、効率を上げよと迫られる。だが実際は、力みすぎれば疲弊する。無理を重ねれば、身体も心も疲れてしまう。ここで道教の発想は、意外なほど現代的である。

呼吸を整える。
生活のリズムを守る。
自然の中に身を置く。
必要以上に争わない。

どれも特別な修行ではない。だが、つい忘れがちなことばかりではないだろうか。現代人もまた、不安を抱えている。先の見えない社会、止まらない情報、加速する時間。その中で、どうすれば壊れずに生きられるのかを探している。
 道教は、派手な奇跡を約束する宗教ではない。いわば「無理をしすぎるな」と静かに語る宗教である。自然の流れを感じ、自分の状態を知り、少し長い目で物事を見る。その姿勢こそが、仙人への第一歩とされた。外側の形式は確かに現代的ではない。だがその内側にあるのは、じつに人間的で、じつに自然な願いである。
 だから、2000年を経ても、道教の発想はどこか私たちの心に響く。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

次回更新は4月15日頃の予定です。

 

シーズン2 第16回 道教入門(前編)