学界展望 日本語の歴史的研究 2018年7月〜12月 
(藤本真理子)

日本語研究者が「歴史的研究」2018年後期の動向を振り返ります。


【学界展望】
日本語の歴史的研究  2018年7月〜12月

大辞典から見える日本語史研究の今
藤本真理子
(尾道市立大学准教授)

 

 この間、注目される日本語学関連の出版物のひとつに、『日本語学大辞典』(東京堂出版、10月)(以下、「大辞典」とも称す)の刊行があった。本書は、1955年版、1980年版の『国語学大辞典』をうけたものであるが、単なる改訂にとどまらない。新旧の大辞典を比較し、その立項状況を切り口に、2018年7月~12月の日本語史の研究の一部を取りあげていく。

1.「コーパス」と時代と資料

 「コーパス」は大辞典で新たに立項された語である。コーパスが近年の言語学の研究事情を大きく変えたことは間違いない。大辞典では、主な日本語コーパスのひとつに、「上代から近代までをカバーするもの」として『日本語歴史コーパス』があがる。今期も、これを利用した研究に、田中牧郎「平安時代の「もろもろ」と「よろづ」―コーパスによる語誌研究―」(沖森卓也編『歴史言語学の射程』、三省堂、11月)青木博史・小柳智一・吉田永弘編『日本語文法史研究4』(ひつじ書房、10月。以下、『文法史4』)小特集「コーパス」があり、吉田永弘「助詞の介在―補助動詞「す」を中心に―」をはじめ中古にかんする論が3本、中世にかんする論は大木一夫「中世後期日本語動詞形態小見」の1本がある。「上代から近代までをカバー」とある『日本語歴史コーパス』だが、時代ごとに資料性も異なり、また中世資料は現段階では極端に少ない。そのため、大規模なデータを重視する傾向にある近年、研究の対象となる時代には多少の偏りが生じているように思われる。
 そのような中、資料にもとづいた精緻な調査から結果が導かれた研究として、中近世期の発音注記の系統を明らかにした竹村明日香・宇野和・池田來未「謡伝書における五十音図―発音注記に着目して―」(『日本語の研究』14-4、12月)が注目される。また、川村祐斗「サラバの別れの挨拶語化に関する記述的研究」(『名古屋大学国語国文学』111、11月)では、中世前期から近世にかけて接続表現から挨拶語化するサラバの様相が、挨拶語を認定するための必要条件を提示して実証的に示される。この挨拶語化の現象は、謝罪や感謝の場面で定型的な表現を求めるようになる歴史的変化の方向性とも広く関連を認めてよいのではないかと思える。また、沖森卓也「いわゆる「母音交代」をめぐって」屋名池誠「漢文の蔭の日本語表記―続日本紀宣命の逆順〈語〉表記―」(以上ともに、前掲『歴史言語学の射程』)田中草大「『尾張国解文』現存テクストの成立についての試論」(『国語国文』87-12、12月)をみると、今後いかにコーパスが整備されようとも、どのようなデータを収集すべきかという点や集めたデータへの分析の観点は扱う側に任されているという点にも気づかされる。『文法史4』でも、特集のほかはコーパス利用では解決しきれない問いを立てる論が上代から近世まで並ぶ。
 コーパスを用いた調査は、あくまで研究のきっかけや予測される事象説明の補完として位置づけられるものと考える。歴史コーパスの充実に伴い、その恩恵にあずかることも増えたが、ツールの一つであるコーパスに振り回されるばかりとならないようにありたい。

2. 周辺から中央まで、連続体としての「方言」

 歴史的な方言研究の分野では、これまでの江戸か上方かという中央から離れた、周辺部の地域方言の歴史をとらえようとする試みが近年あらわれている。今期も「18世紀初頭の鹿児島方言を反映するロシア資料、幕末及び明治・大正生まれの鹿児島方言話者による方言談話」の資料を用いた久保薗愛「鹿児島方言におけるテンス・アスペクト・ムードの歴史」(『文法史4』)、そして三宅俊浩「近世後期尾張周辺地域における可能表現」(『名古屋大学国語国文学』111、11月)が見られる。中央だけでなく、周辺部に対して正面から取り組もうとする意気込みが伝わる。ただし前者は本論中で述べられるとおり、資料の制約上、論題に示されたような全体像を把握するところまでは至らず、後者も最終的には当該地域の可能表現以外の方言的特徴も合わせて見る必要があると述べる。加えて後者は、三宅俊浩「可能動詞の展開」(『国語国文』87-7、7月)を含む一連の可能表現の論究の中に置いてとらえる必要もある。荻野千砂子「南琉球石垣市宮良方言のujoohuN―視点がない授受動詞の謙譲語―」(『日本語の研究』14-4、12月)など琉球語にかんする調査が行われるように、地域方言や古典語・現代語を含め、周辺から中央、中央から周辺という相互参照や比較が、言語体系を明らかにするための手法のひとつとして様々に実践されている。各地域方言の歴史的研究については、研究を進める際の問題点や方法にかんして、資料や地域ごとの特質もあろうが、総合的な研究の視点がほしいところである。
 個別の言語事象から体系を明らかにする際、文献資料に残された事象を観察するにあたっては、使用者の意識にも目を向ける必要がある。前田桂子「近世長崎史料における方言意識」(第119回国語語彙史研究会、神戸大学、9月22日)が述べるような、地域内外の人びとが何を「方言」としてとらえ、文献資料に残しているかという観点からの問いや、田中ゆかり「「方言コスプレ」と「ヴァーチャル方言」―用語・概念・課題―」(『方言の研究』4、ひつじ書房、9月)が指摘する「ヴァーチャル方言のなりたちとその背景」についての考察も今後、取り組まれるべき課題である。

3. 学会の位置づけと研究者間の交流

 大辞典の項目には変わらず、国語学・日本語学者の名前が立項されている。その項目のひとつにあがる「服部四郎」の著『日本祖語の再建』(上野善道補注、岩波書店、5月)について、上野善道「服部四郎と日本祖語」(日本言語学会夏期講座2018特別講演会、8月24日)が行われた。大辞典の記述を超え、所収内容にまつわる学問的な話や服部四郎の人柄のわかるエピソードなどが紹介された。直接、接する機会のあった世代に対し、そうでない世代は年々増えていく。そのような中、間接的ではあっても、先行する研究者にかんする現場性をもった話を聞く機会というのはぜひ今後も設けられてほしい。あらためて知るという点で、同様の試みととらえられるものには、宮地朝子「【文法史の名著】此島正年著『国語助詞の研究―助詞史素描』」(『文法史4』)や、富士谷成章の『あゆひ抄』をあらためて知ったその先を考える小柳智一「分類の深層―『あゆひ抄』の隊から―」(『文法史4』)があった。
 多くの学会が若手研究者の積極的な参加を望んでいると聞く。日本語文法学会大会(12月15~16日、立命館大学)では、各地の研究会どうしの交流をはかる企画が懇親会で設けられており、各研究会の特性の確認や人的交流の場となっていた。

4.「歴史語用論」という分野

 「歴史語用論」については大辞典に立項がなく、索引にもない。これは、大辞典改訂の編纂時期を考慮するとやむを得ないことであり、むしろ「歴史語用論」という分野の名称がここ数年で広く認知されるようになったことをよく表している。実際、『文法史4』では、森勇太「【テーマ解説】歴史語用論」が載る。このような視点にたつ研究は以前からあったが、名称が与えられたことは、様々な研究を横断的にとらえることに一役かっている。終助詞の意味用法について、対人・非対人場面の違いから分析を行った富岡宏太「中古和文の「ぞ+かし」―「ぞ」と「かし」との対照から―」(『文法史4』)は非対人場面と比べ、対人場面に使用例が多い「ぞ」「かし」にもかかわらず、「ぞ+かし」ではその意味緩和が起きていると、一見、ばらばらな現象を説明づける。また、青木博史「「ござる」の丁寧語化をめぐって」(『文法史4』)は、普遍的とは言えない変化が中世末期から近世にかけて生じた要因として、尊敬から丁寧の意味変化の間に謙譲をいったん挟むという想定の必要性を説く。さらにこの論を通して、本動詞から補助動詞へという、これまでの日本語研究の中で当然のように扱われてきた変化の方向性に疑問を提示する。
 「歴史語用論」という切り口は、古典語研究において、現象の記述の先にある分析が、より求められるようになっている研究の状況とも重なる問題意識である。たとえばそれは深津周太「田和真紀子著『日本語程度副詞体系の変遷―古代語から近代語へ―』」(『日本語文法』18-2、10月)の書評論文からもうかがえる。本書評内では、大量調査によって現れた事象を、事象として提示するだけでなく、外的・内的要因を含めて「なぜその時期にそのような変化が生じたのか」という点を、たとえ解釈を交えつつであっても述べてほしいという期待が述べられる。この観点でみるならば、詳細な古典文の分析が示される小田勝「古典文における同格・提示・挿入の融合構文とその読解」(『國學院雑誌』119-11、11月)も、解釈方法の提示が中心であり、なぜこのような事象が見られるのか、そして古典文全体に対してどのような見通しが立てられるのかについては前面には現れない。『古典文法総覧』『読解のための古典文法教室』に加え、HP上での連載(和泉書院、12月現在、http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/pico/index.php?cat_id=60)と、古典への造詣の深さが継続的に示されるからこそ、それらを読み解く際に必ずや描かれているであろう氏の古典語に対する考えを、今一歩、知りたいと思ってしまう。

5.「現代の日本語」はどこまでつづくか

 「現代」や「現代語」と何かをひとくくりにして呼ぶにはいささか厳しいものがあることは、もはや周知のことである。大辞典には、「昭和初年までの確立期を経て20世紀半ばに定着し、その後現在まで持続・展開してきているのが現代の日本語と言える。昭和初年から約90年、戦後約70年を経た中では、「現代の」とひとくくりにするのがためらわれるような様々な変容が見られるからである。」(「現代の日本語」項、341頁)とある。1980年版の「現代の国語」の項では、解説の初めに「明治」を含むかどうかが問題としてあげられるが、大辞典では「近代の日本語」が新たに立項されることにより、この問題の解決がはかられている。ちなみに、1980年版では、「横書きの印刷物は、昭和前期までは理科系のものに限られたが、今日では範囲が広くなっている。事務文書の横書きは一般化した。」(「現代の国語」項、340-341頁)と述べられており、大辞典も今回の改訂をもって縦書きから横書きへとなった。平成という時代が区切りを迎えることにも意識が向けられたこともあってか、雑誌『日本語学』(明治書院)では、「平成時代のことばと文字」(9月号)「日本語史の時代区分」(12月号)の特集が組まれた。平成という時代で区切ることに対して、井上史雄「平成の方言―鶴岡の二五〇年間の言語変化―」(9月号)は、ゆるやかな言語変化のほんの一部分と評す。時代区分についての特集では、何かを把握するには分節が必要であるため、時代区分はいるが、目的によって区分の仕方は異なるだろうという大枠の話があがる中、矢島正浩「条件表現史から見た近世―時代区分と東西差から浮かび上がるもの―」(12月号)は、条件表現からみた場合に、なぜ近世に前後期を区分する必要が認められるかという点を述べる。

 境界を壊し、引き直す。大辞典の編集や学会のシンポジウム・ワークショップなど種々の場で行われている作業であろう。その際、多様性、多義的という言葉は便利ではあるが、それだけで乗り越えようとするには、抱えるものがいささか大きすぎる。今期、日本語学関連のまとまった著作としては、「特集 多様化する日本語研究の現在」(前掲『國學院雑誌』)『歴史言語学の射程』(前掲)などがあった。あいまいな境界のまま、ゆるやかにとらえるべき事態もあるだろうが、新たに名づけられることによって意識される事象もある。時代区分のような区切りを迎えることによって、何かをまとまりとしてとらえることが無理やりであってはならないが、古くからの境界や定義を検討する機会でもある。大辞典には残念ながら「歴史語用論」のように未収の語もあるが、しかしこれはまた研究が日々、更新されていくことのあらわれとも言え、楽しみである。


藤本真理子(ふじもと・まりこ)……著書に『バリエーションの中の日本語史』(共編、くろしお出版)、『グループワークで日本語表現力アップ』(共著、ひつじ書房)、論文に「現実世界の対象を表さないソの指示―歴史的変遷をとおして―」(『日本語語用論フォーラム』2、ひつじ書房)ほか。


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