軍記物語講座によせて(5)
藏中さやか「和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―」

いよいよ軍記物語講座シリーズの第1回配本、『平和の世は来るか 太平記』(第3巻)が発売となりました。
軍記物語研究にまつわる文章の連載、第5回は、神戸女学院大学教授の藏中さやか氏です。
武人でもあり歌詠みでもあった守護大名赤松氏。武勇で知られる一族の和歌に通じた姿は、軍記の中では教康の描写に託されています。一族を見つめる軍記の書き手たちの想いとは。


和歌を詠む赤松教康―嘉吉の乱関係軍記、寸描―

藏中さやか 

1. 嘉吉の乱首謀者の祖
 将軍足利義教が播磨の守護大名赤松満祐の自邸で暗殺されたのは嘉吉元年(1441)六月二十四日のことであった。世にいう嘉吉の乱である。同年九月、満祐と嫡男教康の自刃により赤松の嫡流はここに一旦途絶え、細川・山名の対立する時代へと社会は大きく転換していく。

 赤松一族は中興の祖、円心(則村)がその基盤を築いた。『太平記』巻六は、円心を「播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取りて無双の勇士有り」と村上源氏の流れを汲む者とする。もとより、家名をあげ権威づけるのが古系図や家譜であり、血統の正しさを解明すべくその記述を追究する性格のものではない。多数ある満祐一族の武勲と運命を語る嘉吉の乱関係軍記にもこの貴種流離の記述は定着している。矢代和夫ほか編『室町軍記赤松盛衰記―研究と資料―』(国書刊行会、1995年)を繙くと『赤松記』(定阿本)には村上天皇から義則に至る系譜が載り、長編ながら雑纂的な要素をもつ『赤松盛衰記』の「村上源氏赤松家先祖之事」では村上天皇からの嫡流としての位置付けを「村上天皇御皇子具平親王久我に竹園し給ひ、其十四代の御胤円心入道、播磨国赤松に住居して其所を称号とす」と明瞭に語る。

 村上天皇の第七皇子である具平親王(964~1009年)は後中書王と称された和漢に通じた人物で、藤原公任と人麻呂貫之優劣について論じたことや紫式部の父為時との交流があったこと等で知られる。武勇をもって名をあげる赤松一族の祖が皇統に連なる形で示すだけではなく、文人として誉れ高い賜姓源氏、具平親王を祖とするところに、赤松一族の志向したところがほの見える。

2. 和歌を詠む武人として
 赤松一族は和歌に親近した武人であった。勅撰集入集歌数を示すと、則祐は新千載二首、新拾遺三首、新後拾遺一首、新続古今一首、満祐は新続古今二首、義則は新後拾遺一首、満政は新続古今一首等となる。小川剛生氏は『武士はなぜ歌をよむか』(角川選書40、2008年)において、主として東国の状況を明示したが、西日本においても当然のことながら武人は和歌や連歌を詠み公家と武人がともに出詠する機会は多々あった(尾崎千佳「大内氏の文芸」〈大内氏歴史研究会編『大内氏の世界をさぐる』勉誠出版、2019年〉等参照)。守護大名や被官層が参加する詠歌の場に赤松一族の名が確認できる。当時、和歌を詠むことは、時として公的な場に付随した社会的、政治的活動の一部であり、朝廷・将軍の権威に繋がる営為であった。

 頓阿の曾孫にあたる尭孝の『慕風愚吟集』は応永二十八年(1421)正月から十二月までの日次家集である。同集には将軍義持や細川満元と詠作の場を共有したことに加え、赤松満祐家で開催された月次歌会や住吉社法楽百首のことが載る。満祐、満政の名は永享期の法楽百首や将軍主催の月次歌会等にも見え、またたとえば『播陽万宝知恵袋』(天川友親編・八木哲浩校訂、臨川書店、1988年)に載る『神社歌寄』(天正六年永良芳泉著)に則祐、『神社歌寄加補』(寛延二年三木通識著)や『播州古所歌寄』(同三年同著)には満祐その他赤松一族の和歌が記される。

 その歌学びは則祐の代に既に専門的で高度なものを目指していたと考えられる。歌道師範二条為忠の『古今集序注』について詳論する小川「二条家と古今集注釈書」(『中世和歌史の研究』塙書房、2017年)は、為忠執筆のこの注が、康安元年(1361)十二月三日に赤松彦五郎(範実。円心の嫡孫光範の弟で、叔父にあたる円心三男則祐の養子とされる)に授けられたものであることを明らかにする。さらに範実が範顕と改名したこと、また井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987年)420ページ、高坂好『赤松円心・満祐』(人物叢書新装版、吉川弘文館、1988年)118ページを参照として示しつつ、二条為忠が「則祐の懇望により『古今集』の証本を書写して贈り、さらに家説を授けた」(下線部は稿者注)ことを述べる。この折りの『古今集』講説の具体的内容については明確ではないが、則祐は二条流の古今伝授をうけた人物と定位される。そして彦五郎もまた為忠により『古今集』の「序を注して書きあたへ」られる程の人物であった。彼らの歌学びは、和歌を嗜むといった程度の人々を凌駕したものといえよう。

 稿者も嘉吉の乱以降の赤松一族の歌人としての活動と歌道家冷泉為広とのかかわりについて歌題集成書研究の側から取り上げた(「『明題抄』の一面―為広周辺からの照射」全国大学国語国文学会『文学・語学』214、2015年)ことがあるが、赤松一族の和歌に留まらない文芸への傾倒は渡邊大門「戦国期赤松氏と文芸に関する基礎的考察」(『中世後期の赤松氏―政治・史料・文化の視点から―』日本史史料研究会、2011年)、同『赤松氏五代』(ミネルヴァ日本評伝選、ミネルヴァ書房、2012年)や、上郡町史編纂専門委員会編『上郡町史』(2008年)にも述べられる。

3. 嘉吉の乱関係軍記と和歌
 このような赤松一族の文事とのかかわりは、嘉吉の乱関係軍記にはどのように描かれるのか。

 古典遺産の会編『室町軍記総覧』(明治書院、1990年、再版)によれば嘉吉の乱関係軍記は七群に分けられ、物語系である『嘉吉物語』とそれ以外の実録系、さらに実録系に属するものとして『嘉吉記』の系統、『赤松記』の系統等に整理される。これら多種多様な嘉吉の乱関係軍記は、史実離れを起こしつつ、赤松擁護、将軍暗殺非難といったそれぞれの視点から嘉吉の乱以前の赤松氏の将軍家に対する忠功や嘉吉の乱の顛末、赤松氏の興亡について叙述する(鈴木孝庸「嘉吉の乱関係軍記」〈『承久記・後期軍記の世界』汲古書院、1999年〉参照)。

 赤松の乱関係軍記を詳細に検討した松林靖明『室町軍記の研究』(和泉書院、1995年)を手がかりに諸作を見ると、先述したような和歌に造詣深い赤松一族のさまは表立って描かれることはなく、和歌に親近した赤松氏の面影を伝える場面も殆どないことがわかる。乱の前史となる日々を描く作にも風雅、数奇の中に生きたさま等はうかがえない。小異を含みながらも諸作に共通するのは、赤松義雅(満祐弟)や、白国宗定、依藤豊房、龍門寺直操等家臣の辞世歌が含まれることであるが、これは軍記ならではの常套的な記述の範疇に収まるものであろう。

4. 教康の終焉場面
 そのような中にあってやや異質というべきは満祐嫡男赤松教康の描写である。教康は父満祐とともに将軍義教を討ち、その後の明石人丸塚の合戦での奮闘のさまは為朝に擬えられる等、諸作に嫡男としての活躍が記述される。城山城落城以降終焉に至る教康の描写は実録系と物語系とで大きく二分されるが、いずれにおいても場に即した和歌を詠んでいる。

 実録系の『普光院軍記』『赤松家嘉吉乱記』や『赤松盛衰記』によれば、十七人の家来の侍と室津から舅である伊勢国司北畠教具を頼って出立した教康は、伊勢到着後、自刃に追い込まれる。伊勢への道行に重点をおくこれら諸作には従者たちの和歌とともに落城の悲哀に満ちた教康の二首の和歌が記される。  

 室津では、

  思ひあれば松の梢にたつ煙室の出船のあはれとぞ知る(『普光院軍記』では「見る」)

と松の梢にかかる煙を詠む。歌枕「室の八島」を詠み込む藤原実方の恋歌「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」(『詞花集』)により、自身には強い「思ひ」があることを示す。「松」は実景であるが赤松氏の象徴でもある。摂津国住吉では、常磐の松に落葉すなわち落ち行く自身を比しつつ、この先の守護を祈念して次の一首を詠む。

  住吉の神の(『普光院軍記』では「心」)も松ときけば我が落葉をも守り給へや

 さらに『赤松盛衰記』には従者の和歌と教康の明石須磨での一首、

  梓弓串鮑にして明石潟見るにかい(ママ)なき身の行衛かな

が加わる。下句に不安感が滲むが、「串鮑」は「敵兵三人串鮑指ニ射通センコト」を回想したもので、過去の勇姿と現況との相違を印象づける。これらの道行は淡々と語られ、記されなかった教康の辞世歌の代役を果たす。この前後の本文は、従者名とその和歌を個別に提示するところから、完全な創作ではなく、従者の和歌を含む歌稿が伝わりそのまま作中に取り入れられた可能性を考えるべきかもしれない。

 もう一つの型は『嘉吉物語』(『続群書類従』20上所収)に代表される物語系と分類される作品群に見える。和田英道「『嘉吉物語』の形成」(『国文学研究資料館紀要』1、1975年)によれば、同作は書写山と関係をもつ者の手になる語り物的な軍記で、お伽草紙『秋夜長物語』に類似したその書き出しは「人間有為無常のありさま。因果の道理のかれかたき物也」へと続く。物語系に属する伝本は二十数本に及び、三類に分かたれる。古態を留める一類本が説経語りに通じる韻律に富んだ表現をもつ等、第一類から第三類に至る変化といった問題も指摘されるが、それはひとまずおき、ここでは第三類に属する続群書類従本から本文を抄出する。

 「年十九と申に。つゐに御腹めされけり」と記される「彦二郎」(彦次郎教康)の最期にかかわる描写は作品終盤に置かれる。彦二郎は父と別れの杯を交わし伊勢へ向かうが、その道中の詳細は語られることなく、哀切な辞世の直前の場面が和歌詠出とともに展開する。

 伊勢での助力が得られず散りゆくこととなったさまを常緑の松も嵐で散り果てたと比喩するのは、

  たのむ木のかけに嵐のふきくれはまつのみとりもちりはてにけり

の一首である。続いて「ゆみやとる家にむまれぬれは。かく有るへきこととはおもひさためたる事にて候へ」と覚悟はしていたものの名残り惜しく「室の津に御手をかけ給ける。おもひ人のかたへ遣し」た文のその最後に、

  ちりはつる松のみとりの木末より花のすかたをおもひこそやれ

が記される。受け取った「花のすかた」の「おもひ人」は、しばらくは仏の道に入ったものの、

  うきことのまさりもやせん世にすまはいのちのありてなにゝかはせん

の歌を遺し「年十七」にして「室の入江に身をなけてつひにはかなくな」ったとある。

 実録系の本文には見られない哀感に満ちた当該場面には、戦乱の世の恋人たちがそれぞれ相手を想いつつ異なる地で絶命する姿が、和歌を軸に描出されている。作品は、このあと時制を戻し、教康を見送る満祐の姿から壮絶な落城の場面が繰り広げられる。

 以上のように、教康の末路の描写は、不安な伊勢への道行に主従相和し和歌を詠む、或いは死を目前に愛する女性に和歌を贈る、という二種に大別される。いずれであっても、嫡男教康の終焉のふるまいには、武人であり歌詠みであった赤松一族の姿が投影されていよう。教康は運命を達観し勇猛な武人として生ききった人物としては描かれていない。赤松一族が和歌を詠むことに注力し一定の評価を得ていたという事実は、嘉吉の乱関係軍記にことさら語られることはなかった。が、嫡男教康の死の叙事に至って、史実としての教康の死を伝えるのみである『建内記』『大乗院日記目録』等からはうかがい知ることのない教康の姿がかたちづくられ、赤松一族は弓矢をとるばかりでなく風雅に親しんだ武人たちであったことを想起させるような仕掛けが組み込まれている。

 続群書類従本掉尾には「むかしより天下に弓取おほしといへとも。此赤松ほとのたけき人は。たくひなかりしとそ聞えける」とある。和田英道「『嘉吉物語』翻刻並校異」(『軍記と語り物』11、1974年)によれば、天淵文庫本は「たけき人」を「勇士」とするが、続群書類従本、天淵文庫本いずれも「一」に引用した『太平記』巻六の円心評に重なる表現をとる。しかし、酒井文庫本には「昔ヨリ天下ノ諸道ヲエラビ見ニ、此赤松満祐入道幷祐之・教康御曹司程、文武両度ノ達人、又モ有シト聞ヘケリ」とある。この「文武両度ノ達人」を具現するのが、和歌を詠む教康の姿といえよう。

 『平家物語』の「小宰相身投」「重衡被斬」等に代表される戦乱の世故の哀しい男女の情愛の物語や、梶原景季の箙の梅、平忠度の都落ちで語られる「さざ波や」の和歌にまつわる逸話等、和歌をよくした武人たちの姿を重層的に揺曳しつつ読者の脳裏に立ち上がる教康像は、文武に通じた赤松一族の一面を象徴する姿であろう。作品ごとに細部の異同はあるが、嘉吉の乱関係軍記の教康の終焉を和歌とともに語る場面には、赤松一族に心を寄せた書き手たちの想いがこめられている。


藏中 さやか(くらなか・さやか)
甲南女子大学大学院単位取得満期退学。博士(国文学)。
神戸女学院大学教授。
著書・論文に、和歌文学大系48『王朝歌合集』(共著、明治書院、2018年)、新注和歌文学叢書『頼政集新注』上・中・下(共著、青簡舎、2011〜2016年)、「陽明文庫蔵宋雅百首に関する考察」(京都大学文学部国語学国文学研究室編『国語国文』第82巻第11号、2013年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』 2019年12月刊予定

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』 2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊 本体7,000円

  第4巻『乱世を語りつぐ』 2020年 3月刊予定


軍記物語講座によせて
  4. 渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」