学界展望 日本語の歴史的研究 2022年1月〜6月 
(小島 聡子)

日本語研究者が「歴史的研究」2022年前期の動向を振り返ります。


【学界展望】
日本語の歴史的研究 2022年1月〜6月
小島 聡子
(岩手大学教授)

 

 今期も「コロナ禍」が続く中、2月末にはロシアによるウクライナ侵攻が始まるなど、何やら不穏なことが多い。ウクライナの紛争では、ウクライナの人々のロシア語との複雑な関係が浮き彫りになった。日本語のウクライナ地名がウクライナ語の発音に即したものへと変更されるという具体的な影響もあったが、何より言語と社会・政治の関わりという面で考えさせられるところは多い。一方、コロナは対応が変化しつつあり、対面の研究会等も徐々に再開、日本語学会も来年の春季大会は対面での開催を予定していると聞く。今から楽しみである。とはいえ、地方暮らしにはオンライン開催は参加しやすくありがたい面もある。研究会等の開催形態を多様化させたと考えれば、コロナ禍も悪いことばかりではなかったといえるかもしれない。

1. 概観

 今期は、近代や語彙に関する論文集や雑誌の特集が多く見られた。論文集としては、日本近代語研究会編『論究日本近代語 第2集』(勉誠社、3月、以下『論究』)*飛田良文・佐藤武義編『シリーズ〈日本語の語彙〉6 近代の語彙(2)―日本語の規範ができる時代―』(朝倉書店、3、以下『近代の語彙』)*国語語彙史研究会編『国語語彙史の研究 四十一』(和泉書院、3、以下『語彙史』)*があり、『語彙史』の特集「新語」には近現代についての研究がまとまっていた。また、雑誌『日本語学』2022年夏号(第41巻第2号、明治書院、6、以下『日本語学』)*では「外国語が変えた日本語」という特集が組まれ、論文10編中6編は近代・現代についてのものであった。これらを軸に今期の研究を見ていきたい。

2. 今起きている変化を追う―「現代」の区分について

 時代は現代でも、変化について考察は「歴史的研究」に含まれるだろう。
 岡田祥平「「らい」小考」(『語彙史』)では、新しい用法が辞書に記述される時期を手掛かりに新用法の浸透・定着の過程を考える。一方、島田泰子「気づかれなかった新語もどき:〈言葉回し〉の伝播と蔓延」(『語彙史』)は、辞書等に掲載されずコーパスでも拾えないが実は長く広く使われている語の存在を指摘、新語・新用法に対する目配りと記述的研究が重要であるとする。また、加藤大鶴「アニメ『ドラゴンボール』における「気き」のアクセント―漢語アクセント形成史の断線から―」(『日本語学』)は現代のアニメのセリフに現れた「気」のアクセントから、漢語のアクセントの歴史を考える。ほかに、櫛橋比早子「否定程度副詞の成立―「1ミリも~ない」を事例として―」(『論究』)は、否定の程度副詞について長さの単位の変化とともに新たな程度副詞が生み出されていく過程をたどる。
 歴史は変化の積み重ねでもある。目の前の変化を逃がさない嗅覚と観察眼があれば、変化の現場に立ち会い詳細を観察できる「現代」は言語の歴史的研究の醍醐味が感じられるところでもある。
 ところで、日本語についての「近代」や「現代」の時代の区切り方は論者によって異なるが、小野正弘「近代語と近世語の境目、近代語と現代語の境目―漢字政策を軸として―」(『論究』)はその区分についての再定義を試み、狭義「近代語」について漢字政策の転換を機に区分する見方を提示する。示された区分自体は従来の説を外れるものではないが、「近代」を統一な観点で区分するという考えは傾聴に値する。さらに近代以降の、これまで一括りに「現代」とされてきた期間についても、時期を区分する必要性を説き、「近代」を区切るのに用いた漢字政策の観点から、「常用漢字制定以降(1981(昭和56)年以降~)」を区切りとすることを提唱する。ただ、「近代」の区分に有効な漢字政策という観点が、「現代」にも有効かどうかは議論があろう。例えば髙橋雄太「近現代における副詞の仮名表記化」(『論究』)によれば、副詞の漢字から仮名への表記の変化においては「常用漢字表」の施行による影響はあまり見られないという。一方、今期の現代を対象に含む論考の多くでインターネットを利用したSNSの用例が取り上げられていたことを考えると、現代の言語についてはインターネットを考慮する必要がありそうである。近代に漢字政策が一般への文字の普及に関与したとすれば、インターネットは文字を使った「発信」の一般化に関与するとでもいえようか。日本のインターネットの始まりを考慮すると、「昭和」と「平成」の境目を区分とする可能性もある。もちろん、さらなる議論が待たれるところであるが、戦後から今までを一括りに「現代」とすることについて一考する時期が来ているのは確かであろう。

3. 外国語との接触に関わる研究

 キリシタン資料や、洋学資料など外国語との接触にかかわる資料や、外来語を対象にした語彙研究など、外国語との関わりに関する研究がまとまって見られた。
 まず、最も古い外国語である漢文・漢字との関わりについて8編の論考を含む『日本語学』の特集で音韻・語彙・文体等各分野における影響を網羅的にたどることができる。個別の論考では、今野真二「『新式いろは節用辞典』の「漢名」」(『論究』)が『新式いろは節用辞典』にみられる「漢名」について、従来関係の指摘される『言海』と比較検討し、当時の「和漢」の認識を探るとともに、見過ごされがちな『言海』以後の明治期の「辞書体資料」についての再検討の必要性を説く。なお、漢字字体を扱った研究として、日本の略字体に着目、漢字字体史の一端としての略字体史をまとめた菊地恵太『日本語学会論文賞叢書2 日本略字体史論考』(武蔵野書院、1月)*がある。
 キリシタン資料に関しては、岸本恵実・白井純編『キリシタン語学入門』(八木書店、3月)*がある。初歩的な事項の丁寧な解説に加え、本格的に研究したい人向けに研究の手がかりや文献への具体的なアクセス方法まで示され、単なる「入門」を越えた充実した研究案内となっている。近年、国立国語研究所『日本語歴史コーパス』(CHJ)に「室町時代編Ⅱキリシタン資料」*が組み込まれた。従来の索引に比べ手軽に利用できるメリットは大きいが、一方でキリシタン資料の特性を知らずに用例を使うことも出来てしまうので、キリシタン語学の研究者には危うく感じられるところもあるだろう。キリシタン語学の研究をするまでではなくとも、キリシタン資料の用例を利用するなら読んでおきたい入門書である。そのほか、『論究』『語彙史』にもキリシタン資料についての研究は多く「キリシタン語学」の隆盛を感じさせる。
 『日本語歴史コーパス』は各資料の研究者が関与し資料の特性を生かす形で構築されているが、利用者が資料の特性を弁えているとは限らないというのは、キリシタン資料だけの問題ではない。日本語学会2022年春季大会シンポジウム「文献資料を読む―中世語研究の継承と展開―」*もそのような危惧が出発点となって企画されたかと思われる。このシンポジウムの参加者が多かったのは、筆者も含め当該資料の研究を専門としているわけではない多くの研究者が資料のことを知る必要性を感じているということなのだろう。コーパスのメリットを生かしつつ、資料の特性を弁えて慎重に利用したい。
 近世末以降の西洋語との接触と漢語・漢文の関わりについての研究も多い。櫻井豪人「『波留麻和解』に含まれる出現時期の早い訳語」(『論究』)同「『波留麻和解』に見る近代漢語の定着過程―濾過(漉過)・凝固・結合・思考・圧搾・嫌悪の訓読み例―」(『語彙史』)は、蘭日対訳辞書『波留麻和解』の訳語に用いられた漢語について取り上げる。後者は、現在漢語として定着している語が当初は音読みされていなかった可能性を指摘、新しい漢語の定着までの過程を考察する。また「外国語との接触により生じた翻訳漢語」(『日本語学』)は、近世後期の洋学資料全般を対象に翻訳に用いられた漢語を整理する。一方、齋藤文俊「明治後期における翻訳聖書の文体」(『国語と国文学』99-6、6月)*は聖書の翻訳文体を比較するのに漢文訓読語を指標とする方法を提示する。

4. 言語の規範・標準化

 特に近代以降の言語を考える際、「標準語」の問題は避けては通れない。高田博行・田中牧郎・堀田隆一 編著『言語の標準化を考える―日中英独仏「対照言語史」の試み』(大修館書店、6月)*は、5言語の研究者10名が各言語の「標準語」形成史を対照しながら、言語の「標準化」というテーマに正面から取り組んだ論集である。初めに「標準化の切り口(パラメータ)」と各言語史の概略が提示され、その後に各言語についての論考が並ぶ。各論考には他の論者のコメントが脚注に示され、それに対する回答も付く。研究会でのリアルなやり取りのようで各言語の違いも見えて興味深く、「対照言語史」という新分野の可能性が感じられた。また、最後に田中克彦「漢文とヨーロッパ語のはざまで」を掲載、「言語の標準化」に対してやや異なる立ち位置、いわば「標準化」を受けた当事者からの論考で締めることで、「標準語」という問題の一筋縄ではいかない難しさを考えさせる。
 『近代の語彙』も「標準語」を含む言語の規範形成をテーマに据える。田中牧郎「山本有三の語彙」(第2部第六章)では、戦後の国語改革と関わりの深い山本有三が自身の著作ではどのような言葉を使っていたのか語彙の面から調査する。特にルビや同訓異字、語種などの観点で同時代の他の作家と比較し、「わかりやすさ」へのこだわりを明らかにする。塩田雄大「ラジオ放送の語彙」(第3部第一一章)は、戦前・戦中のラジオ放送の用語に関する規定に着目し、当時の言語意識を探る。
 そのほか、「いろは」を切り口に、江戸時代から明治時代へ文字の教育・学習の変遷を描く、岡田一祐『ブックレット〈書物をひらく〉26 「いろは」の十九世紀―文字と教育の文化史』(平凡社、3月)*では「近代化」がどのように進められたかの一端が示される。
 また標準化とは少しずれるが、三浦直人「犬養毅の読み方をめぐる『痴遊雑誌』誌上の論争について―つよし・つよき・キ・たけし・たけき・しのぶ―」(『論究』)は、近代の人名の表記と発音の考え方が現代の常識とはかなり異なっていたことを示して興味深い。このような論争の存在は、当時も人名の表記と呼び方(字の読み方)の対応が問題になっていたことを示し、人名に対する考え方が近世から現代へと移行する過渡期の事象と捉えることもできよう。

5. 言葉と「書く」ことの問題

 言語の歴史的研究には、書かれたものから考えなければならないという制約が伴う。最後に少々こじつけになるが、書かれた言葉について考えさせられた論考を挙げる。
 乾善彦「かぐや姫はなぜ「読み書き」ができたのか―「手習」と和歌を書くこと―」(『語彙史』)は、「和歌を書く」行為がどのように表現されるかを分析、仮名成立に近い時期に「すでに和歌を書くことが、ことさら表現するに及ばない当然の行為」だった可能性を指摘する。一方、佐々木勇「九世紀末から十世紀初頭の物名歌における文字遊び」(『国語国文』91-3、3月)*は、仮名成立当初の歌合の和歌に限定的に形の類似した仮名の通用による「文字遊び」があったとする。いずれも、「書く」ことと和歌の関わりを扱う。
 一方、書かれたものしかないことは、疑問文などを考える際は時に障壁となる。疑問文の形式の変化を扱った衣畑智秀「日本語疑問文の歴史変化―近世以降の疑問詞疑問文を中心に―」(『日本語の研究』18-1、4月)*は、氏のこれまでの疑問文の歴史研究に連なるもので、現代の用法に至る文末カを追い、〈問いかけ性〉を失うという質的変化があったとする。その中で、文献上で疑問と自問を分けることの困難さに言及している。辻本桜介「研究ノート 中古語における間接疑問文相当の引用句」(『日本語の研究』18-1、4月)は、間接疑問文がなかったとされる中古語において助詞「と」が間接疑問文相当の用法を持っていたとする。そもそも古代語の疑問文は係助詞と疑問詞という形式に頼って考えられてきたかと思うが、間接疑問文の問題のように検討すべきことはまだありそうである。今後の研究が俟たれる。

 

 世界のあちこちの不穏な情勢をみると、日本も決して平穏とはいえないし日常も厳しい状況にはありながらも、ともかく研究させてもらえることは、不謹慎かもしれないが、ありがたく思う。とはいいながら、半年ばかりの俄か勉強ではこれまでの不勉強を糊塗することは出来ず、「展望」というにはあまりに目の届かない不十分な偏ったものになってしまった。ご寛恕を願うばかりである。


小島 聡子(こじま・さとこ)……論文に「大正期の子供向け文章の語法―教科書と童話の関係―」(『コーパスによる日本語史研究 近代篇』ひつじ書房)*、「「ほしいくらゐもたないでも」という表現について―続・宮沢賢治の標準語の語法―」(『近代語研究 第20集』武蔵野書院)*「複合動詞後項「行く」の変遷 」(『国語と国文学』76-4)ほか。


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