学界展望 日本語の歴史的研究 2022年7月〜12月 
(富岡 宏太)

日本語研究者が「歴史的研究」2022年後期の動向を振り返ります。


【学界展望】
日本語の歴史的研究 2022年7月〜12月
富岡 宏太
(群馬県立女子大学准教授)

 

 今期は、論集だけでも、『近代語研究 第二十三集』武蔵野書院、9月、以下、『近代語研究』と呼ぶ)*青木博史・岡﨑友子・小木曽智信編『コーパスによる日本語史研究 中古・中世編』ひつじ書房、10月、以下、『コーパスによる日本語史』と呼ぶ)*青木博史・小柳智一・吉田永弘編『日本語文法史研究6』ひつじ書房、11月、以下、『文法史6』と呼ぶ)*椎名美智・滝浦真人編『「させていただく」大研究』(くろしお出版、12月)*などが刊行され、活発な研究成果の公表が続いた。以下、研究の基本的な手順に沿って、筆者が見渡した学界の動きを紹介する。なお、論文の副題は省略する。

1. 研究資料や術語に関する再確認・再検討

 研究を行う際、まず大事なのが、資料についてよく知ることである。これに関する論攷が多くあった。特に重要なのは『国語国文』(91-11、11月)*である。青木博史「抄物資料による日本語史研究の展望」朴真完「朝鮮資料研究」大倉浩「狂言資料」丸山徹「キリシタン資料」田中草大「中世後期の文語文についての研究動向と展望」高橋久子「室町期辞書の研究史と課題」と、各種資料についての研究史や動向が示され、今後の課題が極めて具体的に示される。また、『コーパスによる日本語史』には、【解説】として、『日本語歴史コーパス』の各時代・ジャンルごとの特性や注意点などが詳しく示されている。コーパスを、研究者のみならず、学生なども利用するようになった今、再確認すべき内容である。
 個別資料について明らかにする論文として、ルディ・トート「ドンケル・クルチウスの日本語文典の成立を巡って」(『日本語の研究』18-2、8月)*中村明裕「荷田春満のアクセント資料における第一種表記法」(『日本語の研究』18-3、12月)があった。前者は、江戸時代の方言資料でもある『日本文法試論』の成立について、種々の資料を博艘しながら、その成立背景を探る。後者は、荷田春満資料のアクセント表記法を詳しく検討し、アクセント史資料としての位置づけを再検討している。研究資料についての情報が更新され、うまく活用されるようになることで、今後の研究の幅が広がっていくことを期待したい。
 研究者個人の研究史を知り、次代に繋いでいくという点では、金澤裕之『スキマ歩きの日本語学 言語変化のダイナミズムを紡ぐ』(花鳥社、7月)*を紹介したい。論文のみを再構成してまとめる通常の研究書とは異なり、種々の個別事象から日本語全体の変化にかかわる大きな問題を明らかにしてきた、同氏の研究姿勢を学ぶことができる。
 学術用語の整理や再検討も大事である。小柳智一「類推・追」(『文法史6』)は、「類推」という術語でひとくくりにされる様々な事象の整理を行なっている。同氏には、「鈴木朖の「心ノ声」」(『近代語研究』)もある。古い文献を読む際に、安易に近代的な視点を持ち込むことの危険性と、丁寧な読解の必要性を学んだ。滝浦真人「敬意漸減」(『「させていただく」大研究』)は、敬意漸減(敬意逓減)の法則について、現代的な立場から、その重要性をとらえ直す。菊池そのみ「日本語研究における「付帯状況」の導入を辿る試み」(『文藝言語研究』82、10月)*は、「付帯状況」という術語がどのように導入・継承され、また、その指すところが拡張してきたかを、先行研究を整理しながら明らかにする。当たり前に使用される術語について、一度立ち止まって考える面白さを感じた。

2. 方法論を考える

 次に大事なのが「どの範囲をどのように調査するか」である。森勇太「『大蔵虎明本狂言』の受益型行為指示表現」(『文法史6』)は、調査範囲の問題について考えさせられた。これまで、様々な資料を用いて、行為指示表現の歴史を詳らかにしてきた同氏は、この論文で、あえて資料を限定し、より綿密な解釈に基づく分類と考察とを進めている。大量の用例調査が比較的容易になった今だからこそ、目的に応じて、多くの資料を見るべきか、一つの資料を見るべきか、それを見極める力も、ますます必要になってきている。他方、井上史雄「敬語の歴史社会言語学」(『「させていただく」大研究』)は、多様な先行研究や理論、データを土台に、「てもらう・ていただく」の発生と定着について論を進め、敬語体系全体にまで視野を広げる。種々の情報を駆使する同氏の研究姿勢に圧倒される。
 分析方法では、辻本桜介「中古語における複合辞「にまかせて」について」(『人文論究』72-3、12月)*が秀逸である。中古語の「にまかせて」が、全体で一つの複合辞であることを証明し、その機能を「主体の制御下にない心理(を持つように見えるもの)に随伴する動きを描写する」ものと結論づけるが、その過程で、どの方法を採れば客観性のある形で論証できるかが、同氏のこれまでの研究同様、丁寧に論じられていた。

3. くらべることでわかること

 一言語・一言語形式、一資料だけを見ていてもわからないことが、複数のものを見くらべてわかることは、ままあることである。今期も様々な「対照」による研究が発表された。
 複数言語の対照では、『文法史6』の小特集「言語対照」が注目される。澤田淳「中古日本語における敬語抑制のシステムについて」は、身内敬語の抑制について、「聞き手が話し手の身内より上位による言語」と、「聞き手が話し手より上位かのみによる言語」が存在することを指摘し、韓国語と中古日本語は前者、現代日本語は後者であるとする。対照により、現代日本語の感覚を相対化することは、広く、言語生活全般において重要である。
 次に、言語形式に注目する論として、深津周太「否定文脈に用いる「何が/何の」の史的展開」(『日本語文法』22-2、10月)*を挙げる。「が」が主格助詞として述部用言との結びつきを強めた結果、否定文脈における「何が」が反語の意味に偏るのに対して、「何の」が独立語文としての用法を獲得していく流れを実証的に示す。類似形式が、一方で述部との結びつきを強め、一方で、それ自体が文として機能するようになっていく変化は興味深く、「文とは何か」という問題を考えさせられた。北﨑勇帆「原因・理由と話者の判断」(『文法史6』)は、条件節に推量形式を取り込んでいくようになる変化について、諸方言や通言語的な視座を加えて丁寧に論じる。結果として、複文の従属節末に推量形式が取り込まれるようになる場合と、単文の連接で表現する場合が存在することを指摘する。こちらは複文か文の連接かという観点から、「文とは何か」を考えさせられた。
 藤原慧悟「中古和文における話し手の意志をめぐる疑問文について」(『日本語の研究』18-3、12月)は、意志の疑問文の述部に「む」と「まし」が現れる例を調査し、「む」は行為の実行が決まっている場合、「まし」は決まっていない場合に使用されることを明らかにする。調査結果も面白いが、資料を丹念に読み込んで一つ一つの場面の解釈を丁寧に検討するところに魅力を感じた。三宅俊浩「近世・近代におけるデキルの発達とナルの衰退」(『文法史6』)は、主に、「できる」の可能表現形式としての発展を論じる。「名詞句+助詞+できる」から「名詞+することができる」、そして「漢語+できる」へと変遷するさまを、データをもとに示し、「なる」の衰退を、非許容から禁止へという語用論的な理由に求める。先行研究を丁寧に追いつつ、それらに見られる説明の不整合を解消する。佐伯暁子「接続助詞用法の「~べきを」の推移」(『日本語の研究』18-2、8月)*は、現代語に残る「準体句+を」による接続表現「べきを」の衰退を古代語から通時的に調査し、代替形式である「形式名詞+を」とともに論じる。衰退理由や代替形式まで目が届いている点が重要である。
 複数資料の対照による研究も紹介する。石山裕慈「日常使用の日本漢字音の歴史」(『国語と国文学』99-9、9月)*は、複数の字音を持つ場合、一元化へ向かうとする従来の説を出発点とし、『日葡辞書』と現代の日用語辞典とを対照することで、それとは反対の(読み分けられるようになっていく)場合もあることを指摘する。言語変化を単純に捉えすぎず、実態を注視する必要性を、改めて感じた。川口敦子「キリシタン資料におけるカ行子音のK表記」(『国語国文』91-12、12月)*は、ロドリゲスの用いた「K」表記について、中国のイエズス会における中国語音の表記方法が採用された可能性を指摘する。『日本大文典』と『日本小文典』、二つの資料の細かな相違をきっかけとし、日本語資料以外を見て行くことで新たな世界が見える可能性が提示された点が、興味深かった。

4. 次代へつなぐために

 今期、日本語学会が次代の育成を目的とし、「第1回中高生日本語研究コンテスト」*を開催した。貴重な試みである。ただし、国語教育ばかりでなく、目の前の学生をはじめ、より多くの方に、「日本語の歴史的研究って面白い」と思われるようにしていく必要がある。そこで、学問の継承という点から最後に少し述べる。北﨑勇帆「希望表現の史的変遷」(『コーパスによる日本語史』)は、希望表現の変遷を、統語面から明らかにする。論も興味深いが、コーパスによる、より効率的な検索方法の提示に注目したい。こうした方法論の紹介は、学界全体の研究水準を高めることにつながるように思われる。学部生・院生向けの手引き書を期待したい。文字・表記の分野では、尾山慎『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、12月)*もある。文字・表記の基礎知識を、古代から現代まで幅広く知ることができる一冊である。さらに、紙尾康彦『自分で読むための基礎日本古典語』(くろしお出版、11月)*は、大学初年次の古典語の教育を意識した1冊で、高校の学びと大学の学びとを接続する。一般への発信という点では、近藤泰弘「日本語における現代とはいつのことか」(『ユリイカ』54-10、8月)*が、明治になって地の文における敬語使用がなくなる点を一つの画期とする、同氏の最新の指摘を、初学者にもわかりやすく紹介している。最後に、教育現場において共に使用されていた「遊星」「惑星」が、戦後、「惑星」に統一される流れを描く米田達郎「「遊星」から「惑星」へ」(『近代語研究』)も、他教科とのかかわりという点で興味深い。日本語史研究と社会のつながり方は、まだまだ検討の余地がある。

 

 筆者の力不足から取り上げきれなかった論攷も多く、取り上げたものの、理解が不足している点もあろうかと思う。その点をお詫びするとともに、多くの魅力的な論攷を世に出してくださったすべての方々の努力に感謝申し上げる。


富岡 宏太(とみおか・こうた)……論文に「中古和文における無助詞感動喚体句」(『群馬県立女子大学国文学研究』43号)、「確認の終助詞の歴史的対照―現代語の「ね」と中古和文の「な」―」(野田尚史・小田勝編『日本語の歴史的対照文法』和泉書院)*、「終助詞が必須となる時―中古和文と現代語の命令形―」(『国語研究』82号(國學院大學国語研究会))*ほか。


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