「軍記物語講座」によせて(2) 
長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」

「軍記物語講座」全4巻の刊行に先立ち、軍記物語研究にまつわる文章を掲載していきます。
『太平記』の諸本は誰がどのように書写し、伝えてきたのか。名前はわかるものの事績未詳の人物は少なくありません。第2回は、奈良大学名誉教授の長坂成行氏による、その一覧資料です(本シリーズ第3巻『平和の世は来るか—太平記』には、長坂氏による諸本研究をテーマとした論考も収録予定)。
  *各項目本文中の太字は、伝本名です。


『太平記』書写流伝関係未詳人物抄

長坂 成行  
 
 

 諸本の調査は、本文内容の比較検討を主目標とするが、その一方で書物そのものへの興味も尽きないものがある。写本の末尾に記される奥書・識語の類は、書物の書写流伝享受のさまを伝える、僅かなしかし有力な痕跡である(余談だが、古沢和宏『痕跡本の世界 古本に残された不思議な何か』〈ちくま文庫、2015年〉はいわゆる“雑本”を対象とする、興味深い一書である)。

 『太平記』などの場合、奥書に見える人物が、知られた存在であることはまずなく、素姓の追跡などは労のみ残る所業ではある。ただしごく稀に、当事者が無名であっても、他者との関係において著名な人物が絡み、思いがけない発見がないでもない。そのわずかな僥倖を求めて、虚しい努力を重ねてきたのであろうか、時にそうした感慨にとらわれたりもする。写本の背後には、自らの素姓の解明を願い、具眼の士との遭遇を待つ古人の思いが潜んでいるのかもしれない。

 諸本研究の枠の中では、ごくごく瑣末なことがらに属し、また場違いを顧みず、あえて無味乾燥な固有名詞(とはいえ稿者にとっては、暗唱できるほどに慣れ親しんだ先人の名ではある)を列挙する(五十音順、年紀の月日は略)のは、気鋭の方々の手によって、これら人物の事蹟が、いささかなりとも、探索究明されることを期待するからに他ならない。各項目の注記の不備については、旧著(長坂成行『伝存太平記写本総覧』和泉書院、2008年)等を参照願えれば幸である。


〇 石尾七兵衛氏一(いしおしちべいうじかず)
 『参考太平記』編纂(元禄二年〈1689〉冬完成)の頃、北条家本を所持。祖父治一は豊臣秀吉に仕え、韮山落城(天正十八年〈1590〉)の際に本書を入手。

〇 伊牧(いぼく)
 玄恵息。『桑華書志』著録一条兼良校合本の転写本(前田綱紀鑑定)の識語によれば、『太平記』は巻十八までは賢恵法印の作で、それ以降は伊牧が書き継いだという。

〇 永泉庵(えいせんあん)
 宝徳四年(1452)に宝徳本巻三十五の校正がなされた場(塔頭か)、巻三十八末には「永泉西軒」ともある。

〇 悦可(えつか)
 北条氏康に仕え、御前で北条家本を読んだ書吏(『参考太平記』凡例)。『言経卿記』慶長元年(1596)十月六日条に、「悦可 太閤/右筆」という人物が見えるが。

〇 太田民部丞壹清(おおたみんぶのじょうかずきよ)
 長享三年(1489)書写の古写本を、天正十四年(1586)に梵舜らと共に書写(巻十六・三十)した(梵舜本)。巻十六の前半までは覚乗房が書写したが、老眼のため交替したともある。

〇 織田左近将監長意(おださこんしょうげんながもと)
 織田本の書写者、天正十一年(1583)の年紀あり。長意は、織田信秀(信長父)の弟信次の曽孫信任に該当するという(鈴木登美恵氏作成の「太平記諸本伝来の背景」)。

〇 加納養牛軒(かのうようぎゅうけん)
 黒川真道氏蔵天文本(黒川真道蔵の頃は、巻五~八および巻二十二欠で、合冊九冊〔三十五巻〕存。関東大震災で焼失)の、天文二十一年(1552)頃の所蔵者、或は書写者か(『中央史壇』九巻三号、1924年)には「天文廿一年写本」とある。東京大学史料編纂所所蔵の台紙付写真、巻三十三末尾には「天文廿一壬子稔八月廿七日/主加納養牛軒」とあり、所有者を示すか)。同写真によれば、この本は、天正二年(1574)には美濃美江寺の福蔵坊の所蔵となる。

〇 丘可(きゅうか)
 武田信懸の命をうけ、永正二年(1505)に今川家本(陽明文庫本)を書写した右筆(五十四歳)。

〇 教運(きょううん)
 教運本に捺される旧蔵者の印。この印の読みは従来「義輝」であったが、小秋元段氏によって「教運」に訂された。

〇 玄玖(げんきゅう)
 甲寅の某年十月八日に、玄長医王に形見として玄玖本をおくった人物。「大坂賢久」ともある。玄玖本巻十八尾題下に「寶」印(円形単郭陽文)あるも、印主未詳。

〇 兼守法師(けんしゅほうし)
 『銘肝腑集鈔』奥書に見える。永正四年(1507)に、重祐は慈父兼守法師からこの書を譲られる。『弘文荘待賈古書目』1号(1933年)は、『下学集』明応八年古写本、全二冊を紹介し、上巻には明応八年(1499)の書写奥書があり、「下巻は書写年代略々同じけれど筆異る。表紙に重祐の墨記あり。重祐は即ち高野博士蔵の「銘肝腑集鈔」(太平記古写本)の旧所有者にして、足利中期の学僧たるべし。本書下巻は同人の自筆にかヽるべきか」とする。現在の所蔵者天理図書館の『天理図書館稀書目録 和漢書之部第二』(1951年)の解説には、「上は奥書の明応八年写なれど下はやヽ後の写なり」とある。

〇 玄心(げんしん)
 永和本識語によれば、明徳元年(1390)に玄勝律師から同書を相伝される。

〇 佐佐備前直勝(さっさびぜんなおかつ)
 東寺金勝院に金勝院本を寄託した人物。同書はもと小西行長の家士の所蔵で、後に加藤清正の家士である佐佐備前直勝が入手した(『参考太平記』凡例)。

〇 戸田重勝(とだしげかつ)
 梅仙東逋(林宗二息、建仁寺291世)は、戸田重勝が所望したのをきっかけに、慶長七年(1602)に『太平記』を書写した(両足院本)。尾張藩の書物方手代であった小澤鎮盈(おざわささを)の編になる『御文庫御書物便覧』(文政四年〈1821〉頃の成立か)に、源敬様(尾張初代義直)所蔵として、『太平一覧』(古写本、三十九冊)の名で登載される【写真1】が、現在は所在未詳。表紙に両足院筆とあり、茶屋(新四郎か)が差し上げたという。

【写真1】両足院本『太平記』奥書(『尾張徳川家蔵書目録』ゆまに書房、1999年)

〇 野尻蔵人佐(のじりくろうどのすけ)
 出雲国三沢庄の亀嵩(かめだけ)の住人、源慶景。天正六年(1578)に、出雲国造千家義広から四十二巻本を借り、一旬の間に書写した(野尻本)。

〇 日置孤白軒(へきこはくけん)
 越前国敦賀郡沓見の住人で、元和四年(1618)に日置本中京大学本)を書写した(時に五十二歳)【写真2】。巻十六巻末注記によれば、以前越前の朝倉義景の御前で、巻十六の、ある記事の有無について議論したこともあるという。

【写真2】中京大学本『太平記』巻40・奥書(『中京大学図書館蔵太平記 四』新典社、1990年)

〇 法印弁叡(ほういんべんえい)
 弘治元年(1555)に「独清再治之鴻書」を、有職・武勇などの記述については、それぞれの方面に問い合わせるという努力の上で書写した(これが神宮徴古館本の親本)。四年後の永禄三年(1560)、この本を奈林学士が写し(これが神宮徴古館本そのもので、江藤正澄旧蔵)、弁叡はこれに証を与えた。

〇 本郷上総入道龍真(ほんごうかずさにゅうどうりゅうしん)
 文政八年(1825)十一月十三日開催の耽奇会に、古写『太平記』十四巻合三本が出品された。同会の記録によれば、出品者は谷文晁の子文二(台谷)で、時に十四歳。曲亭馬琴・屋代弘賢・山崎美成らも出席し、『太平記』には、「慶長七年(1602)壬/寅文月廿九日本郷上総入道龍真(花押)/右筆/霜星六十八」との奥書あり(『耽奇漫録』八〈第二十集〉)。(この項は、鈴木登美恵氏の御教示による)

〇 妙智房豪精(みょうちぼうごうせい)
 肥後木山腰之尾道場に居住した頃、天正七年(1579)に豪精本を書写した【写真3】。

【写真3】豪精本『太平記』巻41・奥書(公益財団法人阪本龍門文庫蔵)

〇 明室宝正居士(めいしつほうしょうこじ)
 宝徳三、四年(1451、52)に書写校正された宝徳本の旧蔵者。ほとんどの巻の巻頭に「主明室宝正居士」とあり、巻十七末には「江州甲賀郡圓岳宝正居士勧縁/信菴叟洪誠模写」とある。書陵部蔵「太平/恵方 和剤局方」(元版七冊)の毎冊巻首にも「主明室宝正居士」の墨書あり。

〇 簗田遠江守氏親・氏助(やなたとおとうみのかみうじちか・うじすけ)
 簗田本の書写者。同本総目録の後表紙見返しに貼り紙あり、「氏親ハ北條氏康ノ子氏親ナラン、姓平トアリ、北條氏親ハ美濃守ナレバ、後カ前カニ遠江守ト言シ事アルナラン、年代ヨリ考フルニ、太閤代ノ人ナンドナリ」と記される。

〇 山城新右(やましろしんすけ)
 島津家本巻十六最終丁の綴じ部分内側ノドに、寛文十二年(1672)の年紀と共に「山城新右書之」とある。

〇 山本要人(やまもとかなめ)
 桂宮家の家臣で、一時期神田本を所持し、のちに松平定信に譲渡した(神田本付随の家珍草創太平記来由書箱蓋裏書、国書刊行会本)。

〇 山本篤盈(やまもととくみつ)
 屋代弘賢門人。神田本巻一・二を松平定信から借り出して模写した【写真4】が、この本(阿波国文庫本)は焼失した。

【写真4】阿波国文庫本『太平記』巻2・識語(高橋貞一氏謄写、個人蔵)

〇 留蔵(りゅうぞう)
 関東大震災で焼失した東京帝国大学本(二十冊)の跋に見える。天正三年(1575)の年紀あり(『中央史壇』11巻4号、1925年)。

 


長坂 成行(ながさか・しげゆき)
1949年生れ。
名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得満期退学。
奈良大学名誉教授。
著書に、『伝存太平記写本総覧』(和泉書院、2008年)、『穂久邇文庫蔵 太平記〔竹中本〕と研究(下)』(未刊国文資料刊行会、2010年)、『篠屋宗礀とその周縁 近世初頭・京洛の儒生』(汲古書院、2017年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』      2019年11月刊予定

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』   2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年 9月刊予定

  第4巻『乱世を語りつぐ』      2020年 3月刊予定

   *各巻仮題・価格未定。


軍記物語講座によせて
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」