第3回 
「書く」ことの意義・必要性(後編) 
尾山 慎



好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

落書の意義・動機

 読み方を付さないと「らくがき」と普通読まれると思う。日本語史研究や歴史学の分野では資料の位相を指す術語として「ラクショ」と音読みするのがならいとなっている(音読みするとなんだか格調高く思えてしまう)。現在、公共物や他人の所有物にらくきをすると、器物損壊罪になり、書いた内容によっては威力業務妨害や迷惑防止条例違反罪にもなる。まして文化財となると、文化財保護法違反になる。従って、いかなる動機、理由があっても絶対にやってはならないが、古代の落書はやはりいくつか残っていて、それだけ年数が経つと中には日本語学的に価値があるというものも少なくない。不特定多数に向けている——あるいは別に読まれなくても別に構わない、というところにおいて、落書は落書で、文字表記研究で扱う意義がある。

 さてここで、少し個人的経験を——筆者は、京都の仁和寺(真言宗御室派総本山)に一年間暮らしていたことがあったのだが(いわゆる修行僧として)、あるとき掃除で五重塔に登ることになった。国の重要文化財だが、筆者在籍時は一年に幾度か、掃除と異常が無いかの様子見をすることになっていた。普段非公開のところ、その日は、点検も兼ねて最上層(5階)まで上れるとあって、いやが上にも気分は高揚したが、2層目にあがったとたん、見たこともないほどの埃や得体の知れない物体(それが一体何なのか具体的に知る気がしない)の数々に、すっかり鼻白んでしまった。第一ひどく暗く、額に捲いた懐中電灯だけが頼り、そこへして独特の臭いが立ちこめている。木造の古建築なので、隙間だらけのはずなのに、明らかに異質な空気が缶詰にされたような空間。最上層までいくミッションは、まずは激しく咳き込むところから始まった。

 日本の古い仏塔はほとんどが2階以上に登る(あるいは使用する)ことを想定していない、まるで大道具の裏手みたいなものである。もちろん造り自体は重厚だが、仏像もしょうごん(飾り付けのこと)も、壁の仏画も極彩色も、本当に何もない。各階層、ただただ木組みだけのがらんどうである。ハシゴで登ってごう天井の一つを外して押し上げ、登って、そのハシゴを持ち上げてまた次の階へ、というのを繰り返す。最上層まで登る頃には全身埃と蜘蛛の巣まみれで、ようようのことでたどり着き、茶室のにじり戸ほどの大きさの扉を外へと向かって開く(普通、塔は上層に行くほど、空間的に狭くなっていくので、第5層は、少し屈まないといけないほど)。そうすると、陽の光と、ようやくまともな空気が吹き込んでくる。このまま1ヶ月ほど換気したほうがいいのではないかと思ったが、飛び込んできた景色に思わず感嘆の声が漏れた。吉田兼好が庵を構えたというならびおかまでがずっと一望できるのであった。高い建造物が周囲にないから、この視界はすなわちここ洛西界隈で唯一無二である。春彼岸前のうららかな日だったと思うが、青空も映えてなかなかの壮観にしばし見入った。そして、絶景とは別に、筆者には、もうひとつ目を奪われることがあった。それはしんばしら(塔の真ん中で重心をとるための背骨のような柱)である。そこに、何か書いてあるのだ。

 現在の仁和寺には、応仁の乱で全焼したあとのおよそ160年何もなかった伽藍に、主に徳川家光によって復興された堂塔が立ち並んでいる(仁和寺第21世門跡・かくしんほっしんのうが、京都にきていた将軍家光に伽藍再興を直接申し入れ、承諾された)。筆者がみた文字というのは、それらを建てた大工さんによるものらしい。メモを取ったわけではないのでうろ覚えだが、大工の棟梁の名前、そして弟子か助手と思しい人の名前も書かれていた。建立された当時つまり約400年前に書かれ、そのときはこの塔も、檜の匂いが未だ薫る新築だったかと思うと感慨深く、おもわずじっと見入ってしまった。
 ところで、仁和寺のような大寺の堂塔を建てた棟梁で、ましてそれが徳川将軍によるものともなれば公文書にきっと記録されるはずだろうが、当の五重塔の中にもそれが、おそらく本人の手によって直接残されているというのは、画家が自らの絵画に施すサインに近いことなのかも知れないと思った。「書く」というのは「搔く」、「記す」とは「印す」——ようするに刻み込んで残すことだが、自分の〝作品〟にそれを記し付けたのだ。そしてそれは、見事に、400年を超えて残った。人が入るであろう初層の目に付くところ——初層はきらびやかに荘厳され、仏像が安置されている(現在は初層も普段非公開)——に書いているわけではないところに、「書き記しておく」という意思が、かえって強調されるように思える。

仁和寺五重塔(筆者撮影)
塔身32.7m、総高36.18m。

国宝醍醐寺五重塔の落書

 もうひとつ、同じく京都の仏塔から、醍醐寺五重塔の落書を紹介する。この塔は朱雀天皇が醍醐天皇の菩提を弔うために発願したもので、工事の中断を挟んで天暦5年(951年)に完成。応仁の乱で焼け残った、現在京都で最古の木造建築である(国宝)。こちらは本当に文字通りの落書で、人に見せる気はなかったものと思しい。というのは、天井の、その木組みに隠れる形で書いてあったのである。つまり、解体修理などで木組みを外さない限り見えないままだった。醍醐寺五重塔は長らく大々的な修理がなかったため、昭和時代までこの落書のことは知られていなかった(16世紀に地震で損壊したが、そのときは豊臣秀吉が修理した)。伊藤卓治氏の研究によれば、天井の極彩色を施すための画工達が、筆ならしのために書いたという(発見は1956年、翌57年に伊藤氏論文発表。「醍醐寺五重塔天井板の落書」『美術史』24巻)。
 和歌の一部と思しいものが8首。ここに書かれていた歌の一つである「あふ己止のあ介ぬ奈可らにあけぬれは……」という概ね平仮名にて墨書で書かれた一首は、宇多天皇の女御・藤原温子が伊勢に詠ませた屏風歌であるとされ、歌の主題となった屏風の方は896年6月から翌年7月までに作られた。一方醍醐寺の五重塔はその約50年後くらいにできているわけだから、この期間に、この屏風歌がそれだけ人口にかいしゃしたということも知られるわけだ。他の歌も、『拾遺和歌集』(1005年頃)や『古今和歌六帖』(976年以降)などに類歌が見られるもので、画工達が作歌したのではなく、すでに知られていた歌を書いたものらしい。この落書の歌と歌集に入っている歌とでは文言が少し違っていたりして、かえって、世間一般、口頭にのぼっていた可能性を強く思わせる。当然だが、画工達が、まさか横に歌集をおいて引き写したはずがない。耳と口で覚えているからこそ、時が経つうちに細かい文言が異同を起こすのである。特にこの伊勢の歌は、実際に後世の伊勢の歌を集めた歌集でも、「あぬ」と「あぬ」で異同があり、落書ではなんと、本文「介(け)」の横に小さく「は」とあるという、歌の言葉の揺れまで書いてあったのだった。なんという丁寧な落書だろう。
 ところで、平仮名はもちろん、片仮名で書かれているのも3首あった。たとえば「左之カ八春 江太之ヒト州に……」(さしかはす えだしひとつに)というのが、白土書という白い文字で書かれている(漢字の部分も全て当て字)。和歌が片仮名で書かれるのは結構珍しい。表記史的にみても貴重な「落書」なのである。
 画工達――つまり貴族や僧侶でない人々もこうして、平仮名はもちろん、片仮名を書いた。漢籍、経典の文章を訓読する際に送り仮名や訓点をいれたりする学問研究以外にも、片仮名だけをもって手慰みや筆ならしで書くほどに、普及していた。まさしく、〝ラクガキ〟というには勿体ない貴重な資料である。

必要性と教育・指南とが噛み合ってこそ

 さて、ここで前編の話に戻りたい。
 読み書き能力は、ごく概していうならば、時代を経るごとに、ヒエラルヒーの下位の部分が徐々に増えていく形で下方拡大していく。この変遷は、現代を一つの到達点とすれば、そこまでの道程として納得できることだが、そのときに、いきなり、何の目的も必要性もないのに、読み書き能力だけが自然と浸透していくことはありえない。つまり、その拡大には、なんらかの「必要性」がでてきたからだと考えるべきだ。その必要性の中には、〈教養としてもっておくべき〉という幾分抽象的な〝備えとしての必要性〟も含まれていく――社会的位相によって時代とともに。たとえば中~近世の武士とその子弟など――。江戸時代の寺子屋の基本的精神もそれだろう。各種往来物(職業ごとにあわせた百科事典的な手引き書)が刊行されているのも、その仕事をするなら知っておくべき素養というわけだから、まさに〝備えとしての必要性〟である。そしてここにおいて必須であるのが教育だ。前編でも述べた通り、文字や文章を書くというのは自然にできるようにはならないので、必ず教育とセットになっていないと広がらない。現代は、義務教育という制度のため、子供一人一人に、「必要性」という意識が特になくても授けることになっている。もちろん、現行の社会は、実質的に文字による支配、統制で動いているわけだから、厳然と「必要性」はあるのだけれど、それを別段くどくどと小さい子に説いて理解させておいてから始める必要などなく、いわば、当たり前のように7歳から(或いはそれ以前から)全員に、無条件に、自動的に教育を始めているわけだが、これはすでに社会が文字に囲まれている、その中で人々は生まれ育っていくという、文明社会の一つの到達点にあると評せよう。

 古代の漁民、農民といった人々が、読み書きをしないのは、教養がないからというよりも、そもそもその必要がなかったからだ。優秀かそうでないかではなくて、いるかいらないか、なのである。必要性が無いから、教育もその機関も求められない。一方役人は業務遂行のスキルとして必要だから学ぶ。まさに実学である。そのための子弟教育、顕著なところでは大学寮という教育機関が設置される。平安時代には、そういった公的機関以外にも、菅原家の山陰亭(菅原家三代にわたって文章博士を輩出)のような私塾があった。ここは後に、門弟が増えて廊下を教室にしたことから「かん廊下ろうか」と呼ばれ、そちらの呼称の方が有名になった。他に、氏族の徒弟教育機関であるところの藤原氏・かんがくいん(大学寮の付属機関のようなものだが、統制下にはない私的位置づけ)、橘氏のこうぶんいんなど。また中世には学校もできた(一番有名なのは足利学校だろう)。
 野村剛史氏は『話し言葉の日本史』(吉川弘文館、2010)において、中世に、地頭の横暴を荘園領主に直訴した手紙を、片仮名で農民が書いていることに注目する。有名な川荘がわのしょうの訴状だ。もともとは文字を必要としなかったはずの人たちが、遂に、あまりの横暴に、もはやにっちもさっちもいかなくなって、「必要」とする状況になったのだ。とはいえ教育機関はない。だから、そのときに指南した存在があって、比叡山延暦寺などで学んだ、もんとかだいじゅといわれる荘園管理の中間管理職をしていたような〝ちゅうインテリ層〟だったとされる。やはり「書く」ことは、必要性と教育・指南とが噛み合ってこそ実現することであった。
 それにしてもこのように、文書で訴えるというのは、文化的営為として、一定の成熟を意味しよう。支配統治構造の上位に位置するインテリ層は、もっと古くからそうしていただろうが、そうでない層は、不平不満を訴えようとすれば、直接口でいうか、最終手段の暴力(暴動)に訴えるしかない。しかし、怒鳴り込もうにも相手にされないかもしれないし、殴り込みをかけても制圧されたり返り討ちにされるとなると、残るは、インテリ世界のやり方で、文書で訴えるということになる。文書だって受け付けられなかったり無視されることはあるが、少なくとも方法として最大限に文化的である。
 ただ、一点留意しておくことがあって、この話を、文字をもっている社会が上位で、無文字社会が下位におかれるという価値観へ持っていくと、おかしいことになる。上に述べたことは文字をすでにもっている社会内部でのありようをいうのであって、〈文字を持つ社会〉と、〈そもそも無文字の社会>とを対照したものではないということである。こちらは、単に〝違い〟であって上下のランキングで把握されるようなものではない。


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。