第5回 
科学研究と天才的閃き 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

言語音の規則的な法則

 かつて教員になりたての頃担当していた大学の授業で、日本語の音韻とその構造について概説したことがあった。言語の研究はおおよそ音声・音韻、文法、語彙そして文字表記などと大まかに分けられるが、そのなかでも音に関する研究は、いわば王道でもあって、ある面では数学的美しさをも持っている。五十音図を思い出してほしい。日本語の音節はあのようにシステマティックに組織されている(厳密にはその組織が江戸時代に契沖という僧侶によって。この五十音図のそもそものひな形や発想のもとはもっとずっと時代をさかのぼった、仏教界にあるといわれる)。子音と母音の組み合わせでできており、非常に構造的である。日本語音韻論は、日本語話者だからこそ、なるほどそんなふうになっているのかと普段意識しないことにあらためて感心してしまうし、意識せずとも話せることを不思議にも思う。ただ、意識せずとも、とはいっても、私たちは決して、場当たり的な気分で日本語の音を出しているわけではない。お互いに通じるということは、システムに縛りをうけている証拠だとも言えるのだ。
 古今東西、数多の言語学者達がこの言語の音のシステム究明に挑んできた。とりわけヨーロッパは、後述のようにラテン語を祖として親戚関係にある言語が多いため、系統を辿るような研究成果を数多く残してきている。そういうことも含めて、新米講師だったその当時、あれもこれもと盛り込んで授業に臨んだのだった。蓋を開けてみればちょっと詰め込みすぎだったかなと思ったが、我ながら反応は上々ではないかと思う授業が出来たような気がした(あくまで主観)。ところが、授業後のある1人の受講生が書いて提出してくれた「一言ひとこと感想」に、筆者は愕然とすることになる――それを紹介する前に、少し寄り道をしよう。

 「グリムの法則」というのがある。といっても童話にまつわる法則ではなく、言語学の話題だ。ドイツのグリム兄弟は、童話作家として有名だが、実は言語学者でもある。兄のヤーコプ・グリムによる「グリムの法則」とは、ゲルマン語における子音の変化の法則をいうものである。ヨーロッパでは、いまから200年前には既に、インドとヨーロッパの言葉は共通祖先をもつということに気づかれており、その後次々に論証されていく(両系統の祖先にあたる存在を印欧祖語という)。そのため、19世紀から20世紀の前半にかけては、言語学の専らの興味はヨーロッパをはじめとする各言語同士の関係性、ラテン語との関係性を音から探るといった比較言語学にあった。グリムの法則もその一つの成果である。
 たとえば英語で数字の「2」は two だが、ドイツ語では zwei という。ラテン語では duo(デュオとか、デュエットなどで私たちも知っている)である。なお、このラテン語のもとはギリシア語の「δύο」である。このようにみると、t と z と d が対応しているようだと仮説を立てることができる。他の例もあげてみると、

】 tooth 英/zahn ドイツ/dentes ラテン
 ※ラテン語の方はデンタルクリニックという言い方で私たちも知っているはず。
数字の10】 ten 英語/zehn ドイツ/decem ラテン

となる。やはり【数字の2】と同じく、t と z と d が対応している。つまりである。こうなると、英語とドイツ語とラテン語は親戚関係にあると見通すことができる可能性がでてくる――実際、そうだ(なお、英語 son(息子)に対してドイツ語 sohn のように頭子音が s~s で英独同じ場合ももちろんある。ここでは t/z/d のように、別の音素だが、規則的に対応している例を示した)。

 言い方を変えると、とある個別の単語同士が似ているとかいうのでは比較言語学の成果にならないのである。たとえばドイツ語では返事で「Ach so」というのがあるのだが、日本語の「あ、そう」と意味も音もすごくよく似ている。またアラビア語で「أنت アンタ」とは日本語の「あなた」という意味で(ただしアラビア語は男性に用いる。女性は「アンティ」)、これも意味と発音が非常によく似ている。が、これらは、単発的、個別的な偶然に過ぎず、音韻変化、音節推移の規則性によるものではない。従ってこういうのは言語系統論の議論にはならない。

科学って何?

 冒頭の、筆者新米時代の授業の話に戻る――こういった音韻変化、推移などに関する解説をして、授業後、受講生に感想を書いてもらったのであった。短いものだが出席確認代わりというわけだ。そのなかのひとつに、「面白かったです。国語学って意外に科学的なんですね。ちょっとへぇとおもいました」とあったのである。しばらく絶句してしまった。つまり、科学と思われてなかったのか……と苦笑いするしかない。無論、その学生がそもそも科学をどのように捉えていたのかは、わからない。授業内容を褒めてくれているのだが、「意外に」という言葉が刺さって、結構寂しい。一般にも科学というと、やはり白衣を着てフラスコを振って実験しているような絵柄がまずは思い起こされるのかもしれない(そして背景の黒板には数式がびっしりとか)。翌週の授業では、こういった一言感想へのアンサーの意も込めて、下記に挙げるような科学のありようを、教室全体にむけて解説してみたが、その後その学生がどう思ったかは、わからない。
 できるかぎり一般化して大まかに言えば、科学学術研究とは次のように条件を挙げることができるだろう。

 問題提起と仮説/論証(その方法とプロセスの明示)/結果・結論/が漏れなくそろっている。今後この研究成果がどういう意味を持つか、広がっていくかという見通しまで添えてあればなおよい。さらに補足すれば、次のように言えるだろう。

①上記のプロセスに客観性がある
②論証が再現性のある手続き・方法による(偶発的、場当たり的なもの、二度と再現されないようなものでない)
③上記の一連の流れは、言語や記号、数字(適宜、図像やデータ含む)など他者にもみえ、理解できる方法、方式で行われる

 ①~③は相互に重なりはある。一般によく「論より証拠」というが、実際は「論と証拠」であって、どちらかだけでは科学的成果にならない。さらに、一連のプロセスを裏付ける重要な用件が「反証可能性」というもので、批判したり、別の角度や方向から、検証して、論理的に議論、討論できるものでなくてはならない(つまり結局それは①②③が守られているということである)。もしかすると、なんの反論の余地もない完全無欠の言説が最高の科学的成果と思われるかもしれないが、終始、何の異論も批判もでない、だせないというのはたいてい、間違っているか、意味が無い議論である可能性が高い(学会発表でも、誰からも質問されず静まりかえるというのは一番つらい)。

 以上を裏返してみると、論証というプロセスがなかったり、客観性がなかったり(その人だけに感知可能だとか)、既存の言葉や記号、数式ではないもので表明されたり(未知の言語や図像、自前のオリジナル記号では、説明したことにならない)、二度と再現されない偶然だったり、あるいは、そもそもその人の頭の中だけにある――といったことであるが、これらは基本的に科学とは呼べない、あるいはまだ科学に達していない。「私にはもう全部わかっているんです」と繰り返されても、他人に理解される形で開示されなければ、どれほどすごい思いつきであっても、存在しないのと同じになってしまう。
 田中克彦氏は科学がそのように客観的であるべきことについて、次のように言う。

天才や直観力の鋭い人にとっては、科学は必要ないんだ。わかっちゃうから。芸術や宗教ですんじゃう。だから、馬鹿に、バカの壁じゃないけど、馬鹿にとってこそね、神があるかとかないとか、そういうことを証明しなきゃなんないんだよ。天才には科学はいらない。心で感得、直感的に感得できるからね。民主主義社会になったら、証明しなきゃなんないんだ、みんなにわかるように。それで、科学の基本はね、それが実験できるということ。同じ現象が、おんなじ条件で与えたらいつでも反復できると。——『言語学の戦後——田中克彦が語る①』(三元社、2008より)

 いかなる天才とても、その手続きは凡夫たる我々に見え、かつ再現、追跡、批判可能な形で示してもらわないといけない。
 それが、科学だし、人文学もまた科学なのである。


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。