第6回
字源とその解釈(前編)
尾山 慎
漢字のなりたち
漢字は、まず大きく2つに分けられる。ひとつが、それ以上分解できない独体字と言われるグループである。「山」「木」「火」「鳥」などで、小学校低学年で習うような基本的な字が多い。もうひとつが合体字という、2つ以上のパーツを併せて作られたグループで、お気づきの通り、独体字はこのとき部品になっている。従って、部首一覧では多くこの独体字がずらずらと並ぶ。
合体字は、「岩」「林」「炎」「鶴」「江」など。筆者の名前は、漢字3つだが、「尾」は合体字、「山」は独体字、「慎」は合体字である。
また、これより詳細な分け方として、「象形」「指事」「形声(諧声)」「会意」という4つがある。「象形」は文字通りで、「山」「川」「鳥」など、もともとはディフォルメした絵のようなものからできたグループである。漢字といえばこれ、というほどよく知られたものであろう(が、実は数は多くない。詳しくはあとで述べる)。
「指事」は、抽象的な意味を表すもので、「上」とか「下」とかが該当する。この「象形」と「指事」は独体字だ。
次に、「形声」とは、意味を表すパーツと発音を表すパーツの合体してできたものをいう。たとえば「江」は、意味が〝水関係〟で、音は「工」(コウ)が担っている(だから「工」自体は意味には関与していない)。
もうひとつが「会意」というもので、2つ以上の意味パーツで、別の概念を表すというもの。たとえば「岩」は、「山」にある「石」であり、「火」が2つあれば「炎」だし、「木」が集まれば「林」になる。漢字を創作して遊んだりしたことはないだろうか(あるいは小学校の授業などで経験したかもしれない)。筆者も授業の一環で実施してみたことがあるが、この「会意」で作ろうとすることが多いようだった。図1は筆者作。辛い白菜で「キムチ」といった具合だ。
先述のとおり、実際は、象形や会意はさほど多くない。漢字の総数というのは正確な数はわからないが(第1回コラム参照)、それでも、相対的にもっとも多いのは形声だといわれていて、おそらく6~7割に達するというから、圧倒的だ。文字の作り方としては一番簡便だからだろう。先ほどの「江」にしても、もし会意で作るとなると何と何を足したら〝大きな川〟の意味になるかというと悩ましいし、「さくら」「もも」「うめ」などは、象形で細かく描き分けることも出来ない。「櫻」「桃」「梅」はすべて「木偏」つまり木に関係があるカテゴリーを示すパーツと、発音を表すパーツの組み合わせで出来ている。また、「さくら」「もも」「うめ」を会意(何かと何かを足す)でひねり出すのは難しい。「江」=〈水グループで、コウという発音〉という具合に作るのが、一番楽で、効率がいい。従って、結果的には相対的に多数となったと考えられる。
「部首よみ」というのがある。よく知らない、あるいはうろ覚えの漢字でも、知っているパーツの部分の音で読んだら意外に当たったりするというやつだ。たとえば「孜」はあまり見慣れない字だが、よみはシである。よく見ると、シと読めるおなじみの「子」が入っているので、字そのものは知らなくてもよめた、という人も多いのではないだろうか。部首読みが、割と当たったりするのは、そもそも形声字が割合として多いからである。だから、先に紹介した「炎」や「岩」という会意字では、部首読みは通用しない。
ところでこの形声字とは、意味範疇+発音なので、発音の部分はどう表してもいいという言い方も出来る。たとえば図2-1、2-2は「慶應」だ。
図3は「寮」を表しており、京都大学などでは今も実際に見ることができる。
さらに海外では韓国で、「癌」をあらわす図4のようなものもある。
そもそも「암(アム)」というハングル1文字ですでに「癌」を指すのだが、これを〝やまいだれ〟の中にいれている。通俗的な遊び心によるのだろうが、漢字の造字理論に適っているのは間違いない。また、「葡萄」のような2文字(図5)、これはそのまま「葡萄」を指す。
中の「포도」は韓国語で「ポド」――つまり葡萄である。先ほどの「癌」と同じ発想だが、中をハングルに変えてもなんだか「葡萄」という漢字っぽく見えるということで韓国におけるあるツイート(現:X)で話題になったものだという1このツイートの存在は、筆者が直接、奈良女子大学の韓国人留学生に教示をうけた。オープンではないアカウントにつき、ここに引用していない。(「葡萄」という字が難しくて書けないから、中をハングルで済ませている、というツイート)。
以上の「象形」「指事」「形声」「会意」の4つは漢字の出来方を分類した造字理論で、四書という。中国ではもういまから少なくとも2000年以上も前に、このような理論をたてて字書を作っている。この他「転注」「仮借」という他へ転用する用字理論もある(四書にこれをあわせて「六書」とも)。これはまた機会をあらためて紹介することにしよう。
以下、字源の話を続ける。
分解してストーリーをつくる
漢字の成り立ちに、教訓話のような「ストーリー」を添えるのを聞いたことがあるとおもう。一番有名なもののひとつは「親」ではないだろうか。「「親」というのは、木の上に立って(子どもを)見る」というものだ。いつも我が子を見守っているというわけで、大変よくできた教訓的字源解釈だとおもうが、漢字そのものの成り立ちからいうと、これは違う。というのは、この字の左側は、「立」と「木」ではないのである。立+木にみえるパーツは、これで一塊で、シンの発音を表す。つまり「親」は形声字である。なお発音はシンだが、さらに意味も兼ね備えているとみる説もある(形声かつ会意)。一方、白川静『字統』では、立+木は、実際は辛+木で、針(辛)をもって木を選ぶことで儀式に使うということに由来するという。もとを辿ってどこまで意味を読み取るかというのは、研究上共通のただひとつの理解があるわけではないので、見解が分かれることは珍しくない。従って、字源や構成を知りたいときは、是非複数の字書を引くことをお勧めしたい。
「親」と部首が一緒なのが「新」だが、そもそもこちらは「木の上に立って……」といった教訓話がされることはまずない(話の作りようがない、ともいえる)。このように俗な字源解は、統一性や法則性によった体系的な話にならないのが特徴だ。言ってしまえば場当たり的に個別に説明を与えているという点で、その字では見事にハマっても、他の同じパーツを持つ字では全然うまく説明できない、ということになり、こういうのはなかなか科学、学術研究として取り組みにくいのである。もっとも、どういう字が教訓的字源解に使われやすいか、ということを体系的に調査、考察するというのは有り得る――これは立派な学術研究だ。
昔中国で、「波」というのは、水の皮だと説明した人がいた。一瞬なるほどと思えるが、聞いていた人に、「じゃあ「滑」は水に骨があるのか?」とツッコまれて絶句したという話がある。そもそもいずれも形声字だったわけだが、上述のように、ある字にとっては一見もっともらしい説明でも、他の字についてはまったく一般化できなかったという、それこそ教訓的な逸話である。
さて、文化庁が2016年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」(概要PDF)で、いわゆる「とめ」「はね」に対する許容度が変わった。たとえば木偏はそれまで「はねない」とはっきり赤印までつけて注記してあったのを、赤印はやめ、かつ、はねている木偏も併せてあげるようになった。手書きによる揺れの許容範囲として認めていく方向であって、筆者は個人的にこの趨勢に賛成である(ちなみに、細部に気を付けて書こうという態度は他の教科にも活かされるから、とめ・はねに寛容になるのは雑な指導となりかねず、賛成できない、という意見もまたあることを、言い添えておく。多様な意見があるのはよいことだ)。
これにまつわって、筆者は以前に母からこんなエピソードを聞いた。もう遥か昔のことだが――母が小学生のとき、「村」という字の書き取りテストで×をもらった。母は、何が間違いかわからず、先生に問うたところ、「木偏ははねたらアカンがな、せやから×」と即座に言われたという。学校教育の現場で止めはねの評価が緩やかになるのが上述のとおり2016年以降であるとなると、筆者の母が小学生の当時など、推して知るべしであって、確かに×以外になかったことだろう。きちんとした先生ほどそうだったろうと思う。話はここからなのだが、母が不満げな顔をしたのを見てか、先生は重ねてこうも言ったという――「あのな、木の根っこは地面に埋まってるやろ?せやからはねたらアカンねや」と。ええ?!そんな理由なん??と子ども心に思ったそうだが、引き下がるしかない。しかし、おかげで、母は、いまだにその場面を克明に覚えているという。悔しくて、というよりも、あまりにその理由説明が印象的過ぎて。すっかり、〝木偏ははねたらアカン〟というのがすり込まれてしまったらしい。正しいかどうかということより、印象にのこるかどうかという点では、こういった字源解ストーリーは時にものすごい力を持っているといえるだろう。
そこでだが、こういう、とってつけたようなもっともらしい理由や、漢字の部首、偏を何かに見立てたような通俗的な字源理解は、〝似非科学〟としてひとつひとつ潰していくべきだろうか。漢字研究の進展に従って、粛々と削除していくのが正しい道だろうか。
後編ではこのことについて考えよう。
(後編へ続く)
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。