第7回 
字源とその解釈(後編) 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

俗解的字源解釈への向き合い方

  前回、「通俗的な字源理解は、〝科学〟としてひとつひとつ潰していくべきだろうか。漢字研究の進展に従って、粛々と削除していくのが正しい道だろうか。」と問うた。
 筆者は、「「親」とは木の上に立って(子どもを)見るもの」のような字源解釈をただちに撲滅すべき、というその一辺倒でもよくないのではないか、と思っている。もちろん、学校の教育現場——すなわちその背景や礎には、人文科学、言語科学の智がある——では、わざわざ教えるべきではないだろう。やはり、教科書に学習項目として載せるわけにはいかない。ただ、俗解は、その科学的理解を一方で知ってのことなら、有意な場面もあるのではないかと思う。いわば、〈教室外で触れる知識〉という意味での存在意義だ。私たちの生活のそこここに、いまなお遍在しているものとして知るのなら、文化文明史とその知見として、意義があると思うのだ。

 俗説が科学によって上書きされたり、はっきり間違いだと退けられるべきことは、たしかに今日様々ある。かなりの周知に及んだものとしてのその代表が、スポーツの、兎跳びの弊害(鍛えられるどころか膝や足首にばかり大きな負担がかかり、骨折や軟骨の損傷といった恐れ)や、練習中の水分補給の必要性だろう(かつては途中で水を飲むと体がダルくなって動けなくなるなどといわれたり、根性なしと精神論にこじつけられたりもした)。今や科学的知見として正しいことは明らかだから、これを知りながら、2023年の今、炎天下の下、水分補給を禁じて兎跳びをさせていいわけがない。それはもはや命に関わる無知である。が、漢字の字源解のほうは、非科学的ではあっても、少なくとも直接、命には(多分)関わらないので、学術研究、知見とセットで、よほど突拍子もない支離滅裂的解釈でもなければ、存続するものはしてもいいのではないかと思う。時々、思わぬ方便や効果を生むこともあるし、後から述べるように、〝そのように思われてきた歴史〟自体まで葬ってしまうことはないからである。もちろん、学術的には誤り、という注釈は常に冠さないといけないけれど。
 以上は、たんなる筆者の漠然とした個人的な願望、感想ということだけではなく、字源解としては「誤り」だけれども、この世からただちに抹消すべきかどうかということについては慎重でありたい、立ち止まって考えたい——そんな示唆的なケースがあるので、次に具体的に経験談を交えつつ、紹介しよう。

「武」字の出来方

 「武」とは「ほこを止める」、つまり攻撃を止めるのが「武」である、という字源解がある。武道経験者ならずともグッとくる言葉ではないか。しかし結論からいうと、漢字の学術的な字源研究としては、これは〝間違い〟だ。漢和辞典『新字源』(角川書店)によれば、この字の成り立ちにはいくつか説があるが、そのうちのひとつが「会意」(前回コラム参照)で、「戈」をもって攻めに行く(「止」=「足」)意味だという。つまり攻撃(戈)を止めるどころか、何のことはない、そのまんま「攻撃する」が字源なのである。「止」は stop の意の字ではなく、「歩」にも使われる「足」をあらわす「止」であるというのがおおよそ現行で一致している見解である。
 筆者は高校時代に、「「武」とは、攻撃を止めること」という俗解の方を先に知り、自身が剣道部所属ということもあって、なんちゅうかっこええ話やーと、かなり言いふらしてしまった。実際、どれほど言いふらしたか分からない。そのかん、「へぇ~」と一緒になって感心してくれる人ばかりで(それがまた嬉しい)、幸か不幸か、それ違うよと教えてくれる人に出会わなかったのだった。が、大学に入り、中国文学関係の授業で、真実を知ることになった。
 この「戈を止める」という字源解は、古代中国の『しゅんじゅうでん』にみえる——「夫文、止戈為武(れ文に、を武と為す)」——しんとの戦いに勝ったとき、家臣が王に「晋軍の兵隊の死骸を積みあげ、それを戦勝の証にして、武功を子孫にも伝えて忘れさせないようにしたらどうでしょうか」というなかなかエグい進言をした箇所で出てくる。王は「武は戈を止めるという意味だ」といって、さらには周の武王が商(殷)に勝ったときも、「楯や矛を収め、弓矢を袋に入れて、美しい美徳を求めて王者として、天下を保つ」とうたわれているではないかと故事を引き、この野蛮きわまりない提案をたしなめたのだった。しかもそれに留まらず、戦争とはつまりは〝武器をおさめないこと〟であり、従って天下の安穏にそもそも反するのだ——そう説いて敵味方双方に犠牲をだしてしまったことを大いに反省したという。ようするにものすごく「ええ話」として語られるのであるが、後世、金文や甲骨文字の研究が進み、上述の通り、「止」は「足」だということが明らかになった。つまり楚の王がこんこんと説いた字源教訓説話は現在の学術的基準からすれば誤りだったということである。ただ、それをもって『春秋左氏伝』の(ここが、大事なポイントでもある)。

 先述の通り、大学一回生の授業中にこれを知ることになり、文字通りがくぜんとした。「左氏伝のこれ、実は嘘です」と先生がニコっとされたとき、「ええっ」と小さく声が漏れてしまったと同時に、我が身に走った戦慄は忘れられない。今までめっちゃ言いふらしたぞ……そもそも自分は最初に誰から聞いたんやったっけ??などと青ざめていたら、先生が「この〝戈を止める〟のほうだけ知ってた人?」と挙手を促されたので、消え入りそうな思いでおずおずと手を挙げた。挙手したのは自分だけだったからか、先生は、やや筆者のほうをむきつつ、「〝戈を止める〟のほうがかっこいいし、はっきりいってこっちのほうがいい話だから、なんかかえって残念よね」と言って笑われ、続けて、皆にむけて、「これはものすごく有名で、かっこいい話だから、こっちだけ知ってるという人はいまだに多い。そもそも故事に出てくるわけだからね。歴史がある(笑)」。たしかに、某所の武道館の名称に、真の武勇を表すとして「止戈」を用いて、この故事にちなむ命名をしているところがある。字源本来でないとわかっていても、やはり説得的である。

 先生は続ける——「研究が進んで、字源解としては、もうそうではないということがわかったけど、中国、そして日本でも、長らくそう信じられてきたということ、その歴史までが消える、あるいは消し去ってしまうべきということでは、必ずしもないんだよ」。
 その日、その場では、〝赤っ恥だ〟とうちひしがれている自分を先生はちょっと慰めてくれているだけかとおもったりもしたが、後々、自身も人文学、そして歴史的研究に身を置くようになって、これはかなり大事なことなのでは、と思うに至った。学術研究とは、過去の知見をただただ上書き、消去して、それまでのことを無かったことにしてしまうわざではないのでは——と。

 「死体を積み上げて武功を誇るなんて、やめよう。そもそも「武」とは……」ともし、思いとどまったのだとしたら、「武」の字源解はまさに仏教で言うところの「方便」として立派に機能したといえる。そしてそういう方便があるから残そうという意味だけではなく、そうして信じられてきた「歴史」自体にも後世につたえていく意味がある、という考え方——これを、筆者は歴史的研究をしている人間として、大事にしたいと思っている。
 命や健康に関わる「兎跳び」や「練習中の水分補給禁止」という誤った教えとは違うところはあるが、このトレーニング方法は害ばかりで意味がないという知見とともに、かつては信じられ、奨励されてきた歴史もまた、引き続き、語り継ぐべきであることに通じるのではないか。
 人気格闘漫画『グラップラー』では試合が終わって「戈を止めると書いて武ッ 暴力を制する道 武道! まさにはなやまのふるう超ド級の戈を、かつの持つ正義の楯が止めたのですッ、武の勝利ッッ」という実況が入るところがある(「花山」「克巳」は人名。少年チャンピオンコミックス デジタル版28巻)。まさに大盛り上がりのシーンで、(漫画の中の)解説者の煽りと興奮が伝わってくる。学術研究とは別に、「武」字の字源解は、今日もこうして〝きている〟。そのこと自体は、否定できないことである。「戈を止める」は間違いだから、もう忘れよう、なかったことにしよう、というのではなく(そもそも「忘れ去る」のも難しい)、信じられてきた歴史や、いまもこうしてときどき出てくる――そこにもしっかりと目を向けつつ、しかし、粛々と、学術研究成果も直視し、常にそれを礎とする。無論そこは揺らがない。科学的知見を基盤に俗解を対象化するという、そういった複眼的視点こそが、人文学、とくに歴史的研究の場合は重要ではないかと思う。

そういいつつも気になる

 BANDAIの食玩で「超変換!! もじバケる」というのがある。漢字一文字のかたちをしたフィギュアで、パーツを組み替えると動物などの形になる。たとえば「犬」という漢字を組み替えると犬になるという、なかなか画期的なおもちゃだ。結構いろんな字があるのだが、筆者にとってどうしても気になることがある。それは、「牛」や「虎」は「象形」なので、そのままウシやトラになってもいいのだが(「いいのだが」も本当はおかしい)、「獅」も同じく組み替えるとライオンになってしまうのである(写真は、筆者の私物)。

 
 

〈文字が変形する〉という時点で、学術的にどうかというところと縁が切れているはずなのに、頭の中でどうしても繋がってしまい、感覚的に我慢できない。たとえ数字の「1」が鷲になっても、「X」が鮫になったって、おもちゃなのだからまったくなんでも自由な世界の話だと、頭ではわかっていてもどうにもこだわってしまう自分がいた。
 「獅子」の「獅」は、「形声」(前回コラム参照)の字なので、〈けものへん〉+〈シの発音〉だけの字である。これがライオンになるのは、「虎」字がトラになるのとは全然違うんじゃないのか(何度もいうように、そもそも「虎」字もトラにはならないのだけれど)と、どうしても気になって、散々迷って、当時まだ小さかった息子に渡すのをやめた(自分でだけ、遊んだ)。

 漢字の俗的字源解に、寛容な態度で臨みたいなどと宣言した筆者であるが、自分のこの偏屈ともいえるこだわりに、我ながら苦笑いである。なかなか一律に論理的に、合理的にいかないものだ。なぜあれは OK でこれはダメなのか、というと、こだわりポイントは「気分次第」としかいえない……のであるが。
 この食玩、ものすごく売れたようで未開封品などはプレミアが付いている。なお「もじバケる」はなんと仮名バージョンもある。片仮名の「リス」二文字で、変形してリスになるものなど。片仮名ということは表音文字なのだから、これはもう筆者の言う、形声だの象形だの云々のこだわりなど、まったく無意味だと打ち砕いてくれる逸品である。


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。