第12回
「この世のどんなものより」と言われて
尾山 慎
故事「矛盾」
有名な「矛盾」のもとの話になった故事は、義務教育で習うことになっている。書き下し文と、現代語訳を挙げよう。
楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。これを誉めて曰く「わが盾の堅きこと、よくとほすもの莫きなり」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利なること、物においてとほさざる無きなり」と。ある人曰く「子の矛をもって、子の盾をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。
(楚の国に、楯と矛を売るものがいた。これを誉めていうことには「この楯の堅いこととといったら、貫くことができるものなんてない」と。また矛の方を誉めていうことには「この矛の鋭いことといったら、貫けないものなんてない」と。ある人がいった「あんたがもっている矛で、その楯を突いたらどうなるのかね?」。彼は、答えることができなかった)
唐突だが、この話を仮に演劇でやると想像していただきたい。古代の中国の街頭のセットに、エクストラも多数用意、様々な年齢の俳優達などを呼んできて役回りを決める。もちろん、衣装、矛と盾も小道具で凝ったものを揃えよう。本格的な時代劇風にやるのは、お金を掛ければ難しくないだろう。CGも使えば遠景まで含めて壮大なものにできそうだ。そこでだが、これを無言劇でできるだろうか。身振り手振りだけ、セリフはナシである。よくあるドラマの冒頭のシーンのように、景色としての舞台、人々の往来や雑踏の様子、様々なお店が並んで活気がある様子というのは映像だけでも伝わるだろう。個々人のことばはむしろいらないほどだ。しかし、この「矛盾」のやりとりに関して、「矛盾」説話を知らない人に伝えるには、セリフがなしではまず、不可能ではないだろうか。どれほどの名優と凝ったセットを揃えても、こればかりはことばがないとほぼ無理である。どのあたりが特に難しいか——それは、「よくとほすもの莫きなり」と「物においてとほさざる無きなり」である。少し意訳すれば、「この世のどんな攻撃も防ぐ」というのと、「この世のどんなものでも貫き通す」という部分。これをことばを使わずに、このことばの意味の通りに伝えることは、できない。
たとえば蝦蟇の脂売りが、「御覧あれ」と日本刀で腕を切るふり(もしくは薄皮一枚切って血を滲ませたり)をするように、実際にその矛をつかって、何かその場で貫いてみれば伝わるだろうか?客は、いったいどれくらい突いてまわったら納得するのだろう。楯に至っては誰かに矛や剣で突いたり斬りかかったりしてもらって、しっかり防げるところを見せなくてはいけない。いや、見せ続けなければならない。しかしそれとて、全部、今その場で目に付く身の回りの範囲のものを使うのがせいぜいであって、試している間に時間もどんどん過ぎていくし、実際、素晴らしく鋭利な矛で、すばらしく頑丈な楯であっても、一向にキリがない。ある意味、この武器屋が死ぬまで試し突きを実演しても終わらない。
つまり、本当に〈この世にある全て〉で実際に試すことなんてできないのである。しかし、ことばはどうだ。あっさりとそれを請け負ってしまう。「この世のどんなものでも」と。こう考えてみれば、ことばはなんとも恐ろしい道具だ。そしてこれは発言する側だけではなく、聞き手と共有される想像世界を構築しているということにも注目しなくてはならない。目に見えない「この世のどんなものより」を想像して、共有できないといけないのである。そうでないと、聞いているほうも「すげぇ!」と感心もできないはずだからである。故事の中で、武器屋に鋭くツッコんだ人も、いったんは、「いや、それはすごい楯だな」「なんとそんなすごい矛なのか」とそれぞれ(一瞬でも)感心したことだろう。「この世のどんなもの」がもたらす想像世界を、自身もおもわず脳裏に描き出すからである。
ことばの働きは様々にあるが、目に見えないものを想像して共有するという、この力は、人間の認知を特別なものへと引き上げるのに大きな要因を成したと考えられている(もちろん、認知があがったからそういうことばを使えるようになったという反対方向の作用も想定されていいが)。
なぜ詐欺師に騙されるのか
ことばが、目に見えないものを請け負う、想像を共有させる力をもっていることは、世界的ベストセラー『サピエンス全史』(河出書房新社、2016)のユヴァル・ノア・ハラリ氏も大きく取り上げている。「ライオンは我が部族の守護霊だ」と団結する、そういった虚構、架空の事物について、共有できるのは、ことばによると指摘する(上巻:p39)。ホモ・サピエンスはこれをもって、他のあらゆる動物との歴然たる違いを有するようになった。単に協働できるだけではなく、虚構のもとに団結したり、想像でもって、予定したり先回りできる。1人では到底敵わない大型の獲物も仕留められるようになる。それらを裏付けるのは、いずれもことばである。
さて、この人間だけがもっている、〈ことばで想像する世界とその共有〉という能力を逆手にとって人を陥れるのが詐欺という犯罪だ。人間が、ことばだけで想像できてしまう、しかもその想像のほうを優先してしまう場合があるということに、この犯罪が成立する要因がある。
ある日、百戦錬磨の投資家を名乗る身なりのいい男に出会った。自分の手元には現金で今100万円ある。いますぐ100万円を用意できる人にだけの「いい話」らしい。
今お手元にある100万円を私に預けていただければ、1ヶ月後に200万円にしてさしあげます。いい投資先がありましてね。ほぼほぼ確実なんです。え?儲からない場合もあるだろう?おっしゃるとおりです。もし駄目な場合はもちろん、100万円はお返ししますよ。元金保証ってやつですよ。誰しも損したくないですからねぇ。1ヶ月の間だけ、お預けいただくだけです。タンスにいれておくよりは、っていう程度にお考えください。ですからつまりは、1ヶ月待っていただくとですね、もとどおり100万円がお手元に帰ってくるだけのことか、そこにもうあと100万のお友達をつれて帰ってくるかどちらかってことですね、うふふふふ。え、なんです?おまえはどうやって儲ける?なんと!お気遣いありがとうございます。2回目から手数料を頂戴します。今回すなわち1回目はまずは私は一銭も手数料はいただきませんっ!
いえ、お気に召さないようでしたら他にもご希望の方がおられますので……
まぁよくしゃべること。投資先とやらも堅実な商売をしていそうだ、などと自分を納得させて、まんまと話に乗ってしまった。金を預けて早々にこの人物とは連絡が全く取れなくなり、そして100万円が手元に返ってくるはずもないのであった。やられた——。
騙されたほうは、話の最中で、〈いま手元にある100万円が一旦目の前から消えることを良しとした〉ということになるが、それは消える「現実」と「想像」とを天秤に掛けて「想像」の方をとった(「200万になって戻ってくるかもしれない」)というわけだ。これら一連の判断を支えているのは全部「ことば」である。自分が考える方もそうだし、詐欺師がたたみかけてくる甘いことばもそう。止めどなく想像をかき立てることば——決して、目の前で現実にお札の枚数が2倍になるわけでもないのに、ただただ、ことばだけを頼りに、ことばでもって「一ヶ月後」を想像して、お札の枚数が2倍になるのだと想像して舞い上がってしまう。
もちろん、手元にある札束でさえ存在せず、通帳や書類の数字だけであっても想像できてしまう。この想像力がかえって恨めしい。現物のお金を一切介さないままに、想像の世界だけで騙されて、全部持って行かれてしまう、ということさえ起こる。想像というと「ファンタジー」とか「十年後の私」とか、「未来都市の生活はどんなふうに便利になるか」といったところがまず思い浮かぶかも知れないが、これをこうすればああなる、ああするためにはこうしておかねば、といった、ごく直近で、卑近な予定や計画も、立派な「想像」なのである。
動物相手に詐欺は働けない
さて、当然のことだが、人間以外の動物には詐欺は全く通用しない。そもそも、「その手元にある○○を私に預けてくれたら」というのを伝える術がないわけだが、たとえばすでにその動物の手元にあるエサを、「これちょっと私に預けてみて」などといってひょいと取り上げたらどうなるだろう。怒り狂い、猛然と襲いかかってくるのではないか。説明なんておかまいなし、動物が一番怒るやつである。ワニなどは、餌を差し出した手を引っ込めるだけでその手ごとガブっといかれるほど反射的に反応するそうだ。決して、エサで動物をからかってはいけない。
ということで、さきほどの100万円投資詐欺のごとく、「ちょっと預けてくれたら、明後日このエサを5倍にするよ?」というのは一切通用しないわけである。詐欺ではなくて、本当に5倍にするのだとしても、通じない。動物たちにとっては、いま、目の前にあって食べようとしているエサがなくなる、それはイヤだ!許せない、返せ!という、それに尽きるだろう。つまり、現実世界の「いま」「ここ」「自分」から基本的に揺らがないのが動物だが、〈想像する世界〉は、その「いま」「ここ」「自分」から自由自在に遊離する。人間にとってこれはとてつもなくすばらしいことであり、そして、時にとてつもない落とし穴にもなる。
ことばの働きは?と聞かれると多くの人が、他者とのコミュニケーションと答えるだろう。それはそうに違いないのだが、ことばの数ある働きの一つに過ぎない。ことばは、その人に、知識体系を構築せしめ、想像させ、意識させ、判断させる力をもたらす。それによってこそ、他者と連携も、協働もできる。もちろん、ことばのせいで、分断されたり、争いにもなるのであるが。
とりわけ、「この世の全て」「ほかのどんなものより」と、ことばが壮大に請け負うことには、ちょっと注意が必要だ。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。