第19回 
「神」と「天使」が大渋滞
——褒めまくる日本語 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

「神対応」の「神」って

 「神」について、日本とユダヤ・キリスト・イスラムなどの西欧宗教文化圏とでは、まるで違うので、まずそこの説明から始めるのが筋であるが、今回は日本【】の話なので、さしあたり、一般的に「神(様)」といわれて想起される、聖書やクルアン(コーラン)の神でなく超自然的な存在(しかもいっぱいいる)、というくらいの理解で、話を進めよう。
 「神対応」ということばが、SNS を中心に一般化してきた。が、これも、アマテラスとかよろずの神かというと違うわけで、超越的とか、(良い意味で)かなり度を超している、というその側面だけを抽出した、程度をあらわす比喩としての「神」である。このことばを使うか使わないかは別として、あまりにも目にする機会が多くなってきて、筆者はもはや感覚が摩耗してきているように自覚している。つまり、身も蓋もないが、「神~」っていうけど別に大したことでもないんだろうな、と内容を知る前から思ってしまったりするのである。

 さて、ひとみ以上の、とか、期待を遙かに超えた、というほどの意味であるとはいえ、それが具体的にどんなものか、というのは実は事実上不問であり、〝とにかくすごいと思う〟を全部まとめて詰め込んでしまえるのがこのことばで、そこが便利なのだろう。大げさなことばで耳目を集める効果も期待されていよう(ただ、使いすぎると先述の通り〝摩耗〟するが)。昨今は、往々にしてその大げさなことばたちを SNS を中心に社会の人々にむけて発表するから、あたかもそのことばには定義や客観的基準があるかのように思える。が、この場合の「神」は、〈高い程度〉というおおよその了解があるだけで、何に対してそう形容するかは、実に主観的なものだ。
 プロ野球選手が、試合のために球場に着いたバスから降りて移動する途中などを思い浮かべていただきたい。どれほどファンが熱狂的に声をかけようとも、せかせかと伏し目がちに足早に過ぎ去るのが通常のところ、立ち止まって、子供には笑顔でサインをして、さらには肩にそっと手を添えて一言声をかけるといったような、たとえば大谷翔平選手の立ち振る舞いの一コマなどというのは、「神対応」の典型例としてよくネットニュースにあがるのではないだろうか。が、それを「神対応」とは別に言わない、大谷選手のノーマルな立ち振る舞い、などと言い張っても、それはそれで勝手であろう。

 この場合の「神」には、造語力(別の「神」を含む語を創出する)があって、周知の通り、「対応」以外とも結びつく。YouTube では、サムネイルなどに【神動画】などとあおり文句が添えられていたりする。コメント欄に見られる(つまり他者からの評価として、この動画はすばらしいという意味で「神動画」とコメント記入)こともあるが、サムネイルにテロップで記載されている場合は、つまり動画を上げている言っているということになる。実際、奇跡的な瞬間をとらえたものや、すばらしいゲーム技術の腕前の披露、おなかを抱えて笑うような出色のおもしろ動画もあるが、言っては何だが、お世辞にもそこまでではないものも、かなり多い(そこまでではない、といえるということは、筆者もやはり「神動画」の「神」度合いに何らかの期待を寄せているということになるのだろうか)。
 ところで先日筆者がみた音楽系動画では、作詞作曲を自分でした、その新曲動画披露にあたって、動画題名に【神曲】と冠されていた。一瞬「しんきょく」と読むのかとおもったら、「かみ・きょく」で、【神動画】【神対応】と同じだった。

 ただ、投稿主が自らの動画を「神動画」と称する、そこに文句をつけるのは野暮というものだろう。商品が売れないてこ入れに「つまらないものだけど買ってくれたらうれしいわ」とか、「人気ないのよね、やっぱりみんな買わないよね」などねて見せても仕方ないわけで、やはり「絶賛発売中! 今が最後のチャンス!!」などとするでのはないか。先ほど述べたように、具体的にどのくらいだったら「神」なのか、お互いに共通の条件を了解しあっているわけではない。申し合わせなど、ないのである。だから、言ってしまえば自分で決めればいいわけだ。
 自身の動画のあおり文句に「神」と使ったりできるというのは、もともと、ある人の立ち振る舞いなどの他者評価に用いられた「神○○」が、ある程度定着してきたことから、自分のことについてのある意味での権威付け、売り込み文句に、その修飾語として転用するに至ったものだろう。ただそれでも、自分がとった行動——自分も忙しいのに荷物を持ってあげた、とか、倒れている人を助けたなど——を、「さきほど神対応してきました」などとはさすがに言えないので、いまのところ、どこまでを、いただけない自画自賛とうけとるか、どこからがセルフプロデュースとして容認されるかという線引きらしきものはあることになる。将来これがもし、自分のちょっとした善行をも、「神対応」と自分でいうようになったとしたら、そのときこそ本当に「神」は地に堕ちたというべきかもしれない。

 「神」の反対は?と、ことばの問題として(必ずしも宗教的問いではないとして)聞いたとしたら、やはりとりあえずは「悪魔」だろうか。そして「神」に類するのはここ日本であれば「仏」だろうか。しかし、「神対応」の反対は、通常「塩対応」のようで、この「塩」とは「しょっぱい」という、わりと伝統的にある、素っ気ない/つっけんどん/けんもほろろといったことを指す場合からの連想のようだ。辛口というのも加味されているかもしれない。つまり現状、「神対応」の対義語は「悪魔対応」ではないのだ(「悪魔対応」などというものがあるとしたらどんなものだろうと想像をかき立てられるが)。「仏対応」もほとんど聞かない。日常語としての「仏」は、(ふつうなら怒るであろうところで)決して怒らない、腹を立てないといった人の形容で使うことが多いと思う。つまり人柄の叙述であって、「対応」というような行動には用いられにくいのではないか。「仏」は「やさしい」や「温和」とも絶妙にみ分けられているようだ。

容姿褒め

 ネットニュースをみるのが習慣になっているのだが、新聞と違って表示される内容がかなり多岐にわたって、かつそれがとりあえず平面的に、一面に見出しで広がっている。筆者が使っている検索エンジンのトップページのニュースでは、いくつかのカテゴリにわかれていて、選ぶとその奥の階層にいって本文が読めるわけだが、たとえばそこで芸能関係のタブを選ぶと、当然かもしれないが、芸能エンタメゆえに、誰かの容姿を巡る記事(多くはブログなどから抜き書きしたものとおぼしい)がひたすら目につく。やや乱暴にまとめると、十中八九、美しい、かわいい、また実年齢より若く見えて驚くという(とくにこれが最近異様に多い)、見た目にかんするものではないかと思う。残りは、芸能界の裏話的なもの――あのとき、大物俳優に実はめちゃくちゃ怒られたとか、あの番組の裏で実は、こんなトラブルが起きていたといったたぐいである(ただし、きっとこれも建前上の〝営業裏話〟であって、本当に裏話なら公にはいえないだろう)。
 見た目を褒めて褒めて、褒めまくる、そしてそれをネットに流すというのは、たしかに逆のことを記事にすると単に誹謗中傷、人権侵害になりかねないというのもあるから当然なのかもしれないが、それにしても昨今のルッキズム問題はどこへいったんだというほどの「容姿褒めことばの渋滞」ぶりである。よくここまで褒めることがあるものだと感心してしまう。いま「渋滞」と使ってみたが、これも実は流用で、数人のたとえば女優が写った写真をして「美しさが大渋滞」などとするのである。こうしてここに抜き書きするだけでもちょっと気恥ずかしさを覚えるコメントだが、最初にこの表現を考えた人はなかなかの腕前だと思う。文学的表現が新規に開拓されていると評せよう。何事も、最初に切り開くのは難しい。

 基本的にネット媒体における褒めことばは大仰である。それは、ちょっとやそっとでは褒めたことにならないからである。盛ったり増したりしないと、とても他の人より褒めたことにならない。「褒め殺し」という絶妙なことばがあるが、決してそういうわけではなく、その多くが本当に手放しで褒めているようである(あるいはその褒めことばの大仰さも、大仰と感じないほどに麻痺している)。最近は、少し視点をずらして、自分の反応のほうを述べる褒め方がでてきている。つまり、その人が美しいとか綺麗とか、形容するだけで済ませるにはおそらく限界があるので、「美人過ぎてびっくり」のように述べるわけである。他にも、ネット上ですぐ見つけられるものとして、

「あまりのかわいさに声出た
「美人過ぎて気失いかけました
「もう登場した時衣装可愛すぎて叫んだ

といったところである。推しのアイドルが舞台袖から現れたら絶叫ともつかない歓声をあげるだろうから、「叫んだ」は誇張ではないのかもしれない。また、ライブなどで、「演奏中私と目があった!」といって本当に気絶する人もいるらしい。だいたいこういうコメントを書き込むのは SNS フォロワーの、コアなファンの人たちのようなので、そういう意味で納得ではあるが、手を変え品を変え、褒めことばのバリエーションの、その可能性の広さには驚かされる。
 本コラムのアップ直前であるが、上にあげたような表現の、あとは似たり寄ったりで大体出尽くしているかなと思いきや、「可愛すぎて地球の自転とまるよ」というのを見つけた。まだまだあるものだ。

「天使」

 今回のコラムは「神」から始まったので、やはりこちら——「天使」に触れないわけにはいかないだろう。天使は、キリスト教では主(神)のお使いである。つまり、文字通りなのであるが、それがどういう存在なのかは、宗教的にも多くの議論がある。だいたい一致しているのは、全知ではなく(だから、決して神そのものではない)、霊的な存在ともされ(これも議論がある)、かなり神秘的に思えるが、それでも天使自体を信仰したり尊崇してはいけない決まりがある。また意外だが翼があるかどうかさえ、一定しない(そもそも天使に翼はないという考え方もある)。また、男女の別はないともいわれる。さらにはヒエラルヒー(階級)があって、ただ単に「天使」というのが一番下で、その上に実に8階級もあって、一番上は、てん使(セラフィム)といった具合で、天使だけでも結構いろんな話がある。
 さて、この「天使」が、日本語表現のひとつとして、小さな子ども、若い女性の褒めことばに使われることが、これもネット上でよくあるのをご存じだろう。やはり、概ね容姿についてである(それも写真に対して、というもの。赤ちゃんになら目の前でいうかもしれないが、いくらなんでも大人の女性には、たとえ褒めるつもりでも面と向かっては「天使」とは普通言わないはずである。つまり「天使」とは本人不在時に限る褒めことばであり、必然的に多くが画面の向こう世界、ということになる。この点は、褒めことばの使い道と、その制限として興味深いところだ。
 そういえば一昔前、看護師のことを「白衣の天使」というのをよく聞いたものだが(ナイチンゲールに由来するともいわれる)、最近あまりいわないのではないだろうか。男性看護師も多くなってきているし、現実に大変な責任と激務であるから、別の方向の褒めことば(主に見た目について)として台頭してきた昨今の「天使」は、もはや看護師に対する褒めことばとして使うことが、あまりそぐわなくなってきているのかもしれない。
 赤ちゃんを褒める場合は、羽が生えた幼児のような(キューピーちゃんとか、森永製菓の「エンゼル」はその典型)イメージがあるから、これはわりと比喩としては分かりやすい。純真無垢、無邪気というところにイメージを重ねるのだと思われる(ただし、本来の天使は、前述の通り神の意志を人間に伝達するという使命があるから、本当に純真無垢、無邪気な赤ちゃんではつとまらない)。『受胎告知』という有名な宗教画があるが、ダ・ヴィンチの作品などでは、かなりしっかりした頼りになりそうな天使で、それもそのはず、大天使ガブリエルという上位の天使である。ちょっと迫力さえあって、翼も大型の鷲のようで、無邪気とかほのぼのとはほど遠い威厳と緊張感が伝わってくる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」
ウフィツィ美術館

 キューピーちゃん的天使に話を戻すと、これが「かわいらしい」「愛らしい」へとスライドし、さらには若い女性への褒めことばとして横滑りしていくとみられる(筆者の知る限り、青年男性について、どれほど見目麗しくとも、「天使」と形容するのは見たことがない。一方、女性の場合には、20代、ときに30代に向けていうのも、ざらである)。ただ、上にのべたように、他にも多くの褒めことば(若干過剰な)があるので、そのなかでとりわけ「天使」が使われる理由が知りたいところだ。単純に眉目秀麗なだけではなく、もともとキューピーちゃんや森永エンゼルあたりからスライドしてきたことを思えば、「美しい」よりは「かわいい」、そこに「ピュア」「清楚」「華奢」「繊細」といった要素も加味されている可能性がある。このあたりが男性には使いにくい理由かも知れない。なお、「小さめ」の意も含むかと思ったが、明らかに高身長のモデルの人などにも使っている例があるので、小柄要素は必須ではないようだ。いずれにせよ、もはやまったく本来の「天使」ではないのであるが、「神」とともに堂々と、頻繁に使われ、あふれかえっている。
 実例を挙げると、褒められている人の名前は伏せるが、「天使が今私の画面に降臨」「天使すぎませんか?」などがある。「すぎませんか?」ということは、ちょうどいいくらいの「天使」とか、「惜しい、あともうちょっとで天使」などもあるのだろうかと思ってしまうが、おそらくは、御飯を食べていて、思わず漏らす「うますぎる!」の類いと同じだろう。

 結局、どういうのが「天使」なのかわからない、何をもって「天使」なのか、と言いたいところであるが、それは上述の「神」もそうであるし、伝統的にあることば——たとえば、何をもって「清楚」といえるかということと実は、同じである。「清楚」のほうがあれこれ説明できそうな気がするかもしれないが、「清楚」と認定されるための5ヶ条などというものが、厳然と客観的にあるわけではない。辞書的定義はあるものの、結局は主観である。このことは、「清楚」を巡って意見が食いちがうときを想定することでよくわかる。

「○○さんのお嬢さん、清楚よね」
「ええ?そうですかぁ?全然そうおもわないなぁ」

というやりとりがあるとする。これは、一見、一つの「清楚」基準で、両者の意見が食いちがっているようにみえるが、実は2人のイメージする「清楚」がそもそも一致していないだけ、というふうにとらえるのがよい。というか、みなそれぞれに主観的に「清楚」感をもっているだけなのである。日本語表現にでてくる「天使」も、つまりはそういうことだといえる。
 「もう、この人天使!」「うん!わかるわ!」と手を握り合ったとしても、それはお互いの主観的「天使」観が、限り無く重なりあっただけのことである。もちろんそれは、同じ「推し」をもつ2人にとって幸せなことに違いないけれど。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

 

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