第18回 
人は世界を「物語」で知る(後編) 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

出来事を選抜する

 世間話で、ちょっとした出来事を友人に話すとする。起こった出来事をそのまま辿って話すのも「物語」だが、私たちはその語る内容を取捨選択したり、出来事の順序を入れ替えたりして話すことがある。いわゆる〝オチ〟を付けたりすることも。そうすると、なおさらひとまとまりの「物語」然としてくる。本の世界だけではなく、私たちは日常よく、そういうことをしている。
 物語るにあたっては、もちろん筋道立てないといけないが、上に述べたように、そのためには、まず語る事態の選抜をしていく。たとえば昨日どんな一日だった?というときに、24時間を、本当に24時間かけて語ることなんてしない。そもそもそんなことは不可能だし、無意味だろう。昨日は朝おきてまずは自覚的に呼吸した——こんなところから始めるはずがない。そういうのはすっ飛ばす。つまり、。選抜して筋道立てて、時々、出来事を話す順序をいれかえたり、あるファクターをあえて伏せながら進めたりするわけである。選抜ということの、その極端なところでは、先週どうだった?と聞かれて——いや〜実は骨折しちゃって大変だったよ、などというもの。のべにして7日間分の説明が、「骨折して大変だった」のたった一言に代表される。そして、たいてい、これを私たちは特段不思議にも不審にも思わない——ええ!それは大変だったね!?大丈夫なの?などと相づちをうつだろう。まさか、じゃあ先週はゴハン食べたり、寝たりはしなかったの?呼吸はしてたの?とは聞かない。当然のことは、背景化してしまっていて、特筆すべき事態を取り立てて語るということを、お互いに当たり前のやり方だと知っているからだ。特筆すべきこと、目立って取り上げるべきもの――と私たちが捉えるその対象を「認知的きわ立ち」といったりする。これは、ネコばかり10匹いるなかに犬が1匹交じっているのも「際立ち」なら、一週間のくらしの中で、骨折してしまったこともまた「際立ち」、として認知される。大きく特筆すべき出来事だとして選抜されるのである。そして選抜されたことを中心に、軸に、語る。ここにはもうすでに「物語」が組み上げられていっているということだ。
 実は新聞、テレビ等も、際立ったものの選抜を集積し、まとめ、順序立てて報道しているのである。どこが際立っているか、際立っているとみなすか、何をどういう順番で出していくのか、というところに報道各社のカラーが出るというわけだ。

ねぇちょっと聞いて、という話

 さて、選抜した内容を戦略的に入れ替える例として、友人に話すこんなエピソードはどうだろうか。

ねぇ聞いて。さっきね、ここくるときに派手なスーツ着てる背の高い人が横断歩道の向こう側から歩いてくるのが目にとまったの。伏し目がちに歩いているので誰かはよくわからないのよね。スタイルすごいし、こんな目立つ服、芸能人かな?とおもって顔を見ようかとおもったけど、あからさまにのぞき込むのも失礼だとおもって、そのまますれ違った。でもやっぱり気になって、渡りきっておもわず振り返ると、ちょうどその人も渡りきってて、そこで、「えーーっ!」という声が聞こえたかとおもったら、あっという間に女子高生達がその人を取り囲んで歓声を挙げてたのよね。そのとき、はにかむようなその人の横顔がみえて、昨日映画館で見た映画の俳優の○○さんだとわかったのよ!まさか!昨日、スクリーンの向こうにいた人が、20m先に立ってるなんて!おもわず、ああ~横断歩道渡りきるんじゃ無かったわ!って。

  ほとんど時系列に沿って語っているが、映画をみたのは昨日であり、実は俳優の○○だった、を話の順序として後にだしている。出来事の選抜に加え、順序の組み替え、整理であり、いわば語りのための戦略である。もちろん、場合によっては、「ねぇ聞いて!そこの横断歩道で俳優の○○とすれ違った」「マジ !?」からはじめて引きつける、という技もあるだろう。次いで、「いやー、めっちゃ派手な人歩いてくるやん、とおもったらさぁ……」と、追って説明する形で展開させていく。こういう語りの様々なパターンは、いずれにせよ〈ひとまとまりの話〉としてくくって提示するための方策のようなものだ。世間話とは、とりとめも無く、対話や事実上の独り言が重ねられていくものではあるが、時に、このように挿し挟まれるエピソードは、えてして〝ひとまとまり〟として「物語」のような性格を持つ。
 以上のように、ほんの日常の世間話の中のエピソード語りひとつとっても、語りの構造や、順序は、現実の時系列に沿うとは限らない。語るとはつまり言葉を使うことであり、言葉の集積とはつまり文章(テクスト)だといえる。それは事実・現実に対する後発の産物だといえるから、そういうのは専門用語で「メタ・テクスト」と呼ぶこともある。

小説、文学の存在意義

 文学作品というものに、なにやら敷居の高さを感じる人がいるかもしれない。あるいはどんな名作といわれるものも、娯楽、エンタメにすぎない——だから、学者がああだこうだと分析しているのなんて、どうにも価値を感じないという人もいるかもしれない。いずれも、それはそれで各人の受け止め方として自由ではある。隅から隅まで一言一句、研究するような学術科学研究の対象、人類の遺産などと一々記念碑的にとらえてもいいし、寝る前にページをめくるお楽しみ、友達とああでもないこうでもないと感想を言い合い、映画化するならキャストはだれがいいだろうなんて想像する、あくまで娯楽、余暇としての存在——ただそれまでのもの、というのもいいだろう。
 そういうことの他に、文学、物語の意義を考えたとき、いまの現実とは違う別の人生、別の世界観、なしえない体験の疑似経験という価値や効果が上げられる。医療、法廷、パイロット、プロスポーツ——華々しい活躍の裏側はどうなっているのか、高収入で、うらやまれるばかりではないリアルな日常など、本当にだれかのドキュメントをするわけにはいかないことを、「物語」は、私たちにみせてくれることがある。
 たとえば典型的なのが犯罪が絡むことである。犯罪を犯す人、巻き込まれる人——できれば、現実の自分の身にはそのどれも起きてほしくないし、そんなことをするつもりもない。ところが私たちは、人を陥れたり、殺したりする手口にどういうものがあるかというのを結構、知識として知っている(知ってしまっている)のではないだろうか。もちろん、現実世界の事件として報道で知ることもあるだろう。しかし、報道では、もちろん殺害の瞬間はリポートしない(できない)。山中に死体を埋めたと報道されても、どう埋めて、何がどのように手がかりとして残されて、犯行はいかに露見するのか。計画から実行、そのあと、どう暴かれていくのか——。ニュースは倫理的観点からしてもそこまでつぶさには伝えない。しかし物語は、小説、映像メディアそれぞれ、実に詳細に語る。それが目的といってもいいほどリアルに、詳細に語っていく。一連のこととして、殺人なら殺人のありようを、私たちが知ってしまっているのは、「物語」というものにさんざん触れてきた、そういうルート由来の知識が非常に多くを占めると思われる。だから、ときどき、あまりに巧妙な殺人の手口を描いた「物語」は、逆に現実世界でよからぬ教唆を与えてしまうと心配されることがあるほどである。

 東野圭吾氏に『手紙』という作品がある。ベストセラーとなって映画化もされた。ある日突然、殺人犯の弟になってしまったという人物が主人公で、文庫版のカバーにはこうある——「強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く……。しかし、進学、恋愛、就職と、直貴が幸せをつかもうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる苛酷な現実。人の絆とは何か。いつか罪は償えるのだろうか。犯罪加害者の家族を真正面から描き切り、感動を呼んだ不朽の名作。」

 殺人なんて絶対しないし、被害者やその家族にももちろんなりたくない。事件に巻き込まれた人、命を落とした人は本当に気の毒だと思う——そこに、もうひとつ、ふつうあまり向かない視線を投げかけたのがこの作品だ。それが、犯罪に直接かかわったわけではない加害者の家族である。いったいどのような人生を歩むことになるのか。本当に、実体験するわけにはいかないし、そのようにならないことを普通は願うばかりだ。そのうえで、加害者家族になってしまった人たちに突きつけられること、立ちはだかることを、物語を通して知る。一人称視点なら疑似体験だし、三人称小説ならいわゆる〝神の視点〟でそれを見ることになる。
 東野圭吾氏自身はこのように語っている。

私は長年、ミステリ小説というものを書いている。主に殺人事件を描き、その真相が明らかになったところで物語の幕を引いてきた。だがある時、ふと疑問に思った。自分は果たして「事件」のすべてを描いてきたのだろうか。犯人が逮捕され、警察の活動が終わった後でも延々と続く、関係者たちの苦しみを描く必要はないだろうか。そこで『手紙』を書くことにした。焦点を当てたのは加害者の家族だ。(2006年劇場版『手紙』パンフレット)

 経験しなくちゃわからない、という言葉がある——実にもっともだが、何でも本当に経験してみるわけにはいかない。信号機の大切さを分かるために、一回車に轢かれてみる、なんてあり得ないだろう。実際に経験なんてしないほうがいいことは山のようにある。そして、経験しないで済むにこしたことはないが、そのことを知識としてもっておくのは有益、ということも多くある。ここに「物語」が活用される基盤がある。

 1990年代、一世を風靡した田村正和主演の人気ドラマ『古畑任三郎シリーズ』で、歌舞伎俳優「中村右近」(堺正章・演)が殺人犯という回がある(第1シリーズ・第2回放送)。犯行後、すぐに立ち去らず、中村はなんと現場でお茶漬けを食べはじめる。古畑は、すべてを暴き、中村もそれを認めたところで、さすがに不思議に思ってお茶漬けのことを問いただした。すると、今度の演目の中にね、人を殺した後、茶漬けを食うというところがあるんだよ。一体どんな気持ちなのかが知りたくてね——と中村は答える。なるほど……と思ってはいけないのだろうが、その役者魂にちょっとそう思ってしまう。たしかに、経験しなければわからないことはあるが、本当に実体験してしまうなんて、とんでもないこと——。かように、物語はそれを、追体験させてくれる。『古畑任三郎』のこの話は、殺人を犯すという「物語」に、加えて中村右近の振る舞いと発想(「人を殺した後に茶漬けを食うってどんな心境だろう」)ということ自体もまた、物語にいわば閉じられている形で、入れ子のようになっているから、メタ的にもそれを視聴者である我々は知りうる構図になっている。

 「物語」と聞くと文学作品、映画、ドラマをまずは思いうかべるが、そこには、〝あり得るこの世界の一つ〟がパラレルワールドのように広がっている。私たちは、それを様々に受け取っている。ときにそれはエンタメであり、ときにそれは心揺さぶる人生の指針になり、ときにそれは、自分は歩まなかったもうひとつの人生や世界の疑似体験であったりする。そうして、現実の世界の中にも、あちらこちらに「物語」の構造を見出しては、それを通してこの世界を、一つ、また一つと知っていくのである。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

 

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