第20回
日本語の濁音のなぞ
尾山 慎
濁る音から始まることばはもともと、日本語にはほぼない
古代日本語には、頭音法則というのがあって、濁音、ラ行音から始まることばが、ほぼない。現代語でいうと濁音はドジ、ボロ、ベラボウ、ラ行音も龍(りゅう)、落下(らっか)、留守(るす)等々、結構簡単にいくらでもおもいつくが、古代には制限があってそういうことばはなかったらしいのである。ラ行音のほうは、いま上にあげたのは全部音読み語であり、つまり漢語由来である。純粋な日本語となると、一応古代にも「らむ」、「らし」などの助動詞はあるが、これらは付属語、つまり必ず何かのことばにくっつくので、語頭とはみなされない。ということで、尻取りでラ行音が回ってくると往生するのである。子どもの頃、本物を見たこともないのに「ルビー」などと返したものだ(ちなみにこれには「ビール」「ビル」で打ち返すという手があるし、ルならルッコラとか瑠璃とか、ラ行にはラ行で返り討ちにするというのが定石だろう)。
ラ行音から始まる言葉と同じく、「美人」「慈悲」「外国」「義理」など濁りから始まることばもあるのだけれど、これらはやはり全部漢語であって、もともとは日本語ではない。日本最古の歌集『万葉集』を紐とくと、語頭が濁っていて、和語の自立語だといえるものは本当になくて、わずかに「ビシビシ」というのがある。オノマトペ(擬態語、擬音語)で、「鼻ビシビシ」といって、鼻水でずるずるになっている状態をいう。
しはぶかひ 鼻びしびしに 然とあらぬ ひげ掻き撫でて 我を除きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り(巻5・892 山上憶良)
しきりに咳きこみ鼻をぐすぐす鳴らし、ろくすっぽありもしないひげをかき撫でては、おれほどの人物は他にあるまいと力み返ってみるけれど、それでも寒くてやりきれないので、麻ぶとんをひっかぶり(新潮日本古典集成『萬葉集』現代語訳)
もうひとつ、「蜂音」とかいて「ぶ」と読ませる当て字がある。「いぶせし」という形容詞にあてたものだが、「煩わしい」というこのことばの意味にもあっている。これまたオノマトペだが、蜂のあのホバリング音を「ぶ」と写すことがあったということだ。亀井孝氏は、「かなはなぜ濁音専用の字体をもたなかったか——をめぐってかたる」という長い題名の論文の中で、濁音から始まることばを受容できる素地が、古代日本語にもあったと指摘している。つまり、もともと日本語に濁音から始まることばはほぼない、とは言ったが、物の音や様子をいうときに、音を活写(そのまま再現)する形でなら、濁音から始まる語形も数は少ないがあったのだ。外国語である漢語の影響もあっただろうが、それだけで考えることはできない、というのが亀井氏の見立てであった。筆者もおそらくそうだろうと思う。
濁音は不思議な音
「まわらない寿司」という言い方が最近あるが、これは、回転寿司ではないという意味で、ちょっと良いところの寿司屋を指す。もともとは「回転寿司」のほうが、限定した意味合いだった。つまり普通と違ってレーンが回るほう、ということであった。ところが、回転寿司が普及するとこちらがむしろ普通になり、いわばディフォルトになって、元来普通だったはずのほうを「まわらない」とわざわざ冠して特定すべきことになった。こういうのをレトロニムという。ほかにも、
〈担々麺——汁無し担々麺〉
のペアが、逆転して、
〈担々麺(※汁がない方)——汁あり担々麺〉(一部の地域、店舗だともいわれるが)
となる。また、
〈カレー——スープカレー〉
が、
〈カレー(※スープカレーのほうを指す)——ルーカレー〉
というように変化したという。このスープカレーをめぐる組み合わせは、スープカレー発祥地でもある北海道の知り合いに聞いたのだが、やはり地域性があるように思う。少なくとも筆者(大阪在住)のまわりではあまり聞かず、相変わらずカレーと言えばどろっとかけるほうで、スープカレーは「スープ」と前に冠さなくてはならない。
さて、前置きが長くなったが、「回らない寿司」は「すし」、回転寿司は「ずし」となる。スマホでは、ふつう「ずし」では一発では変換されないのではないだろうか(「図示」「厨子」「逗子」あたりがまずは出るはず)。この「〇〇寿司」というのは前をどういれかえようが、自然に「ずし」になる。〇〇と寿司の組み合わせとして初見のことばであってもだ。「黄金寿司」「漁師寿司」「はりきり寿司」——いくらあげても「~ずし」と読みたくなるのは同じだろう。
「えび頼み」——とっさにどう読んだだろうか。「えびだのみ」、つまり濁ったのではないだろうか。「神頼み」みたいなことばだが、多くの方にとってこの不思議なことばは初見に違いない。実は大阪を中心に展開する天丼チェーン店の名称である。店の URL も ebidanomi となっていて、濁るので間違いない。こういうのは自然に濁るようになっていて、専門用語で「連濁」という。
一方で、「鍵/柿/餓鬼」「先/詐欺」「寿司/筋/厨子」はそれぞれ濁音の有無で別語だと区別されており、そもそも、濁音であることがはじめからきまっているようにおもえる。二つの言葉がくっついてできたときの都合で濁音になっているわけではなく、はじめから濁る音を含む言葉として私たちも日々、つかっている。つまり、時と場合によって「鍵」が「かき」になったりする、ということは決してない(ところで「寿司」も、前になにかつけば「ずし」になるが、うしろの「し」は決してかわらないことにお気づきだろうか)。既に濁りが備わっていて、ことばの区別に顕著に役に立っているものと、ことばを組み合わせたときに自然に起きる現象としての濁りがあるのが、日本語の濁音の特徴である。
「山崎」さんはヤマザキ? ヤマサキ?
人名では、濁る濁らないが、おおよそ予想がつくものが多い。「黒田」さんの「田」は大抵クロダさんと濁るし、「門田」さんはカドタさんなら濁らない。実は、連濁には法則があって、複合するときに、後ろの要素にすでに濁音が含まれていると、濁音化しにくい。たとえば春+風は、ハルカゼであって、ガゼにはならない。オオ+トカゲも、ドカゲにはならない。カゼも、トカゲももう濁音がすでに入っているからだ。「回転寿司」の例を挙げたが、たとえば屋台寿司は「ずし」になるが、屋台蕎麦は、決して「ぞば」にはならない。「そば」の「ば」がすでに濁っているからだ、と説明される。なかなか強固なルールで、例外は「縄ばしご」くらいだといわれている。そして、もしかしたら、前の要素に濁音が含まれている場合も連濁をおこしにくいのかもしれない——人名の話しに戻ると、カドタさんは「カド」にすでに濁音があるが、クロダさんのクロは濁っていない。だから「田」の濁る、濁らないがあるのではないか、というわけだ。同じ字を書く「門田」さんも、モンダさんなら濁る(ンの影響もあるとみられるが)。——と、この説明でうまくいきそうな気がするのだが、通販で有名な「タカタ」のように前に濁音がなくても、濁らない場合もあるし、「合田」さんをゴウダと読む場合は、「ゴウ」と濁音が前部要素に既にあるが、田もやはり濁る。
戦国大名の浅井長政は、アサイとアザイと両方説がある。現在も滋賀県で実際にアザイと濁る読みがあるので、アザイナガマサでいいという考えもあるが、先ほども少し触れたように、本来、2音節のことばの2番目は濁らない。たとえば「草」は、「語り草」のように複合すると連濁を起こして「ぐさ」となるが、「くざ」とか「ぐざ」には決してならないというもので、万葉集では当て字に使う場合にもこのルールは徹底されている。たとえば「龍(たつ)」は、当て字でタツ、そして濁るダツに当てられることはあっても、タヅには絶対当てられない。その場合は予め第二音節が濁っている「鶴(タヅ)」が担当する。
「山崎」という名字、筆者もこれまでの人生で何人か知り合いの人がいるが、ヤマサキさんと、ヤマザキさんの両方がいて、きちんと清濁を守って欲しい人と、一応決まっているが人から呼ばれるときは別にどちらでもいい、という人もいた。そのうちの1人、ちゃんとまもってほしい山崎さんは、自己紹介の時にそのようにいわれていたので印象に残っている。「ヤマサキ、濁らないんでヨロシクです」とちょっと茶目っ気があるかんじでいわれたので、筆者も調子に乗って聞いてみた——サキ、と濁らないということですが、病院や役所なんかで「ヤマザキさーん」といわれたらどうします?と。ヤマサキさんは笑いながら「そりゃあ返事しますよ(笑)あ、みなさんも、ザキだと呼びかけを無視するとかはありませんからね」と再び席を沸かせたのであった。ヤマサキさんは、ヤマサキとできれば呼んで欲しいが、かりにヤマザキだといわれても自分のことだと判断するわけであり、それは「ヤマサカさん」とはきっと違うのであろう。さすがにヤマサカさんでは返事しないだろうから、つまりカ~キの違いよりも、サ~ザの違いのほうが、違いがすくないということになる。これは山崎さん当人のみならず、おおよそ他の人だってそう思うのではないだろうか。
外来語のベッド(bed)のドがトになったり、バッグ(bag)がバックになったりする。ベットだと「賭ける」だし、「バック」だと「後ろ」だろう。しかし、文脈でなんとなくやり過ごしていて、そんなに気にしない。特に、バッグはハンド—、クラッチ—、セカンド— のように複合するときはなおさらクになりやすいように思えるが、あまり気にならない。カキ(柿・牡蠣・夏期)とカギ(鍵)、ガキ(餓鬼)のように、文脈があろうがなかろうがまず聞き逃さないし、言い漏らすこともない、はっきりと存在感のある濁音と、〝あまり気にならない、意識に登らない濁音〟とがあることがわかる。
なぞは多い
窪薗晴夫氏によれば、複合する際の意味が、濁音になるかどうかに関わっている可能性があるということだが、しかしそれでも、常に、絶対ではないのだという(『語形成と音韻構造』(くろしお出版、1995))。たとえば「白黒」は「クロ」と濁らないが、これは並列関係にあるため濁らない。一方修飾関係にある「色黒」は「グロ」と濁る。オジロワシは尾が白い鷲なので、オジロのところで強く結びつく。一方モンシロチョウは紋のある白い蝶なので、モン/シロの間で濁らない。なるほどこれだと意味的な点から説明できそうだ。
しかし、会社は「株式会社」「合資会社」のように濁るが、同じ「会」を含む「会長」は何と組み合わせようが、濁らない。「試験」と「試合」も似たカテゴリーのことばだが、前者はどんなことばとセットになっても、決して濁らない(ジケンというと「事件」と衝突するからかもしれないが)。こういったことは、ビシっとこれぞという理由説明がなかなか難しい。
濁ると、減価意識(マイナスイメージ)が働くというのもよく知られていて、ホロホロというと、良い感じに崩れる煮物を思い浮かべるが、ボロボロはあきらかにマイナスだ。トロトロのオムライスは食べたいけれど、ドロドロは勘弁して欲しい。ヒリヒリは我慢できそうだが、ビリビリは厳しい(間にピリピリがある)。
元来、ことばの形と対象との間には、絶対的な根拠はない、というのが言語学では常識的な考え方になっている(ソシュールのいう、言語の恣意性)。たしかに鳥はなぜ「とり」なのか。「とる」でも「とれ」でもなく「とり」である理由は、どうにも追及できない。しかし、オノマトペと呼ばれる擬音語・擬態語は、実際にモノが発する音だったり、泣き声だったり、根拠があるともいえる。たしかに巨石が斜面を落ちる音と、ビー玉が床を転がる音は違うから、納得できるところはあるだろう。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。
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