第21回
法則だけでは測れないこの「世界」(前編)
——振り子の揺れはいつ、どう止まるのか?
尾山 慎
法則性・システムを探す科学探究
コラム第5回で紹介したように、科学はふつう、客観性、再現性を重視する。偶発とか、一回だけ、という現象は重視されず(もちろん重視する領域もある、たとえば世界に数例もない難病の研究など)、繰り返し、法則的にあらわれる現象に対して、仮説をたてたり、実験したりして解析、証明する。これは言語の研究も同じで、文法や音韻の研究などは特にそういった体系性を重視する。それでこそ、イレギュラーを判定もできるというわけだ。
予測といえば、こんな話がある。一時、「〇〇なう」のような言い方が流行ったことがあった(いまも時々見かけるが)。「バイトなう」はnow、つまり〝ただいまバイト中〟という意味であるが、かつて恩師が、この言い回しが実に面白いと言い、日本語は時制――つまり未来「バイトするだろう」か、過去「バイトした」かというのが、ことばの後ろに来るから「〇〇なう」は日本語の理に適っている、と教えてくれた。だから仮に未来でも過去でも、名詞の後ろにおかれるはずだ、と。実際に「なう」にならって平仮名表記にて「バイトわず(=バイトおわった)」やら、「バイトうぃる(=これからバイト)」というのまで現れたから、その予測は正しかった。筆者は「なう」しか知らない段階でその話をきいたので、その予測が「なるほど」と思えたし、事実、そういう表現をみたときに大いに腑に落ちたわけだが、もし仮に、現れないままでも、理論上はそうなる、、というのが納得できる説明だった。科学はエビデンス(証拠)があってこそ、だが、一方「理論上こうなるはず」というのを看破していくのも醍醐味に違いない。
ならば科学は、「未来」をどれくらい予測できるのか。計算や理論でどこまで、「こうなるはず」がわかるのか。坂道の上でボールをちょんと押すだけで転がっていくことを予想はできる。しかし、どこで、どう勢いがなくなってやがて止まるのか、ということをどれほど計算で予測できるのだろう。途中で風が吹いたら?小石にあたって軌道がかわったら?鳥がくわえてまた落としたら?様々な「~かもしれない」——ようは不慮が起きることを考えに入れつつ、未来を、絞り込んで予想するなんて、可能なのだろうか。
科学史の中での、未来予測とその歴史について少し、覗いてみよう。
ラプラスの悪魔
18世紀~19世紀に生きた物理学者、ピエール・シモン・ラプラスは、物質の運動について、最初の位置と初速(運動の始まりの速度)が完璧に、正確にわかるとすれば、その後々どんな動きになっていくかは全部予測できる、つまり、いわば計算であらゆる未来予測ができる、といった。完璧な位置と初速の把握、そして正確無比な計算ができる。そんな知能と教養を持った超人がいるだろうか――。彼の著作から、実際のことばを引いてみよう。
与えられた時点において物質を動かしているすべての力と、その分子の位置や速度をも知っている英知が、なおまたこれらの資料を解析するだけの広大な力をもつならば、(中略)このような英知にとっては、不規則なものは何一つなく、空気や水蒸気のたった一つの分子が描く曲線も、太陽の軌道がわれわれにとってそうであると同じように、確実に規制されてみえるであろう。
(P. S. Laplace『確率論 確率の解析的理論』1812/伊藤清・樋口順四郎氏訳・解説、共立出版、1986、p165より)
少し言い回しが難しいが、先に述べたとおり、最初の時点の正確な情報があれば、それをもとにあらゆるその後の予測をたてて計算し、把握できるはずだ、というのである。ここには「英知」とあるが、他にも「霊」「悪魔」などとも呼ばれた。通称では「ラプラスの悪魔」というのが一番おなじみとなっている。この「英知」とは?——容易に想像がつくのが「神」だろう。「神」とはすなわちこのように、過去現在未来に渡って「全て見通して知っている」ということではないのか。そういう意味では、ラプラスによらなくても、人間ははるか昔からこういう存在を知っていた。あるいはそういう存在を見出していたとみることもできる。
古典物理学の世界で、上のようなことが当時の「科学者」の側から提唱されていたわけだが、後に量子力学が登場してからは、ラプラスの言っているようなことは不可能で、むしろ、神とて全部知ることはできないということになってしまうかもしれないという。
基本的に量子力学以前の物理学は、いわば決定論というようなもので、物体の運動は初期位置と初期速度に従って完全に定まっていると考えられてきた。つまり、最初さえきっちり押さえておけば、あとは全部計算でずっと先々まで予測がつくと考えられていた。ラプラスのいう「英知」もまさにこれに基づくものである。一方、量子力学は、不確定性原理というものを打ち出す(他にもいろいろあるがここでは代表としてあげておく)。不確定性原理によれば、物体の位置と運動量(質量×速度)の両方を定めることはできないので、仮に位置を精度よく定めても、運動量を正確には決定できない(その逆も)。つまり、「ある瞬間における」位置を完璧に把握しても運動量の方がわからないということは、ラプラスのいうような、始発点から、その後の運動を先々まで全部計算でわかるということにならない。だから、「神にも予測はできない」ということになるというのだ。
神様にも予言不能!
大阪市立科学館(大阪市北区)に写真のような装置——「カオティック振り子」なるものがある。
シーソーのようなものが大小3つ連なった装置で、一度触れるとこれがばらばらに動き出す。このコラムでは動画で示すことができないので、ある一瞬の画像だが、注目すべきはその下に書いてあることである。「この回転運動は誰にも予言できない!神様にも、スーパーコンピュータにも。」とある。子供向けメッセージというのもあるのかもしれないが、「神様」と「スーパーコンピュータ」が併記してあるのはちょっと驚きではある。そして、これぞ科学館、という解説だともいえる。
既述の「ラプラスの悪魔」を神と読み替えたとして、その神も、不確定性原理やカオス理論では、予測を付けることができないというような話になってしまうと述べたが、もっともそれは、そもそも神がなんたるかによって意見が分かれるところではある。
たとえばこのカオティック振り子が、スーパーコンピュータでも予測できないというのは、理由を一言で言うと、無限桁を計算できないといけないが、それはムリ、ということによる。現時点では無限の桁数を計算するのは不可能なのだ(今後も不可能である可能性が高い)。カオス理論では、「初期値鋭敏性」というのがあって、最初の位置をどれほど精度よく測っても、ごくわずかな誤差があればそれが後々とんでもない大きさのずれになってしまう可能性があるという。最初のごく小さなズレが後々ものすごく大きな違いになって現れるというのを「バタフライ・エフェクト」という(詳細は後編にて)。
〝小さなズレ〟が後々どのようにどれだけ拡散するかというのは、ありとあらゆる可能性が考えられるので、あらかじめ計算しようにも、たんなる積分では求められない。積分というのは線状的に、綺麗に初期値から積み重ねられていくものだから、予測がつくのである。ところがこれが通用しない。だから、計算するには初期値を寸分たりとも絶対にブレないようにするか、あるいはブレることを織り込んで、どれくらいブレるかという情報がデータとして必要になる。ところが、おおよそ、絶対に、全く、万分の一さえもブレないということはあり得ないので、ブレることは認めるしかない。ではどれぐらいブレるかというと、そこには無限の可能性があるので、ようするに、「無限にブレる」ことになる。ということは初期値が無限にあるということになってしまう。そのような〈無限の初期値〉から発生する〈無限パタンの結果〉を予測することになるので、これは現状、どんなコンピュータを使っても計算は無理というわけだ。カオティック振り子がどんなふうに揺れて、揺れて、いつ、どうやって停止するのか、なるほどスーパーコンピュータでも計算は不可能なのである。
「神様」は、本当のところどうなのだろう?
科学館ではカオスな動きをする〝カオティック振り子〟について、「神」にも予言できないとあるけれども、その「神」が、無限の初期位置を把握でき、その結果の無限にわたる運動量にわたっても全部把握できるなら、やはり、スーパーコンピュータには無理でも「神」にはわかるということにはなる。いやいや、まさに荒唐無稽ではないか?——たしかに。科学としては、ほぼ荒唐無稽だし、実際、想像もつかない。科学者達は言下にありえないというところだろうが、いやだからそれができるのが神なんですよ、という言い方もできてしまうのではないか。屁理屈みたいで「ずるい」と思うだろうか。これぞ、科学と宗教の溝、と考える人は多いかも知れない。
しかし、宗教のほうが無理筋と決まったわけでは、実はないのである。
(後編に続く)
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。
第22回 法則だけでは測れないこの「世界」(後編)——ことばにも不規則があるという前提で考える研究
第20回 日本語の濁音のなぞ