第24回 
「ドラゴンクエスト」
——いにしえのことばに彩られし副題たち 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

RPG

 日本において「ロールプレイングゲーム」——頭文字をとってRPGということば(もちろん、概念も)は、「ドラゴンクエスト」(当時エニックス社——現スクウェア・エニックス社)が広めたといっていい。第一作は1986年発売であった。パッケージイラストやモンスターをはじめとするキャラクターデザインをした漫画家の故・鳥山明氏は、当時〝アールピージー〟なるものがどういうゲームなのかまったくわからないままデザインの依頼を引き受け、出来上がったゲームをプレイしてみて、へぇこういうゲームがあるのかとそこではじめて知ったのだそうだ(『鳥山明 ドラゴンクエストイラストレーションズ』集英社、2016:p 3)。ようするに〝プレイヤーのアバター(ゲーム内でのいわば分身、自分の名前をつけてプレイする人もおおいだろう)が、武器や魔法で魔物、怪物をやっつけて世界秩序を守る〟系ゲームということである。
 ということで、1986年にドラクエはまさに、システムまるごと〝新しい〟ゲームとして日本に現れたのだった。筆者も、ドラクエに夢中の小・中学校時代を過ごし(主にⅠ~ Ⅳ)、いまもドラクエ関係と聞けばついつい、引き寄せられてしまう。
 2017年に11作目が出たから(現時点最新、ただし12作目の予告はすでに出ている)、もう30年以上の歴史があり、親子二代でファンという人も少なくないだろう。派生的な作品も含めればその数はかなりのものになる。筆者も無事に(?)息子にその楽しい世界を伝授したところである。
 シリーズを重ねると、いわゆるナンバリング(何作目か、という数字)が付されることがあるが、そこにはっきりと副題がつくのがドラゴンクエストの特徴である。同じく RPG 系ゲーム(こちらはアクション要素が主)の、モンスターハンターの場合、そもそも必ずしもナンバリングがついておらず、初作「モンスターハンター」の次は「モンスターハンター G 」で、はっきりとナンバリングがついているのは2、3、4あたりまでで、5以降はつけられていない。「モンスターハンター ポータブル」などキャリア名(ゲーム機の種類や様態)のことを添えた文言や、「モンスターハンターワールド:アイスボーン」の「アイスボーン」のように、かなり抽象的に作品内の世界観などを暗示するもの(いわゆるラスボスが、氷系の能力をもったドラゴン)や、さらに抽象化した「モンスターハンターライズ」などとなっている。
 そしてドラクエとの双璧、ファイナルファンタジーシリーズは、ドラクエと同様ローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ~)でナンバリングするというシンプルなものだが、派生作品やシステムを改良したアップデート版では「ファイナルファンタジーXII レヴァナント・ウイング」とか、「ファイナルファンタジーXII ザ ゾディアック エイジ」のように、後ろに付される。この場合も、日本語ではなくあくまで英語系のことば(の片仮名表記)だ。また、XⅢ の続きの、XⅢ-2 なるものもあった。

ドラクエの副題

 ドラクエは、一作目を除き、すべて副題が日本語で付いている。

1986 ドラゴンクエスト
1987 ドラゴンクエストII 悪霊の神々
1988 ドラゴンクエストIII そして伝説へ…
1990 ドラゴンクエストIV 導かれし者たち
1992 ドラゴンクエストV 天空の花嫁
1995 ドラゴンクエストVI 幻の大地
2000 ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち
2004 ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君
2009 ドラゴンクエストIX 星空の守り人
2012 ドラゴンクエストX ※オンラインで下記のように派生シリーズが展開
      ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族
      ドラゴンクエストX 眠れる勇者と導きの盟友
      ドラゴンクエストX いにしえの竜の伝承
      ドラゴンクエストX 5000年の旅路 遥かなる故郷へ
      ドラゴンクエストX いばらの巫女と滅びの神
      ドラゴンクエストX 天星の英雄たち
      ドラゴンクエストX 未来への扉とまどろみの少女
2017 ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて
????  ドラゴンクエストXII 選ばれし運命の炎

 さて、上記リストをみて、お気づきのところはないだろうか。

 戦士や姫、勇者といったゲームのキーワードがでてくるのは当然としても、「IV 導かれし者たち」「VIII 空と海と大地と呪われし姫君」「X 目覚めし五つの種族」「X 眠れる勇者と導きの盟友」 「X 5000年の旅路 遥かなる故郷へ」「XI 過ぎ去りし時を求めて」「XII 選ばれし運命の炎」あたりが、注目される。下線を施したところは、いずれも文語的で、かようにドラクエの副題は、しばしば、言い回しが古めで堅い。また文語とまではいかないかもしれないが、話しことばではまずあらわれない「いにしえ」「まどろみ」なども目に付く。

 だいたいこのゲームは、シリーズ一貫して、おおよその世界観が中世~近世のヨーロッパ風ともいわれる。近時の Ⅺ などではアジアっぽいところも出てくるので、必ずしも西洋風だけではないのだが、たしかに、現実世界の、現代ないし未来系の工業製品(飛行機や、自動車、バイク、またスマホなどの電子系端末類)はゲーム内にまず出てこないので、なんとなく〝数百年前〟というような空気を、我々プレイヤーが了解してその世界に遊んでいるように思う。アスファルトではなくて石畳、コンクリートではなく石造りの街、高層ビルではなくてお城といった具合である。
 町や城からでれば広がるのは草原や平原、森などであり、国道とか高速道路などといったものは走っていない。上司とか、警察官とか、市役所の人ではなく、王様、宰相、将軍、村長、村の老人あたりがキーパーソンで、そこで依頼されるミッションをクリアしていく。こういう世界観と、副題の文語を交えた言い回しがマッチングするところはあるのだろう。

 余談だが、筆者が面白いなとおもうのは、ドラクエの世界でも宗教があって、「神」が信じられているのだ。「神様はいつでも見守ってくださいます」などのことばを教会で神父さんから聞くことができるし、仲間が死んだら教会で生き返らせてもらえる(!)(ちなみに、初期の作品では、パーティが戦いで全滅してしまうと、「死んでしまうとは何事だ!」というとんでもない罵声を王様から浴びせられた。これについては生みの親ともいうべき堀井雄二氏によるゲーム内の名言集がこのままの題ででている。所持金が半分になっているのだが、言い換えれば財産の半分を差し出せば復活できるのであった。制作側からすれば、死んでしまっても怒られてお金が減るだけなので、いつかはクリアできるだろうということだったらしい)。このドラクエ界の神様は、決してモンスターや悪党などの退治には加勢してくれない。勿論自ら討伐にも行かない。目に見えないのであるが、このあたりが非常に現実世界の宗教と重なるところがあって、リアルだとおもう(なお、倒すべき相手として「かみさま」がでてくるシリーズもある——が、これはその、ドラクエ世界の各地の教会で祀られている神様とはちがう)。

 話を戻そう——上に挙げた副題のうち、「選ばれし」と「遙かなる」くらいは、普段の生活で言うかも(耳にするかも)しれない。が、だとしても、そのひと塊での引用、つまりはセリフっぽく感じないだろうか。「ご覧ください!決勝戦に残った、選ばれし者達であります!」といった具合だ。現役で使われているというより、こういう、〝いいまわしの引用〟に近い。
 筆者の息子が通っている小学校は、運動会で、なんと実況ナレーションがつく(最近はどこでもそうなのだろうか?)。聞けば、高学年の放送委員会の児童が担当するそうだが、たとえばリレーでは「白組リード!」「赤組も、負けじと頑張っています!ガンバレ!」とった具合。「負けじと」と古語が入っている。定番のセリフとなっていて、こういうのをタイミング良く放り込んで盛り上げるのである。保護者もあわせて地鳴りのようなウワー!という歓声が上がる中、なかなか小気味よく実況が入れられるから、観戦していて楽しく思ったものだが、それにしてもこの児童たちも、普段から友達との会話で「負けじと」とはおそらく言っていないだろうと思う。仮に言うとしてもその部分だけ、まさにセリフのように用いているとみるべきだろう。従って、現代に生きる古語といっても間違いではないのだが、事実上カギ括弧付きの引用とでもいうのが、実態である。

古語と現代語訳

「遙かなる」はナリ活用の形容動詞である。現代語なら「る」はいらない(「遙かな故郷へ」)、「眠れる勇者」は「眠る」のぜん形「眠れ」に完了・存続をあらわす助動詞「り」の連体形「る」が付いた形。「眠れる勇者」というと、なんだか不可抗力(それこそ呪いとか、魔王の魔力とか)によるものかと思う——「眠れる森の美女」あたりが同時に浮かぶ——が、現代語の「眠っている勇者と導きの盟友」だとどうにも冴えないし、起きろよ寝てる場合かと言いたくなってしまう。
 また、「~し」は過去の助動詞である。だから、現代語の言い回しなら、「IV 導かれ者たち」「VIII 空と海と大地と呪われ姫君」「X 目覚め五つの種族」「XI 過ぎ去っ時を求めて」「XII 選ばれ運命の炎」といったところだろうか。古語では完了・存続をあらわす「~たる」もあって、厳密には、「導かれたる勇者」のほうが、本当は「導かれ」た結果の、その状態の継続というニュアンスがよく出る。その意味においてふさわしいといえばふさわしい——が、「~たる」は、もし訳すならそのままぴったり重なる現代語がなく、結局、過去の助動詞「~し」の現代語訳にもつかう「~た」か、もしくは「~ている」あたりで置き換えるしかない(完了をあらわすなら「てしまった」もあるが、「導かれてしまった勇者」ではあまりにおかしい。導かれちゃダメなのかよとツッコまれそうだ)。「ている」に置き換えた「IV 導かれている者たち」「VIII 空と海と大地と呪われている姫君」「X 目覚めている五つの種族」「XII 選ばれている運命の炎」にしても、やはりどうにも妙である。確かに「呪われている姫君」をなんとかするのであるし、「目覚めている五つの種族」が活躍するのだけど、意味があっていればいいというものではないことがよく分かる。古典文学に施す現代語訳ではしばしばこういう場合があることを、覚えておきたい。
 現代語の「~た」と「~ている」も勿論違う——たとえば「2015年に委員になった」と「2015年に委員になっている」は、違う。「2015年に委員になった」は、2015年の時点でそういうことがあったという事実だけを点(ピンポイント)で指す表現で、もしかすると2020年に任期満了して、もういまは違うかも知れない。一方、「2015年に委員になっている」は、「2020年まで」などと終わりを切っていわない限り自動的に現在も続いていることを示す。現時点までの継続のニュアンスを強調したければ、「2015年から委員になっている」とすれば、よりはっきりする。「ている」は動作の継続とふつう思うが(「走っている」「食べている」)、ある時点での状態や結果が現時点でも継続していることをいいたいときにも使える。これは直前の動詞の種類によって変わる。
 そうすると、現代語でいうなら、「呪われ」より「呪われている姫君」、「選ばれ」より「選ばれている勇者」のほうがより、実態というか意味に即した表現ということになるだろうか。なにせその状態が続いているわけだから。さきほど、「選ばれし」より「選ばれたる」、「呪われし」より「呪われたる」のほうがふさわしいといえばふさわしい、といったのは、そういうことでもあった。

 が、結論からいうと、この副題は、特段「~たる」ではなく「~し」で別にいいのだろうと思う。それはそもそも、ちょっと古い言い回しで、それこそセリフのように「□□、〇〇」が結構、いまの世にも馴染んでいるのでしっくりくる気がする、ということもあるだろう。が、それはいま横に置くとして、過去をあらわす言い回し「し」で、この場合は、多分まかなえると思うのである。 
 現代語「2015年に委員になっ」だけでは、その5年後にやめて現在はもう違うかも知れないと先ほど言った。しかし、〝現在も変わらずそうだ〟という場合だってもちろん有り得る(そもそも、〝そのあとどうなっているか〟には関知しない表現だから)。だから、ドラクエの副題も、ある時点で「導かれ」て、それがいまも続いている、ということを、過去の「~し」でも伝えられる。「呪われし姫君」にしても同様である。「呪われている姫君」に相当する「呪われたる姫君」にしないと、もういまは呪われていないかもしれないじゃないか……という可能性は、この場合まずあり得ない。もう呪われてないなら、そもそも解決してしまっていてゲームの主題にならないわけで、半ば必然的に、いまも呪いは続いている、という前提的理解が同時にあるはずなのだ。そうすると、わざわざ、結果がいままで続いているという「呪われたる」を使うまでもなく、「呪われし」でも意図は伝えられる。

 「~たる」に対して、ぴったりとそのままの現代語訳はなく、「ている」とか「てしまった」といった間に合わせ、さしあたりの表現を、あてている。古典文学作品において、現代語訳というものがやはり便宜的なものだと、これらドラクエの副題が醸す語感の微妙なニュアンスから、かえってよく分かるし、現代語訳すると損なわれてしまう、ということもよく実感できるのではないだろうか。
 古典も是非、原文で味わい、この原語のことばでなければピンとこない、という感覚で、鑑賞したいところだ。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。


第25回 方言のいま・むかし(前編)
第23回 生み出され続ける言語表現