シーズン2 第18回
「刺さる」日本語
尾山 慎

コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。
ことばの「強さ」が意味を拡張、転移させる
「この歌詞、刺さる」という表現は何か変ではないか。いや、変というより、良い意味なのか?悪い意味なのか?——いまや、皆迷わず答えるのではないだろうか。「それは、いい意味だ」と。しかし一方、「口論の最後に彼が吐き捨てたことばが、いまだに心に刺さっている」はどう考えてもネガティブだ。旧来というべきか、こちらの方の表現も、依然として生きている。
もともと「刺さる」は、鋭いものが身体に入り込むことを指す語である。針が刺さる、棘が刺さる、矢が刺さる。そこから比喩的に、「ことばが胸に刺さる」「批判が突き刺さる」といったように意味が拡張し、精神的な痛みや衝撃を表す用法が生まれた。この段階では、たしかにネガティブな含意が強い。しかし、上に例に挙げたように、拡張し、「強く心に響く」というような(この説明も完全に言い当てていない、それこそ「刺さる」でしかいえない意味がある——後述)、どちらかといえば肯定よりの意味でも、ごく自然に使われるようになった。
しかし、ことばは往々にして強い感覚を表す語を、そのまま別の評価領域へとスライドさせることがある。「やばい」が危険の意からスライドして、「すごい」、英語で言う「cool !」のような意へと広がったのは有名だ。「刺さる」も、ポイントは「身体的に深く入り込んでくる」「強く作用する」という感覚にあることには違いない。その〝強さ〟の部分だけが抽出され、「心に強く響く」「自分にぴったり当たる」という意味へと展開していったのだろう。「この歌詞、刺さる」「その一言、めちゃくちゃ刺さった(ありがとう)」と言うとき、それは痛いというより、「自分の内面に的確に届いた」という意味になっている。
単なる肯定でもない
興味深いのは、「この歌詞、刺さる」が単にシンプルな肯定や手放しの賞賛でもない点だ。「刺さる」にはどこか、軽い痛みやズレのなさ、逃げ場のなさ、という意が残っている。だからこそ、「ただ良い」とか「ハマる」などではなく、「図星でぐっとくる」「思わず立ち止まる」といったような独特の含意を担う。単なる「感動した」とも違う、少し鋭く、共感を覚えたという表明ができる表現となっている。
これに類する表現は日本語だけに特有のものではないようだ。英語にも “His words pierced my heart.”(彼のことばは心を貫いた)という言い方があり、「鋭いものが内面に達する」という比喩は共有されている。ただし日常的には “That really hit me.” や “It strikes me.” のように、「当たる」「打つ」といった語のほうが広く使われる。中国語でも「一针见血」(一針で血を見る=核心を突く)や「戳中内心」(内面を突き当てる)など、似た発想が見られる。ただ、日本語の「刺す」ほどに、これほど直接的に肯定的評価語として広く流通するのは珍しいかもしれない。比喩の核としては言語を超えて普遍的でも、それがどこまで日常語として拡張されるかは言語ごとに個別的で、異なる。日本語「刺さる」でいえば、その拡張を比較的大胆に進めているように見られる。
冒頭の、この表現に対する違和感に戻ろう。「刺さる=よいこと」というのは、元来の用法からすれば、反するところがある。そしてそこから、新たな用法の実態をみると、意味の方向というより、その強度からの連想で、価値が拡張、再配置されていくという流れが見えてくる。
置き換え不能性
この肯定寄りの「刺さる」が近時なかなかの定着を見せてきたのは、他のことばでは置き換えきれないところにもあるのではないか。この置き換えが効かないというところをもう少し探ってみよう。たとえば「感動した」「心に響いた」「よかった」「共感した」、いずれも肯定的な評価語である。しかし「刺さる」と完全に言い換えることはできない。これらはどこか、受け取った側の穏やかな反応を表すのに対して、「刺さる」はもう少し強く、しかも局所的で、逃げ場のない作用を表す。
「刺さる」には、自分の中の特定の一点に、ぴたりと当たる感じがある。しかもそれが、やや痛みを伴うほど鋭い。だから「いい話だった」としても、しかもそれが「刺さった」と言うときには、そこに「自分にとって無関係ではいられない何か」が、きっとある。言い換えれば、対象と自分との距離が、ある意味では一気にゼロに近づく感じもそこに含まれているように思う。この、いうなれば距離の消失と強制性が、「刺さる」を他の肯定系の評価語から一線を画するものとしている、いわば語の意味としての独自性になっていると見られる。
加えて、この語が肯定文脈にまで広がっても、依然として身体的比喩を保持している点もやはり重要だ。何度も言うとおり、「刺さる」ということばはどうしても「痛み」を連想する。その強さから、「強く作用する」という感覚として別の評価領域へとスライドした。痛み、強さを引き連れたまま、肯定領域に進出したのだ。だからこそ、単に「よい」というだけでは言い足りない場面で選ばれる。言ってみれば、「刺さる」は評価語というより、作用の仕方を表す語ということになるだろう。良いか悪いかではなく、「どう効いたか」を言うことばということだ。
新しい表現の獲得
人間にとってこうした感覚は最近になって生まれたものなのだろうか。決してそうではないだろう。誰かに言われたことば、本で触れた一節、はっとさせられて、頭から離れない——そういう経験そのものは確実に昔からあったはずだ。しかし、それをぴたりと名指す語が、これほど簡潔な形では出ていなかった、ということになる。
旧来はどう表現していただろう。「ハッとさせられる」「図星を突かれる」「胸にこたえる」「ぐっとくる」「身につまされる」といったような言い方で、この種の経験を表してきた。ただ、当然ながらそれぞれでもお互い微妙に意味が違うし、やはり今言うところの「刺さる」とも違う。「図星を突かれる」は理知的で、「当たっている」ことに重点がある。「胸にこたえる」は持続的な重みや余韻がある。「ぐっとくる」は感情の高まり全体を包むやや広い表現である。それに対して「刺さる」は、一瞬で、一点に、鋭く、逃げ場なく届くという体験の形を、非常にコンパクトに切り出してみせている。ようするに、既存のどれとも違う側面をいうのに、とても便利なのだろう。
ここに表現としての「新しさ」がある。「新しさ」は単に流行語とか新語という意味ではない。既存の経験について、しかし既存の語では言い表しきれなかったある面だけを鋭く切り出してラベル化した意味において新しいのである。ようするに、言いたかったポイントをはっきり言い得る表現を手に入れたのだ。このことばが近頃よく使われ出しているのは、現代ならではの言語環境とも無関係ではないだろう。情報が多く、反応も速い環境では、長く説明するよりも、一語で強度を提示する言い方が好まれる(それ自体良いことがどうかは微妙なところだが)。「刺さる」はまさにそれで、「これは自分に直撃した」という複雑な内面の動きを、一語で提示できる。そういう意味での刺激の強さも、広く受け入れられている理由ではないだろうか。
ところで、「刺さる」はあっても、「刺す」は同じようには使われない。話す側が、「今度の講演会では若者に刺さることばを何か言いたい」とは言えても、「若者を刺すことばを言いたい」とはまず言わない(もし言ったとしたら、これはもう加害のほうの、「傷つける」「糾弾する」みたいな意味にしか聞こえない)。「刺す」は他動詞(自分一人では完結せず、相手(対象)を必要とする動作)であり、主体の行為としての加害性や意図性を強く帯びる。一方「刺さる」は、結果としての作用を受け手の側から捉える語である。だからこそ、「(いい意味で)刺さる」という言い方が成立するのである。
「えぐい」「やばい」と同じく、「刺さる」もまた、強度の高さゆえに否定領域から肯定評価語へと拡張していった。ことばは、「足りないから作る」のではなく、基本的にすでにあるものをどう転成させたり切り出して使うか、ということで更新されていくところがある(シーズン1 第23回 ノイラートの船、参照)。「刺さる」は、その好例であるといえよう。そして、そのことばに違和感を覚える私たちの感覚そのものが、ことばの変化の只中にいることを教えてくれているのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

