シーズン2 第19回 
「絵に描いたような」現実と AI 的思考 
尾山 慎

本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。
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「絵に描いたような」という認知とは

 「絵に描いたような景色」「絵に描いたような幸せ」「お人形さんみたいなかわいい子」。こうした言い方は、日常の中でごく自然に用いられる。美しいもの、整ったもの、典型的なもの、美しく完成されて見えるものに対して、私たちはこのような比喩をあてることがある。しかしここには不思議な「逆転」がある。本来、絵は現実を描いたものである。人形もまた、人間の姿を模したものである。順序としては、現実が先にあり、表象があとに来るのではないのか。景色があり、それを絵が写す。人間がいて、それを人形が模す。現実が先で、表象はその二次的な再現である——と。ところが、「絵に描いたような」と言うとき、私たちは現実を見ているにもかかわらず、その現実を絵という表象の側から理解していることになる。つまり、絵が現実を写すのではなく、現実の方が絵の型に似ているものとして言うわけである。これはなかなか興味深い「逆転」的認知である。
 山があり、川があり、空があり、光が差している。その景色は、本来、その時、その場所、その天候、その見る人の位置によってしか成り立たない一回的な現実であるはずだ。しかし私たちは、それを時として、「絵のようだ」と言う。つまり、その景色を、絵画、写真、観光ポスター、絵本、映画、広告などを通じてすでに知っている「美しい景色」の型へと移している。「お人形さんみたい」とは、人形が「人間の相貌の、相当に整ったもの」であるという点に拠っているのである。たとえば大きな目、きりっとした口元、均整の取れた造形、衣服や姿勢の完成度——。そこには、生身の人間の複雑さをいったん整理し、かわいさや美しさの型としてまとめあげた像がある。景色と同じく、「お人形さんみたい」と言うとき、目の前の人を、単にその人として見ているのではない。「かわいらしさとはこういうものだ」「整った美しさとはこういうものだ」という、すでに出来上がった型を通して見ていることになる。
 あたかも典型が「先」にあり、実態がその典型への合致として理解されるわけである。実はこのことは、新興著しい AI というものを理解するときに、大きなヒントになる

パターン把握、型の整理と AI

 AI が得意としていることは、パターン把握である。膨大なデータの中から、似たものを見つけ、関係を整理し、型を抽出し、それに応じた応答を生成する。ある文章を見れば、「これはこの種の文章である」と「型」を判断する。ある問いを見れば、「これはこの型の問いである」と処理する。ある画像を見れば、「これは以前に学習したこのパターンに近い」と判断する。つまり、AI は「これはあの型だ」という処理を非常に強力に行う装置なのである。
 もっとも、人間の認知こそが、もともとかなりパターン認識的である。私たちは日常の中で、たえず「これは前にも見た」「これはあれに似ている」「これはこの種類だ」「これはこういう展開になりそうだ」と判断している。「フラグがたつ」などという言い方はその典型だ(「そうなりそうな予兆・条件がそろった」という意味。失敗フラグなら、失敗しそうな気配)。つまり、一々完全に未知のものとして世界を見たり把握したりしているわけではない。おおよそ経験、記憶、文化、教育、物語、映像、ことばによって形成された型、既存の型に照らして、現実を理解している(そういう意味では、AI が人間的なのか、人間が AI 的なのかという問いは簡単には分けられないことにはなる)。
 AI という技術は、人間のそういった認知のうち、型を見つけ、整理し、照合し、圧縮する働きを、極端に強化、拡大したものだと言える。人間が昔から行ってきた「これはあの型だ」という判断を、AI は膨大な規模で、しかも超がつく高速で行う。だから AI の判断やことばは、そのスピードや規模をさておくなら、あたかも「とても賢い人間」のように見える(し、それこそを目指して作られたのだろうから当たり前ともいえるが)。文章を書き、要約し、分類し、説明し、比喩を作る。それは、人間が行ってきた認知の一部を、非常に高性能に外部化したものだ。
 一方で、AI が出した見解を見ることによって、私たち人間自身も、実はかなり AI 的に世界を処理していたことに気づかされる。し、ますますそういった認知を推進していくことにもなる。先ほど述べたように、人間は、いつも新鮮に未知のものとして世界を見ているわけではない。かなりの部分を、既存の型への照合で済ませている。「絵に描いたような」「お人形さんみたい」「いかにも学者らしい」「典型的な若者だ」「よくある議論だ」「これは昭和的だ」「これは今風だ」。こうした言い方があること自体、現実を型に入れることをひっきりなしにやっている証である。
 この型への照合は、シンプルに、とても便利である。なぜなら、現実を速く理解できるからだ。しかも人と共有もしやすい。複雑なものを説明しやすい。論文を書くときも、授業をするときも、指導するときも、ある程度は型が必要である。型がなければ、私たちは複雑な現象を前にして、一々戸惑い、行ったり来たりし、またしばしば行き詰まってしまう。そもそも、学術学問は、型なしには成立しない。概念を立て、分類し、時代区分をし、対立軸を設け、モデルを作る。そうすることで、はじめて混沌とした対象が考えられるものになる。したがって、型を持つこと自体は悪ではない。むしろ型は、思考の足場である。問題はそれにどれだけ依存するか、である。あるいは型にはめてそれでよしとしてしまうか、である。

型は便利であるがゆえに危うい

 型があると、私たちは速くわかった気になる。まだ十分に見ていないものを、「これはこのタイプだ」と処理できてしまう。まだことばになっていない違和感を、「例外」「誤差」「周辺的な問題」として片づけることができてしまう。対象そのものと向き合う前に、すでに知っている枠組みへ回収してしまう。AI 時代が急速に発達してきたため、これに危うさを覚える人も少なくないと思う。しかし、懸念は人間が AI を使うことそのものにあるのではない。むしろ、人間がもともと持っていた「早く型に入れて安心したい、さっさと分かりたい」という欲望が、AI によって過度に強化されることにある。AI はすぐに整理してくれる。「論点は三つです」「この文章の要旨はこうです」「この問題はこう分類できます」「この批判点はここです」「この構成で書けます」。それは非常に役に立つ。とんでもなく便利である。だが、その便利さに慣れると、きっと人間は、まだ十分に見ていないもの、まだよくわからないもの、まだことばになっていないものを、早々に既存の型へ収めてすませてしまいがちになる。
 ここで、「AI が出した型をそのまま答えにしてはならない」とだけ言うと、いかにもありふれた AI リテラシーの標語に聞こえることだろう。

最後は人間が責任を持ちましょう。
AI を鵜呑みにしないようにしましょう。
自分の頭で考えましょう。

 もちろん、これらは間違いではない。その通りである。AI の出力を無批判に信じるべきではないし、最終的な判断の責任を人間が負うべきだというのも、その通りである。しかし、それだけでは、問題は「AI の答えを信じすぎないようにしましょう」という実用的なうわべの注意だけになってしまう。本当に考えるべきなのは、AI が出した答えが正しいか間違っているか以前に、AI がどのような型で「現実」を見せているのか、ということである。AI は、ただ答えを返しているのではない。対象を整理し、分類し、論点化し、要約し、説明可能な型に組み替えている。そのとき、AI は現実を中立的に写しているのではなく、現実をある型のもとに見えるものへと作り替えている。あるものを中心に置き、あるものを周辺に退け、あるものを「論点」として浮かび上がらせ、あるものを「例外」「余談」「ノイズ」として沈める。つまり、AI の出力とは、単なる答えではなく、見え方の提案である。

生成 AI に「絵に描いたような富士山の写真を、
描いて」とリクエスト

 「絵に描いたような」と言った瞬間、目の前の景色は、ただの景色ではなく、絵画的な構図として見え始める。「お人形さんみたい」と言った瞬間、目の前の人は、ただの人ではなく、人形的なかわいさや整った造形の型を通して見え始める。それと同じように、AI が「この問題の要点は3つです」「これはこういう構造です」「この文章の論点はここです」と示した瞬間、私たちは対象を、なかば必然的に、その型に沿って見始める。便利だが危ういというのはそういうことだ。

AI 時代の「人としてのあり方」

 まず言っておけば、AI を拒否することがこのコラムの結論ではない。もはや AI は、使うか使わないかという段階を越えている。問題は、どう使うか、どこまで任せるか、どこで立ち止まるか、何を人間の側に残すかである。先述の通り、AI は、型を作る。整理する。要約する。似たものを結びつける。論点を並べる。文章の形を整える。これは大いに利用すればよいと思う。こういった仕事をしてくれる装置がある以上、人間がすべてを一から抱え込む必要はなくなってきているといえる(それはある意味で、洗濯機や掃除機と同じである)。むしろ、型の整理や情報の圧縮をAI に任せることで、人間はより高次の思考に、早々に移ることができる。しかし、そのとき大切なのは、AI が作った型を世界そのものと取り違えないことだと思う。これは、責任論や注意喚起にとどまる話ではない。AI が示す整理は、現実の1つの見方である。しかも、それはしばしば非常に滑らかで、もっともらしく、よく整っている。乱雑な現実よりも、AI が整理した「現実」の方がわかりやすい。曖昧な実態よりも、AI が示した典型の方が扱いやすい。複雑な問題よりも、「論点は3つです」と言われた問題の方が、とても、安心できる。
 だが、当然ながら現実は本来、もっとざらついている。典型にきれいに収まらないものがあまたある。絵に描いたような、であって、本当は絵ではないように。お人形のような、であって、本当に人形ではないように。理想や典型から外れるものがあるはずなのだ。分類の間に落ちるものがあるはずなのだ。ことばにしにくいものがあるはずなのだ。まだ論点化されていない違和感があるはずなのだ。しかし、AI が整理したあとには、そうしたものが、かなり見えにくくなってしまう。あまりにきれいに類型的に分類、説明してくれるから。
 AI と分業していく世界において、人間の仕事は、AI の整理を否定することではなく、その整理の外に何が残っているかを見ることである。AI が「これはこういう問題です」と言ったとき、「その型で見えるものは何か」「その型で見えなくなるものは何か」と問う必要がある。AI が「論点は3つです」と言ったとき、「では4つ目はないのか」「論点にならなかったものはなぜ沈んだのか」と考える必要がある。AI が美しく文章を整えたとき、「整ったことで失われた引っかかりはないか」と見る必要がある。
 繰り返すように、型に入れて理解しようとすることは、自然である。AI を使って整理することも、もはや自然な営みになりつつある。だから、型に入れること自体を否定しても仕方がない。人間は結局、型なしには考えられない。学問もまた、概念や分類やモデルなしには成立しない。ただし、型に入れたあとで、その型を疑うことが必要、いや必須である。
 「絵に描いたような」と思ったとき、なぜ自分はそれを絵のようだと思ったのか。どのような絵を前提にしているのか。その景色を「絵のようだ」と言うことで、何を見落としているのか。「お人形さんみたい」と言ったとき、なぜその人を人形の型で見たのか。どのような美しさを前提にしているのか。そのことばによって、その人の個別性はどう扱われるのか。

 「問い返す力」——それが、AI 時代における人間の知性の課題だろう。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)、『文字の窓 ことばの景色』(花鳥社、2026)。

次回更新は6月15日頃の予定です。

 

シーズン2 第18回 「刺さる」日本語