シーズン2 第25回
ルールは書き尽くせない
——書かれていること、書かれていないこと
尾山 慎
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

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「どこに書いてありますか」
少し前、インターネットでこんな相談を見かけた――繁忙期の新幹線、その人は、自由席が満席だったので、30分ほどトイレに入って座っていたという。そうすると、当然というべきか他の乗客から苦情がでて、結果、車掌さんにかなりキツめに注意されたとのこと。ネット相談の主旨は、その当の、トイレを座席代わりに籠もっていた本人によるもので、「30分間トイレに入ってはいけないという規約があるのでしょうか」とあった。ちょっと驚くような「質問」だが、たとえば本当に腹痛でやむを得ず座り続ける人はどうなるのか?などと言いたいわけだろうか。
ある出来事、殊には揉め事において、「そこに規約があるかないか」、つまりルール等が明文化されているかどうかということについて考えてみよう。まず第一に、「それ(規約・ルール)はどこに書いてあるのか」と根拠を確かめようとする姿勢そのものは、大切ではある。規則の文言を確認することは、一つのリテラシー(情報を正しく読み取り、判断する力)である。しかし、上記の一件の問いの背後にもし、「30分間トイレにこもってはいけない」と JR の規約に書いていない以上、怒られる筋合いはないのではないかなどという考えがあるのだとすれば、危うい。そもそも、社会の中で起こりうることを、あらかじめすべて書き尽くすことなどできないからである(第24回「歴史とはなにか」参照)。
新幹線のトイレは、乗客が用を足すために共同で使う設備である。一人が座席代わりに30分占有すれば、その間、ほかの人は本来の目的で利用できない。そのことについて、文章で「トイレを30分以上占有してはならない」とあらかじめ書かれていなければ分からない、というものでもないだろう。
似た例はいくらでもある。図書館の机に荷物を広げて何席も占有する。混雑した通路の真ん中に立ち止まって長時間話し込む。共用の洗面台を、自分だけの作業場所のように使い続ける。こうした行為のすべてについて、時間や使用可能な面積まで細かく規則に書いておくことはできない(し、その意味もない)。
社会のルールは、「してよいこと」と「してはいけないこと」を一件ずつ書き並べた膨大な一覧表ではない。先に、根拠を探そうとするのはリテラシーの能力と述べたが、それ以上に、すべてが書かれているわけではないことを理解する能力もまた、リテラシーの一部であるだろう。
法律はなぜすべてを書かないのか
規約のみならず法律もまた、世の中で起こりうることをすべて書き尽くしているわけではない。いや、正確には、書き尽くすことなど最初からできない。人がどのような行動をとり、どのような争いが起こるか、その組み合わせはほとんど無限である。「こういう場合は禁止」「この場合も禁止」「ただしこの場合はよい」と、一件ずつ先回りして書いていけば、法律は際限なく長くなる。第一、これで全部のパターンを出し切った、と見切る頃合いも分からない。実際、どれほど事例を考え出したつもりでも、翌日には想定していなかった出来事がまた起こることだろう。だから法律は、個々の出来事をすべて列挙するかわりに、いくつもの出来事をまとめて扱える、少し一般化、抽象化された表現を使う。
たとえば民法の冒頭には、「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」「権利の濫用は、これを許さない」とある。また、契約などの法律行為についても、「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は無効とする」と定めている。
「信義に従い誠実に」「権利の濫用」「善良の風俗」——ことばの意味だけで言えばずいぶん幅のあることばである。しかし、その幅は法律の欠陥なのではない。あらゆる具体例を書き尽くせない以上、ある程度一般化された概念を置き、実際に起きた出来事について、その概念に当てはまるかを考えるほかないのである。
従ってそこで必要になるのが「解釈」である。条文に並んでいる文字だけをただ見るのではなく、その規定は何のためにあるのか、制度全体の中でどういう役割を持つのか、これまでどのように理解されてきたのか、そして現在の社会においてどのように受け止められるのか、といったことまで考える。だから、「私がしたこととまったく同じことは、法律のどこにも書いてありません」という主張は、多くの場合、あまり意味をなさない。法律は、先にも述べたとおり、現実に起こる一件一件を、そのまま文章にして保存しておくものではないからである。
ただ刑罰については少し事情が違う。何をすれば処罰され、どのような刑罰を受けるのかは、あらかじめ法律によって、明確に定められていなければならない。いわゆる罪刑法定主義である。法務省も、処罰の対象となる行為と刑罰をあらかじめ明確に示すルールがなければ、たとえ道徳的に悪い行為であっても刑罰を科すことはできないと説明している。つまり、「書いていないことも全部、社会通念で禁止できる」という話でもないのである。これが難しいところだ。ただ、そのことと、「自分の行為がそのままのことばで書かれていなければ、何をしてもよい」ということとは、やはり別である。
それでも、なぜ細かく書くのか
「すべては書けない」のだから、書くことなど大して意味がない、という話ではない。実際のところ私たちの社会は、重要なことほど、できるだけ文字にして残そうとしている。その典型が契約書である。契約書を読むと、どうしてこんなことまでと感心するほど細かく書いてある。「甲は」「乙は」に始まり、「ただし」「この場合を除く」「次に掲げる場合」「本契約終了後もなお」と続いていく。起こりそうな事態を予想し、そのときどうするのかを、できるだけ先回りして決めておこうとする。
法律上、契約は原則として書面がなければ成立しないというものではない。それでも重要な契約について契約書を作るのは、何を約束したのかを明確にし、「言った」「言わない」という争いを減らし、もし争いになった場合には証拠として残すためである。法務省も、契約書を作成する意義として、契約内容を詳細かつ明確にし、後日の紛争を避けることなどを挙げている。
ここでは、文字はかなり大きな仕事をしている。
人の記憶は曖昧であるし、「そんな意味で言ったのではない」ということも起こる。そこで、その時点で合意したことを文字にし、「少なくともここまでは決めました」という線を引いておく。書かれていることには、やはり重みがある。しかし、あれほど細かな契約書でさえ、未来に起こることをすべて書き尽くすことはできない。予想もしなかった出来事は起こるし、一つの文言について、当事者の理解が食い違うこともある。「この場合はここに含まれるのか」「この『やむを得ない事情』とは何を指すのか」と、結局はまた、書かれたことばをどう読むかという問題が生じる。
法律は、すべてを書けないから、一般化されたことばを使う。契約書は、すべてを書けないと知りながら、それでも可能なかぎり具体的に書こうとする。方向は逆のように見えるが、出発点は同じである。つまり
「世界は、文字によってすべて書き尽くせるほど単純ではない」
ということなのだろう。だからこそ、何をどこまでどれだけ文字にしておくのかが重要になる。そして同時に、書かれた文字だけを見て、「ここに書いてあることが世界のすべてだ」と考えるわけにもいかない。
書かれていることを尊重することと、書かれていないことの存在を知ること。その両方が、文字で成り立つ社会を生きるためには必要なのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)、『文字の窓 ことばの景色』(花鳥社、2026)。

