シーズン2 第26回
夏目漱石の当て字
尾山 慎
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

書き下ろしもあります。詳細はこちら。
直筆が残っている
私たちが書店で手に取る小説には、書き損じも、迷った跡もない。漢字や仮名遣い、句読点まで整えられた活字であって、それが当たり前だから、まるで最初からその形で生まれた文章のように見える。しかし、もちろん、作品には生み出される「過程」がある。夏目漱石は、いまから100年以上前に亡くなった人だが、自筆原稿が相当数残っている。天理大学附属天理図書館には『坊っちゃん』全150枚と『吾輩は猫である』第十章(62枚)の自筆原稿があり、奈良県吉野町の阪本龍門文庫には『それから』963枚が揃う。神奈川近代文学館には「永日小品」「文学論」「道草」「素人と黒人」「文学評論」などの草稿・原稿があり、新宿区立漱石山房記念館も『道草』『明暗』の草稿や「ケーベル先生の告別」「『土』に就て」の原稿を所蔵している。
こうした原稿を見ると、文字を消した跡、書き直した箇所、現在の活字本とは異なる表記がそこここにある、まさに肉筆だ、と実感する。これらについて雑誌掲載や単行本化の段階では、編集者や校正者が文字に手を入れることがままあるわけだが、ということはつまり、活字本に現れた一つの表記を見て、すぐに「これは漱石が考案した」「漱石がこう書いた」と言うわけにはいかない。まず、その表記がどの段階で現れたのか、そして漱石以前には本当に存在しなかったのかを確かめる必要があるのだ。
漱石の当て字は、どれくらい「漱石製」なのか
漱石は当て字で有名ではないだろうか。たとえば『坊っちゃん』には、「胡魔化す」「皺苦茶」「出鱈目」といった、見た目にも愉快な表記が並んでいる。「襯衣」と書いてシャツ、「毛布」と書いてケットと読ませる例もある。ところが、少し遡って調べると、同じような表記は漱石の周囲にすでに存在していた。国木田独歩『酒中日記』(1902)には「胡魔化」の例があり、矢野龍渓には『出鱈目の記』(1905)という書名そのものがある。「襯衣(シャツ)」は1898年の『都新聞』の小説に見え、「毛布(けっと)」は1880年の『読売新聞』にすでに用例がある。『坊っちゃん』は1906年だから、いずれもそれ以前である。
では漱石は、それらを古いところから拾い出して、世の中に広めたということかというと、必ずしもそういうわけでもない。先行例があることと、漱石がそれを「発掘」したこととは別問題だし、漱石によって普及したというなら、それもまた資料で確かめなければならない。
「五月蠅い(うるさい)」も有名だが、筆者は中学生の時、国語の先生にこの表記を教えてもらった。5月頃の蠅がぶんぶん飛び回る情景から、騒がしく、わずらわしいという意味になったのだと聞けば、なるほどと思う。漱石自身も『明暗』で「五月蠅い」という表記を使っている。しかし、これも漱石が作ったわけではない。二葉亭四迷『浮雲』(1887)にはすでに「五月蠅(うるさ)い」があり、樋口一葉『大つごもり』(1894)にも「五月蠅(うるさく)」の例がある。
さらに文字列としての「五月蠅」なら、なんとはるか昔8世紀の『日本書紀』まで遡る。ただし、こちらは「さばえ」と読み、陰暦5月頃(現在の6月頃)に群がり騒ぐ蠅のことをいう。「五月蠅なす」という表現も古くからあり、騒がしく、煩わしいさまを表す。
もちろん、漱石の文章には、いかにも漱石らしく見える文字遣いがいくつもある。しかし、「今のところ他に見つからない」と「漱石が作った」との間には大きな距離がある。当て字の初出を探す作業は面白いが、最古の一例を見つけた瞬間に、その書き手をそのまま発明者にしてしまっていいとは限らない。
「肩こり」を言い始めた人?
「肩こりということばを作ったのは夏目漱石である」という話も、長く語られてきた。根拠としてよく挙げられるのが、『門』(1910)の「頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた」という一節である。しかも漱石は、それより前の1905年、「水たまり」で「肩が凝って面白くない」と書いている。しかし、やはり同じく漱石筆ではあるわけだから、そのためか後世、「漱石が「肩こり」を作った」という俗説の根拠として繰り返し挙げられてきた。
この俗説を実証的に洗い直したのが、岡島昭浩氏の論考「肩がこる」(『国語語彙史の研究』30、2011年)である。岡島氏は、漱石造語説がどのように語られてきたかをたどったうえで、漱石以前の用例を多数提示している。以下の古い例は、岡島氏が同論文で挙げているものによる。安永5年(1776)初演の奈河亀輔『伊賀越乗掛合羽』には「きつう肩が凝って有さふに」「その心遣いで肩も凝る筈」とある。文化14年(1817)頃の式亭三馬『四十八癖』にも「肩が張って凝ってわるい」とある。漱石より90年以上前である。
重要なのは、江戸時代に古い例がぽつんと一つだけあるだけではないことだ。結構使われている。岡島氏は、明治期についても、成島柳北、幸田露伴、尾崎紅葉、大橋乙羽、樋口一葉など、漱石以外の書き手による例を数多く挙げている。岡島氏自身、江戸期だけでなく明治期の例を多く示した理由を、古くはあったが埋もれていた表現に漱石が光を当てた、という見方を退けるためだと述べている。これは重要だ。「漱石が最初ではなかった」だけではなく、「漱石が再発見して広めた」とするのにも根拠が要る。少なくとも「肩がこる」は、漱石作でもなければ、漱石によって突然よみがえった表現でもない。
漱石以前の例が一つ見つかれば、「漱石が最初だった」という説は否定できる。ところが、最も古い例を一つ見つけても、その人が発明者だとは証明できない。さらに古い例が、まだ見つかっていないだけかもしれないからである。初出調査は、否定には強いが、創始者の認定には弱い。しかも、「最初ではないが、広めた人ではある」という話でさえ、別の証拠が必要なのである。
創始を仮託される「巨人」
「それを最初に作った人」を知りたくなるのは人情というものだ。長い時間をかけて少しずつ成立したものより、ある天才が一夜にして発明した物語のほうが分かりやすく、覚えやすい。その代表が仮名である。かつては、平仮名を作ったのは弘法大師、すなわち空海だと広く信じられていた。空海はいろは歌の作者ともされた。しかし、いろは歌の成立は空海の時代より後であり、平仮名も一人の発明品ではない。当時の人々が漢字を草書化して書く実践の積み重ねの中から、しだいに形作られていった。
片仮名についても、かつて吉備真備が作ったという説が広く信じられていた。しかし実際には、漢文を日本語として読むための注記などで、漢字の一部分を取り出して使う実践から、しだいに成立したと考えられている。空海も吉備真備も、学問や文字文化を象徴するには申し分のない「知の巨人」だったからこそ、長い時間の中で多くの人々が重ねた工夫が、後世、こうしたある一人の名前に集約されて語られたのである。
漱石についても、同じことが起きているのではないか。「漱石が使った」という事実から、「漱石によって有名になった」、さらに「漱石が作った」へと、いつの間にか話が進んでしまう。しかし、この三つは別々の主張である。とくに真ん中の「漱石によって有名になった」も、もっともらしいからといって証明されたことにはならない。むしろ私たちの側が、当時の新聞や小説や日常のことばに散らばっていた無数の用例を見ず、今も読み継がれている有名作家の一例だけを大きく見てしまう。その結果、歴史の起点が、後から漱石のところへ引き寄せられるのである。
ことばや文字の歴史は、一人の天才が次々と新しいものを発明する歴史ではない。多くの人が書き、読み、まねをし、少しずつ変え、ときには同じ工夫を別々の場所でする。その厚い層の上に、たまたま後世までよく見える名前が残る。だから、巨人の肩に何もかも載せると、その足元にいた大勢の人が見えなくなってしまう——し、それでは、巨人の肩もこることだろう。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)、『文字の窓 ことばの景色』(花鳥社、2026)。

