学界展望 日本語の歴史的研究 2026年1月〜6月
(川島 拓馬)
目次
2.事実を記述する、または発見する
研究活動においては、何らかの(日本語史の場合は過去の日本語についての)事実を提示する必要があると思われる。それだけでは十全とは言えないかもしれないが、少なくともあやふやな事実認識を基に意味のある主張を行うことは難しいだろう。しかし、事実をそれと認めることもまた、難題ではないだろうか。以下ではそうした険しい道のりに挑み、適切に事実を提示しようとする研究を見ていきたい。また、その結果として今まで知られていなかった事実が明らかになることも有意義であり、そのような成果についても触れていく。
このトピックを掲げるからには、まず辻本桜介『古代日本語引用助詞の研究』(和泉書院、2月)*を取り上げなければならない。本書は引用助詞「と」および「と」を構成要素とする複合辞について論じたものであり、内容の充実ぶりには目を見張る。著者は自らの研究スタイルについて「力技に頼る」「素朴な作業」と述べているが、それを数多くの言語現象に対して着実に適用させることは容易ではない。まさしく記述的研究の極致と言うべき成果であろう。本書は引用というテーマを扱っているが、テーマが大きいか小さいかは最初から決まっているのではなく、それに向き合う研究者の持つ視野の広さ、見識の深さに依るものだと実感した。辻本氏には「数量詞に付く古代語の「して」について」(『人文論究』76-1、6月)*もあり、証拠を着実に積み上げることで「して」に対する解像度の高い用法記述を行っている。
「枝もたわわに」のような表現を取り上げた小池俊希「「XモYニ」節における助詞モの機能」(『国語と国文学』103-6、6月)*では、先行説を踏まえた上で助詞「も」の性格について丁寧に検討が行われている。小池氏には同じテーマを扱った「古代語における「XモYニ」節の衰退」(『日本語学論集』22、3月)*もあり、併せて読んでおきたい。中古における「XモYニ」節の用例数は非常に少ないが、それでも論じられる点は多々あり、教えられるところが大きかった。両論文とも、助詞「も」にとどまらず副詞的修飾の歴史を考える上でも重要な研究だと思われる。
敬語に関しては、山口響史「受身+謙譲の変遷—衰退期及び衰退後の様相についての検討—」(『国語国文学報』84、3月)*が興味深かった。「受身+謙譲」の表現を取り上げて謙譲語の変遷を描き出したものであり、敬語(特に謙譲語)の歴史を考える上で有用なデータを提示している。特定の表現パターンを取り上げた論考であるものの、そこから示唆される研究の射程が大きく広がっているところに意義が認められよう。
表記史に関しても盛んに研究が試みられている。近世期の平仮名字体については、市地英「元禄七年版『商売往来』の振り仮名における平仮名字体について」(『語文』124・125、2月)*、および「享保七年『官刻六諭衍義大意』の平仮名字体」(『弘前大学国語国文学』46、3月)*があった。前者からは往来物の想定される読者層やその漢字習得のさまを窺え、後者からは官刻本が実用・必須以上の平仮名字体を交えた表記であることが明らかとなる。平仮名字体を調査することで、当該資料の特徴が浮かび上がってくる点が重要である。
坂上優太「古活字版の連綿活字小考」(『名古屋言語研究』20、3月)*は、連綿活字の使われ方について、使用率がどのくらいか、何文字目に使われるか、どの文字か、といった観点を立てて綿密な調査を行ったもの。仮名字体の運用を追究する上での基礎的な知見として有用であろう。
藤本能史「近代活版印刷資料における外来語に付される傍線と振り仮名の関係について—『西国立志編』を中心に—」(『語文』124・125、2月)*は、明治初期の資料における外来語を表記する際の工夫について論じたもの。傍線と振り仮名の使用傾向が合理的なものであったことがよく分かる。
田野村忠温「書記法における東西混合—様式の多様性、原理、変遷—」(『阪大日本語研究』38、2月)*は、日本および中国の資料において、日本語あるいは中国語と西洋の言語を同一の版面に共存させる際の書字の様式について分析を行っている。非常に面白いテーマであり、挙げられている事例も興味深いものばかりである。様々な書記法が用いられていたことに加え、その相互関係を整理・検討することで見えてくる知見も注目すべきである。
資料に対する認識を再考させるような指摘もあった。白井純「定訓論再考—落葉集と『日本国語大辞典』—」(『訓点語と訓点資料』156、3月)*は、『落葉集』掲載の漢字を『日本国語大辞典』の「古辞書」欄と照らし合わせ、その表記について検討したもの。『落葉集』はほとんどの漢字に和訓が付されている点が特徴だが、それが本当に常用的な和訓なのかという問題意識に端を発した研究であり、常用性が低く強制的に付与されたと思しき和訓も存在するという、重要な成果が示されている。
新語の成立についても興味深い成果があった。谷口悠「「完食」の語史」(『論究日本近代語 第4集』勉誠社、3月)*は、「完食」について専門用語と俗語とに分けた上で、使用例を分かりやすく整理する。用法の変遷を探るにあたって、使用場面や社会状況との関わりをめぐる言及が印象的である。橋本行洋「「食材」の成立と展開」(『論究日本近代語 第4集』勉誠社、3月)*も「食材」の成立過程を丹念に追っているが、略語であった表現が「-材」という形態素を生んだという語形成史の流れとして描こうとする点に注目したい。
日本語学史についても重要な指摘が見られた。山田昇平「賀茂真淵の濁音化観—「音便濁」から「言便の濁」へ—」(『語文』124・125、2月)*は、日本語の濁音化に対して賀茂真淵が「言便」という術語を用いるに至った経緯を検討したもの。真淵の学問体系に照らして濁音化に対する捉え方を描き出す点は周到な考察であり、興味深く読んだ。
河野光将「術語としての「むすび」の成立—宣長以前と宣長の比較を通じて—」(『語文』124・125、2月)*は、係り結びの終止に対してどのような術語が用いられていたかを学史的に検討するもの。宣長以前に多く用いられていた「とまり」から「むすび」へと移行していく過程が実証的に示され、学ぶところが多かった。

