「軍記物語講座」によせて(4) 
渡邉裕美子「みちのくの歌—白河関までの距離感—」

『軍記物語講座』(全4巻)刊行に先立ち、軍記物語研究にまつわる文章を随時掲載。第4回は、立正大学文学部教授の渡邉裕美子氏です。東国武士たちは和歌のもつ政教性をどのように利用したのか、中央貴族の作り上げた幻想と現地を知る武士の間に生じる名所イメージのずれなど、和歌史のひとつの転換点がみえてきます。


みちのくの歌白河関までの距離感—

渡邉裕美子 

1. 異郷の地への入口
 「みちのく」と聞いて、現代の人々が思い浮かべるのはどこだろう。そう言えば、ずいぶん前に「みちのくひとり旅」(作詞・市場馨)という演歌が流行ったことがあったと思いだして、調べてみると(今はこういうことがWEB検索すれば瞬時にわかる)、歌詞に「月の松島 しぐれの白河」とあるではないか。松島は宮城県、白河は福島県だから、おおよそ東北地方と考えられているのだろう。

 「みちのく」は、古代には蝦夷が支配していたが、ヤマトが徐々に北に勢力を広げ、八世紀の大化改新後、白河以北を道奥(みちのおく)国とし、それが変化して「みちのく」となり、「陸奥」の字を宛てるようになった。「むつ」と読まれることもある。平安時代末に奥州藤原氏が支配していたころには、現在の福島から、宮城、山形、岩手、秋田、青森にまで及ぶ広大な地域を指した。現代の「みちのく」理解も、そこから大きくはずれていないということになる。

 現代と異なるのは、古代や中世を生きていた都人からすれば、陸奥はやはり〈異郷の地〉で、入口がはっきり意識されていることだろう。「白河関」がその入口である。ただし、平安時代中頃にはすでに関としての機能は失われている。鎌倉時代に浄土宗を開いた法然の高弟である証空上人が陸奥に下ったとき、案内していた蓮生法師に「白河関はどこか」と尋ねたところ、「先ほど通り過ぎたところです」と言われてしまっている(新千載集)。このころには、うっかり通り過ぎてしまうくらい、何の変哲も無い街道の風景が広がっていたのだと思われる。


白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

2. 名所としての白河関
 それでも、証空が白河関がどこかと気にかけたのは、依然として白河関が陸奥の入口を象徴的に表す場所だったからである。それは近世になっても変わらない。芭蕉の『奥の細道』冒頭には、陸奥への憧れが「白河の関を越えたい」と表現されている。ちなみに、同じ冒頭部分には「松島の月がまず心に掛かって」ともある。あの演歌の「みちのくひとり旅」が「白河」と「松島」という地名を出していたのは、これによるのかもしれない。

 ところで、芭蕉が越えることを夢見た「白河関」付近は、近世には街道筋が変わってしまっていた。『奥の細道』はそのことに触れないが、同行した弟子の曾良の日記によると、芭蕉は関付近に到着すると、わざわざ街道筋をはずれた古関を尋ねている。「白河関」が陸奥の入口として重要なのは、実際に交通の要衝であったというだけでなく、そこが古来、歌に詠まれてきた著名な名所であるからだ。芭蕉は、古人の歌に浸り、数百年にわたる歴史に思いを馳せるには、やはり古関でなければ、と考えたに相違ない。


古関蹟碑……『奥の細道』刊行から約100年後、白河藩主の松平定信が建立。

 芭蕉が白河関を訪れた際の叙述で引用するのは、次の平兼盛の歌である。

  便りあらばいかで都へ告げやらん今日白河の関は越えぬと (拾遺集)

 都に消息を伝えるつてがあるならば、今日、白河関を越えたとなんとかして伝えたい、というのだ。この歌は、実は白河関を描いた屏風絵に添える歌だった可能性があるのだが、『拾遺集』では実際に白河関を越えたときに詠んだということになっている。古代の都人にとって陸奥はまさに「みちのおく」―最果ての地のそのまた先である。特別な事情がない限り、実際に白河関を越える貴族など皆無に等しい。関を越えることには現代では想像できないくらいの重みがあった。

 さらに、この〈僻遠の地〉への入口という白河関のイメージを決定づけたのが、

  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 (後拾遺集)

という能因の歌である。都を旅立ったのは春霞が立つころだったのに、いま、白河の関には秋風が吹いている。能因は実際に白河の地に立ってこの歌を詠んだようだ。都を包む春霞と秋風が吹き渡る白河関の対照が鮮やかだ。五行思想で秋が白に結びつくことも織り込まれている。しかし、当時にあっても、これはいくらなんでも時間が掛かり過ぎと思われたのだろう。数寄人〈すきびと〉の能因は、人知れず籠もって日に当たって肌を黒く焼き、陸奥へ旅したかのように偽装して、この歌を披露したのだ、という説話が生まれた。能因の歌がそもそも印象鮮明である上に、説話の面白さも相俟って、この歌は広く人口に膾炙した。

3. 「みちのく」への幻想
  鎌倉時代初め、後鳥羽院は建立した最勝四天王院の障子(現代の襖)に日本全国の名所を描かせた。その選定を命じられた藤原定家は、陸奥は「幽玄」の名所が多くて捨てがたい、と日記『明月記』に記している。当時、歌に詠まれた名所を国別に数えると、陸奥は山城・大和に次ぎ、摂津と肩を並べるほど多い。「幽玄」とは、遙か彼方にある異郷、都人には見ることのかなわぬ地、でもだからこそ惹かれる、そんな陸奥に対する憧れと畏怖のない交ぜになった気持ちを表しているのだろう。

 平安末に陸奥守だった橘為仲が任果てて上京した際、宮城野の萩を掘り取って長櫃十二合(!)に入れて都に持ち帰った。二条大路を渡る為仲一行を都人が市をなして見物したと鴨長明が伝えている(無名抄)。萩は都にももちろんあるが、歌に詠まれてきた陸奥の「宮城野の萩」は特別なのである。

 その一方で、陸奥は、たとえば光孝天皇の玄孫であった兼盛や、左大臣藤原師尹〈もろただ〉の孫でありながら陸奥で客死した実方のように、貴種でありながら流離を余儀なくされた(と考えられた)者たちがさすらう地でもある。陸奥には孤独感、悲愁感がまとわりつく(貴種ではないが、傷心の男が陸奥にさすらって行く演歌は、実は伝統的イメージに忠実だ)。その入口にあたる白河関を、武家歌人の先駆けとなる源頼政は、

  都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関 (千載集)

と詠んだ。これは「関路落葉」という題で詠まれた歌で、実地の歌ではない。一読して気がつくように、頼政は自身の歌が鑑賞される際、能因の歌が想起されることを意図している。白河関は、都から旅すれば季節がすっかり変わってしまうほど遙か彼方にあり、異郷へ足を踏み入れる前に立ち止まって、これまでの旅程に思いを馳せる名所というイメージが確立していた。

4. 東国武士歌壇の誕生
  さて、鎌倉幕府が成立すると、東国武士たちも歌を詠むようになる。単に貴族的な雅びな文化への憧れからではない。将軍の頼朝や実朝、そして宗尊〈むねたか〉親王が、和歌の政教性をよく理解し、自ら歌を詠んだことが大きい。鎌倉に歌壇が成立するだけでなく、地方都市として栄えた下野国宇都宮にまで歌壇が形成された。

 証空の案内者として名が出てきた蓮生は、鎌倉幕府の有力御家人で宇都宮氏当主(俗名は頼綱)だったのだが、平賀朝雅の乱に加担したと疑われて出家。浄土教に帰依し、証空の弟子になった。また、娘と定家の息子為家を結婚させて、都の歌道家と縁戚関係を結び、和歌に親しんだ。あの『百人一首』の成立に絡むことでも知られる。蓮生は宇都宮神宮寺―この寺は大武士団である宇都宮一族の紐帯の象徴だった―を荘厳する障子に添える歌を定家と藤原家隆に依頼するなど、さまざまな和歌活動を行なった。

 そうした蓮生の活動が契機となって、一族や周辺地域の武士を構成員とした歌壇が宇都宮に形成されたのである。一族は宇都宮社の神職を兼ねており、神官のトップでもある当主を中心に、さまざまな宗教行事を行なうことで結束を強めているが、歌壇活動もまた武士団の結束を固める上で有効に働いた。


従二位の杉……陸奥には下ったことのない家隆お手植えという伝承を持つ杉。白河関跡の入口近くに立つ。樹齢約800年。

 三代将軍実朝が定家を指導者と仰ぎ、多くの歌書を入手していたことを知る人は多いだろう。宇都宮氏の当主を蓮生から引き継いだ息子の泰綱も、為家の大きな影響下に歌を詠んでいる。さらに、東国武士たちは都から流入する書物によって歌を学ぶだけでなく、都から下ってきて関東で活路を見出そうとした後鳥羽院旧臣など、歌を詠む素養のある者に日常的に歌の手ほどきを受けている。

 名所をいかに詠むかということは、歌論書の類が必ずと言ってよいほど取り上げているように、初心者が歌を学修する際の重要なトピックである。名所は、歌の伝統の中で形成された本意〈ほい〉、つまり共有されている約束事を理解して詠むことが求められ、勝手に詠むことはできない。室町時代の歌僧正徹は、「桜を詠むのなら吉野山」と知っていることが大切で、それがどこの国かなどという知識は二の次だと語っている(正徹物語)。それほど名所の本意は重要なのである。そうは言っても、都人にとって遠い遠い異郷である陸奥、その入口の白河関は、鎌倉からさほど遠くない。東国武士たちは白河関をどう歌っているのだろうか。

5. 「白河関」イメージのずれ
 文治五年(一一八九)七月十九日、頼朝は奥州合戦のため鎌倉から出陣した。鎌倉を脅かす奥州藤原氏を滅ぼすとともに、頼朝自身がさまざまな勢力を率いて闘うことで御家人制の確立を目指したのである。軍勢は三手に分けられ、頼朝は大手軍として中路を下向し、奥州に向かった。その軍勢には宇都宮氏の朝綱(蓮生祖父)、業綱(蓮生父)も加わっている。二十五日に宇都宮社に奉幣して戦勝祈願し、二十九日に白河関を越えた。その際、頼朝は梶原景季を召して、「今は初秋の季節である。能因法師の故事を思い出さないか」と語りかけている。景季は馬を止めて、

  秋風に草木の露を払はせて君が越ゆれば関守もなし

と詠んだという(吾妻鏡)。

 頼朝は「能因法師の故事」と言っているから、説話も含めての問いかけなのだろう。能因の歌の「秋風ぞ吹く」は、都から遙か彼方にある異郷の入口の蕭条たる風景をかたどっている。景季は、それを大軍を率いて、刃向かう勢力を討つために北上する頼朝の先払いの風と捉え直した。さらに、関守もいないと詠むことで、この戦いに何の障碍もないことを示して、言祝ぎ〈ことほぎ〉の歌としている。そもそも鎌倉から白河関までわずか十日。都とは、距離感がまったく異なるだけでなく、頼朝は貴種流離よろしく一人寂しくさすらって行くわけではない。
 こうした詠み方は、奥州出兵という特殊な状況だから、というわけではなさそうである。宇都宮歌壇の歌は『新和歌集』という私撰集にまとめられているが、白河関を詠む歌は、神祇部に収められた次の二首しかない。

  白河の関のあるじの宮柱誰が世に立てし誓ひなるらむ (為家)

  白河の関もる神も心あらば我が思ふことの末とほさなむ (有尊法師)

 一首は、都から宇都宮に下ってきた為家が、そのついでに白河関を尋ねて、関の明神が創建された昔に思いを馳せる歌。もう一首は、宇都宮歌壇の僧侶が神の恵みを願う歌である。いずれも伝統的な白河関の歌の詠み方とは異なる。

 為家はもちろん、有尊も歌集編纂者も名所の詠み方に無知なわけではなかろう。そもそも『新和歌集』の陸奥の歌は、数としてはそれほど多くない。むしろ大和や山城の名所が多く取り上げられており、特に四季の歌にこの傾向が強い。蓮生は、定家と家隆に歌を依頼した神宮寺の障子に、大和国の名所ばかり描かせている。そんなふうに、逆に和歌の伝統的な風景への東国人たちの憧れがあるのだろう。ただし、理由はそればかりではあるまい。陸奥の名所は、都人の作り上げた幻想のイメージである本意と実際がずれる可能性がある。なまじ現地を知っているだけに、そんな陸奥より「吉野山の桜」などのほうが詠みやすかったという事情もあるのではないか。

 泰綱の息子で当主を継いだ景綱(出家して蓮瑜)には次のような歌がある。

    下野にて題を探りて詠み侍りし
  秋風にうつる日かずもなかりけり我がさと近き白河の関 (蓮瑜集)

 地元下野で籤引きのような形で題を引き当てる探題歌会が開かれた。蓮瑜の引いた題は「白河関」だったのだろうか。白河関は宇都宮から八十キロあまり。下野国と陸奥国の国境に当たるのだから、〈僻遠の地〉であろうはずがない。為家が宇都宮に下向したついでに訪れようと考えるほど近い。能因の故事ならもちろん知っている、そうは言ってもねえ、と苦笑いする蓮瑜の顔が見えそうである。こうしたことは東国武士たちが歌を詠もうとすれば、いくらでも起こりえる。和歌史は曲がり角を迎えていた。


白河神社……為家が歌に詠んだ関の明神。奥州合戦の際、頼朝も奉幣している。いまは関跡の木立の中にひっそりとたたずむ。


渡邉 裕美子(わたなべ・ゆみこ)
1961年生。
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程退学。博士(文学)。
立正大学教授。
著書に、『コレクション日本歌人選 藤原俊成』(笠間書院、2018年)、『歌が権力の象徴になるとき─屏風歌・障子歌の世界─』(角川学芸出版、2011年)、『新古今時代の表現方法』(笠間書院、2010年)など。


松尾葦江編「軍記物語講座」全4巻

  第1巻『武者の世が始まる』      2019年12月刊予定

  第2巻『無常の鐘声―平家物語』   2020年 5月刊予定

  第3巻『平和の世は来るか―太平記』 2019年10月刊予定

  第4巻『乱世を語りつぐ』      2020年 3月刊予定

   *各巻仮題・価格未定。


軍記物語講座によせて
  3. 石川透「軍記物語とその絵画化」
  2. 長坂成行「『太平記』書写流伝関係未詳人物抄」
  1. 村上學「国文学研究が肉体労働であったころ」