第8回 
釈迦の「言葉」と「悟り」 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

わからないものはわかりません

 筆者は実家が寺で、コラム第3回で触れたように、20代の半ば頃、京都にある総本山仁和寺(真言宗)で1年間いわゆる〝修行〟をした(ちなみに、よく尋ねられるのだが、滝には打たれていない。というのも仁和寺には滝がない。なくてよかったと修行仲間とよく言い合ったものだ)。
 大学でいうところの一般教養のような授業もあって、そこで真言宗系の大学の先生(僧侶)が講師として来られる。初回だったとおもうが、挨拶と自己紹介をされた後、「じゃあ、ちょっと定番のやりとりをしようか」といきなり切り出された。「??定番のやりとり??」筆者は宗教に関係しない公立大学出身で、それまでそういう仏教専門の授業を受けたことがなかったので、全く見当が付かず、思わず緊張が走って身構えた。が、幸いにも隣に座っていたその先生の教え子でもある仏教系大学出身の同期生が指名された(教え子を当てることで「定番」を皆に見せるという狙いだったようだ)。
 先生曰く「さとりとは何ですか?」。同期生はなんと、こともなげにまっすぐに先生を見据えてはきはきと即答するではないか——「わかりません」。「えっ」筆者は思わず彼の顔を横目で見てしまった。先生は意外そうな顔も不満げな顔もせず、やはりすぐさま問い返す。「なぜわからないのですか?」——同期生「私はまだ悟っていないからです」。先生「はい、OK」。……ん?なにこのやりとりは?とちょっと呆気にとられてしまった。ものの十秒も掛かっていない。

 「悟り」は仏教のいわば最終目標だ。つまり、仏になることである。仏とは悟った人をいう(だから、逆に言えば仏は全員もと人間である。厳密には真言宗の大日如来は除く)。それが一体どんな状態なのか。それは仏になってみないとわからないというわけだ。なんだか身も蓋もないような応答に思えたが、よくよく考えるとなるほどそういうしかないと分かった。
 釈迦は様々な苦行をも経験して、35歳の時に悟るのだが、その自身の境地を、果たして人に伝えていいものか、いや、人にきちんと伝えうるものだろうかと躊躇した。ことばで伝えても、それは自分の悟りそれそのものではないからだ。悟りを得た自分1人だけでその世界に遊ぶ、という選択肢もあり得た。しかしこのとき、梵天という仏があらわれて、それでもあなたは教えを広めるべきだと勧めたという説話が残っている(これを「梵天かんじょう」と呼ぶ)。

永遠なんてないし、ことばは記号にすぎない

 仏教は、世界宗教といわれるが、他の、少なくともキリスト教・イスラム教(かつて三大宗教ともいわれたが、近年は、信仰者の数からして、ヒンズー教も含められることが多い。それからキリスト教・イスラム教のもとにもなったユダヤ教も含めて、五大宗教とも)の各世界宗教と少し趣が異なる点が2つある。
 ひとつは、仏教は永続・普遍性を認めないということである。諸行無常ということばが表すように、永遠はなく、すべて移りゆき、すべてはいずれ滅すると考える。キリスト教、イスラム教の神は、無始永遠(はじまりもおわりもない、時間から超越している)だから、これはかなり対照的な価値観だ。ちなみに、天地創世から最後の審判に向かって時間は流れているとも見なせるが、それは人間たちにとってであって、神はそこから超越している。超越しているから、天地創世の前だとか、最後の審判の後とかいう概念も、神においては、ないことになる。
 それからこれは有名な話だが、仏教はインド発ゆえに「無」=ゼロも認める。この世のすべては神の被造物(神によって作られたもの)と考える世界では仏教がいう本当になにもない〝無〟はあり得ない(ただし、仏教の〝無〟とは何にでもなりうる、ということでもあるのだが)。そして、仏教自身もまた、いつか滅んでなくなるというのだ。自らそういってしまうところが面白い。 

 もうひとつはことばを記号だと割り切っていることが、明らかである点。もちろん、梵字やマントラなど、神聖で、いかにも宗教らしいことばや文字への尊崇はあるし、そもそも釈迦のことば(お経)だってありがたがるものだ。しかし一方で、布教や教義理解のためのことばとはあくまで手段であり、記号であって、真理そのものではないと、根本では考えてもいる。
 ことばが記号だというなら、これは近代言語学の父ともいわれるフェルディナン=ド=ソシュールと大変話が合うところだろうと思う。上にのべた釈迦が布教するにあたっての懸念(真理が伝わるだろうか?という心配)も、記号としてのことばというものへの警戒ということに尽きる。ことばで分かった気になる、それどころかことばのせいで誤解するといったリスクが常にあるからだ。中島敦の小説『文字禍』の中で、文字(ことば)とその対象自体との関係を混同してしまうことを、「獅子狩りと獅子狩りの浮き彫りとを混同する」という見事なたとえが述べられている(『文字禍』の詳細は『日本語の文字と表記』p148参照)が、仏教は、「混同」することなく、悟りとそれを語ることばとを、常にストイックに区別してもいる。

 ただ、そのことばなるものへの懸念からは分かれ道がある。ひとつは、じゃあもうそんな危ういことばなどという手段を使うのはやめるという道。もうひとつはことばを尽くして、長くなろうが繰り返しになろうが、ひたすら語り続けるという道。仏教は後者を選んだ。ことばで語って語って語り尽くす方を選んだのだった。経典類の、あの尋常ならざる数、まさに大海のごとき分量である。仏教は、とにかくことばと文字であふれかえっている。ところが、仏教には「りゅうもん」という教えもある(詳細は、『日本語の文字と表記』p190)。これは、「ことば(文字)で仏教の本当のことは分からない、伝えられない」という意味だが、あれだけ大量の書かれたお経を生み出しておきながら一体何をいうのだ?とツッコミたくなる。しかし、これは自己矛盾では決してない。
 我々も、やっかいなこと、こみいったことこそ、ことばを尽くして時間を掛けて説明しようとするように、10のことばよりも100のことばで伝えようとするだろうし、またそうしなければならないと思っている。それと同じで、あらゆることばで語り尽くして、すこしでも悟りのヒントになれば、という態度なのである。10で伝わらなければ100、それでダメなら1000とことばを盛りに盛っていく。しかし、どこまでいっても、それら。それが「不立文字」の真意である。

「あっ!そういうことか!」とわかるとき

 キリスト教やイスラム教(とくに後者)は神を偶像化することを禁止するが、それは、無始無限で、境界がなく、遍在する神を、ある姿(つまり境界を有する枠内)の中に閉じ込めて固定(fix)してしまうことになるので、許されない。というかそんなことは不可能である、ということだ。偶像化とは、〝境界〟に神を閉じ込めることになるから、禁忌となるのである。
 一方、仏教はご存じのように仏像をおびただしく作っている。あれは悟りのヒントになるからである。なにせ、自分も悟るには、すでに悟った人の姿形を知ると参考になる。わざわざさんじゅうそうはちじゅっしゅごうという仏の身体的特徴が事細かに明記されているほどだ。歴史上の仏師達はそれをもとに彫刻してきた。仏像は、もともと人間であった人が悟った(これをだつという)姿だから、像にして偲ぶのは何の問題も無い、と考える。「悟るヒント」を具現化して飾っているようなものだ。本来は、「悟り」こそが尊崇の対象であり、目指すところだが、スライドをおこしてそれを達成した人=仏=かたどった仏像へと尊崇範囲が拡大する。仏像という「モノ」と、それを作る意義の根本は「悟りのヒントがほしい」に尽きる。だからいい方を変えると、たとえ仏像がなくても、仏教的どうは普通に成立する。絵像でもいいし、それらが全て無くても、悟るときは悟れる。
 お寺にいくと、お堂の内部がきらびやかにしょうごんされていることがあるが、あれは仏国土のイメージのヒントになるからで、仏画や曼荼羅も同じ。

天蓋:
天井にかけられた飾り(寳珠院)

天蓋と本尊(寳珠院)

胎蔵界曼荼羅と弥勒菩薩
(寳珠院)

 

どれかに、あるいは合わせ技でもいいが、何かしら「ピンとくる」人、そうして仏の境地に触れて、自ら悟る人が1人でも多くいればそれでいいのだ。ヒントになるものはとにかく何でも使う。だから、大根を切りながら「あっ、そうか」とわかった人も、掃除をしながらふとわかった人も、行水をして真言を1000回、山奥のお堂で唱えた末に分かった人も、仏像を朝から晩まで拝み倒した人も、結果として差違はない。そういった様々な「きっかけ」「機運」があってよい。悟りそのものではないが、とりわけその感得に肉薄できる最も有意な手段、それがことばだ、と仏教は考えたのであった。ことばに最大限の注意警戒を払いながら、しかしことばを最大限に利用する。
 あまり知られていないが、仏教の言語観は、後の言語学にかなり通じることをすでに有している。また、キリスト教で、「神とは……」と語ったり、規定したりすることの禁忌——「神、主の名をみだりに唱えてはならない」(十戒の3 出エジプト記20章)も、あくまで宗教的世界の価値観でありながら、じつは言語学的知見からも、どういうことなのか説明できるところがある。この点は回をあらためてまた紹介しよう。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

次回は11月25日頃に掲載予定です。