第9回
日本語を勉強する人は大変?
尾山 慎
「難しい」言語
アメリカの国務省の機関が提示したという「外国語習得難易度」なるもので、日本語が最高難度にランクインというニュースがネット上話題になったことがあった。しかもリストのなかの「Japanese」には「*」が付されており、これは最高難度の中でもさらに飛び抜けて難しいという判定を示すらしい。このことは、もしかしたら一部の日本語母語話者の心をくすぐるかもしれない。確かに、「日本語?簡単簡単、楽勝だね」と甘く見られるより、「とても難しい、修得できる気がしない」などと唸ってくれる方が、なんだかこちらとしては悪い気はしない。一生懸命頑張っているのに難しい~と頭を抱えている人を前に得意気になるなんていかがなものかというような話なのだが、我々にも、どこかそんな感覚はないだろうか。
しかし、日本語は難しいということを本当に一般化するのは、あるいはそれを歓迎(?)するのは、やはり2つの点で大きな問題がある。
まずひとつが、これはあくまで英語話者にとって、というものである点だ。表の中にも、difficult for native English speakersとある。このランキングのうち最高難度の中には、中国語と韓国語も入っている。韓国語話者は、果たして世界最高難度の言語に日本語を掲げるだろうか。おそらく答えは否だ。韓国の人々の間で、よく、日本語は世界で最も学びやすい言語のひとつといわれる(簡単だとは言っていない)。言語の系統は一部関係するかともいわれる(アルタイ諸語)が、何といっても中国語の借用が多い点で共通するから、漢語由来の言葉を多く有し、文法も結構似ている。
たとえば「先生が教室で宿題を配布します」は、「선생님이 교실에서 숙제를 나눠줍니다」で、語順は全く同じで、自立語の後ろに、助詞に相当する要素がくっつくのも同じである(赤い部分が日本語の助詞に相当する要素。선생님 の 님 ニム は敬称)。先生(선생 ソンセン)、教室(교실 キョシル)、宿題(숙제 スクチェ)は日本語と同じ漢語の韓国語読みである。「配ります」は「나눠줍니다 ナヌォチュムニダ」だが、漢語「配布(ペブ)」もある。ちなみに漢語の部分をハングルから漢字に置き換えると、「先生님이 教室에서 宿題를 配布합니다」となる。日本語話者にとってもこれはかなり学びやすい(あるいは非漢字圏、非漢語圏の人に比べれば相当に有利)といえるのではないだろうか。
ところで、修得が「難しい」とされるカテゴリーⅤの日本語などと対照的な、「23-24週(575-600時間)の授業」で「難しくない」とされるカテゴリーⅠの方をみてみると、イタリア語、フランス語、オランダ語などが並んでいる。どうだろう?これらの言語は「やさしい」のだろうか。日本語話者の筆者にはとてもじゃないが、そうは思えない。つまりは、絶対的に難しい言語、絶対的にやさしい言語というのはないのである。日本語は世界の中で系統不明語、つまり明らかに、直接の祖先とか親戚だとみなせる言語がいまのところ見出されていないので、カテゴリーⅠに断られているような「英語と密接に関連する言語」のような親近性をもった他言語が、ない。言語の難しさとは、どこまでいってもそれは相対的な難易度であって、我が母語の親戚筋なら勉強しやすいだろうし、反対に系統が遠ければ難しいだろう。日本語は、そういう意味で〝難しい〟とよく言われるのである。件のリストの、最高難度カテゴリーⅤへのランクインとは、日本語が、地球上で普遍的に、絶対的に難しい言語という意味では、ない。
もうひとつの問題は、難しい言語だとして、じゃあどうするんだという点だ。難しいということをあまりに一般化されると、それだけ日本語を学ぼうという人を遠ざける恐れがある。おおよそ、外国語を学ぶモチベーションは、仕事で必要という場合はもちろんとして、個人的なこととしても、その国の文化面への興味がだいたい発端になっているだろう。が、それらの魅力を押しつぶすほどに言葉が難しい難しいと連呼されるとしたら、せっかくの動機になっていたそれらの魅力へ向けて、せっせとネガティブキャンペーンを張っているのと同じにもなってしまう。日本語は話者人口が一億人を超える、数だけでいえばそれなりに優位に属する言語かもしれないが、アメリカという影響力がとても大きな国の発信をソースに、世界へむけて〈日本語は難しいキャンペーン〉を展開しても、実際にはちっとも利はない。まして当の日本語話者がその片棒をかついでどうするんだ、ということだ。むしろ、こんな最高難度ランクに入賞してしまっては、日本語学習人口増進にブレーキが掛かってしまうじゃないか、と、そっちのほうを心配したほうがいいのではないかと思う。
「大変」かどうかは捉え方次第
あるツイート(現 X のポスト)で、英語が難しいという日本人にむけて、大丈夫、外国の人も日本語学習すっごい大変だから、というのが話題になったことがあった。たとえば「お疲れさま」は挨拶でもあり、労いでもあったり、「大丈夫」は、元気だよともいえるし、十分だからもういらない、問題ない、など種々の意味に使える。日本語には確かにそういった多義の言葉、しかも婉曲的なもの(「それはちょっと」「結構です」「また今度」など)が豊富だというイメージがあるから、多義語の理解や習得は、なるほど外国語話者にとって「大変」かもしれない。もちろん当の母語話者はというと、さほど不便とは感じていないのがほとんどだ——いやそりゃ当たり前だろと思われることだろう。ところが、外国語話者でも、いろんな場面に使えるのは便利と考える人もいる。
筆者の、かつて同僚だったフランス人は「失礼します」は本当に便利だと言っていた。何せ、部屋に入るときにも、出るときにも、人の前を横切るときにも、休むときにも、誘いを断るときにも、人より先に帰るときにも、帰る人を見送るときにも使える、と。しかも来日したての頃は、日本人に、丁寧な表現知ってるね~使いこなせてるね~と褒められたもんだよと笑っていた。そしてもちろん、日本人が「失礼します」いう様々な場面も、それらのどれかということは状況や文脈の助けもあるから咄嗟にわかるし、コミュニケーションとしてとても便利だというのである。まさに捉え方次第だな、とおもえる話だ。
人からのお誘いに対して「ああ~私はちょっと失礼します」というのは、一見難しい日本語特有の婉曲表現なのでは、と想像される。しかし、日本人とて、誘いにのって行くときには「はい、行きます」「それは是非私も!」などというわけで、「私はちょっと失礼します」とは、ようは断り文句のひとつなんだと知ってしまえばどうということはない——まして、その場に居合わせれば、眉毛をハの字にして申し訳なさそうに言うわけなのだから、断り文句だとすぐ分かるよ——実はこれもそのフランス人の言なのだが、たしかに、である。先に述べたように、多義だからこそ、ひとつのことばで様々な場面に使えて便利だともいえるわけで、学習や修得が「大変か」「大変でないか」というのは自分がそうおもったりおもわなかったりすることにすぎないというのがよく分かる(もっとも、「大変だ」は、一人でも多くのだれかと共有したいのが人情だけれど)。
「外国人のみなさん、お疲れさま」の危うさ
たとえばそういう何通りもの意味がある日本語の「大丈夫」や「失礼します」などについて、相当な多義語だから使いこなすのは大変だろうというわけで「外国人のみなさん、本当にお疲れ様です」と謳うのはどうだろう。実際前出のツイートにもそのような言葉があった。日本語、面倒な言語ですよね、という労いなのだろうが、学習中の当の「外国人のみなさん」からすると、おそらくはこういうふうに労われたくはないのでは、と思ってしまう。なぜなら、「こんな難しい言語の勉強して、お疲れさま、頑張ってますね(こんな難しい言語を自由に話せる者より)」というメッセージにもなり得るからだ——それはいくらなんでもひねくれすぎ、悪意に取りすぎだろうか?いや、これは〈取扱注意な言い回し〉という意味である。字を書くための鉛筆でも指を刺してしまったり、紙でもひどく手を切ることがあるのと同じで、刺すため、切るための道具でなくても、使いようによっては刺さったり切れたりすることがあるから、思わぬ〝怪我〟を呼ばぬよう、ちょっと気を付けたい言い回しだと思う。
「外国人のみなさん、お疲れさまです」は、結局、「日本語難しい!」といわれてなんだか得意気になってしまう気持ちと、地続きにみえてしまう可能性がある。母語を愛したり誇りにおもうのは大事なのだが、その表明については、TPOやさじ加減が難しい。
筆者もよく「非漢字圏の人たちが漢字学習するのはすごく大変なんですよ」と日本語母語話者達が相手の授業で言うことがあるのだが、少なくとも、留学生当人達も含まれる受講生達の前では、それをあまりに強調するのも、それはそれで失礼な話だろうと思って注意している。これは我が身に置き換えても分かると筆者自身思っていて、実はかれこれ十数年、韓国語を(本当に)細々と学んでいるのだが、もしも、韓国語母語話者から、
「발음이 어려울 것입니다 정말 수고하셨습니다」(発音難しいでしょう、本当にお疲れさまです)
などといわれると、妙な気分になるか、ちょっとムッとしてしまいそうだ。結局「なかなかできるようにならないねぇ~」と言われているように思えるからかもしれない。
外国人学習者に対して、知らないうちに母語話者マウンティングしていないだろうか……とちょっと振り返ってみるのも、大事かもしれない。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。