第13回
言語における「文字」の位置 その①
尾山 慎
文字は記号の記号——か?
文字は、言葉を記すためにある。書くべき言葉がないなら文字はふつう、用いられない。だから、それらしい記号のようなものが、刻まれていたとしてもただの模様に過ぎない——と、言うしかない。言葉と対応していないものは文字とは見なせない。□が三つ集まっている図形があると「品川」の品に見えるが、ただそれだけなら、シンプルに単なる絵柄かもしれない。「しな」や「ヒン/ホン」と読むと確証がなければ、文字とは言い切れない。
ということで、文字は音声を記すもの、である。言語は記号だから、文字はそれをさらに記号化する、〝記号の記号〟ということになる——と普通、言語学ではこう考えている。となると、どうしても音声の言葉と、文字は、上下関係、あるいは従属物という構図になるだろう。実際、上に述べたように音声の言葉がないままに文字は普通生まれないので、上位下位で捉えるのは、間違ってはいない。そのようなわけで西欧の言語学では、文字表記は直接の研究対象になってこなかった。それは、ソシュールの次のあまりに有名な言葉からもわかるだろう。
言語と文字表記は二つの異なる記号システムで、後者は、前者を表現するためだけにあります。それぞれの、お互いにおける価値は、誤解の余地のないように思われます。一方は他方の召使いあるいはイメージ[image]にすぎません。
(F.ソシュール『ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート』影浦峡・田中久美子氏訳 東京大学出版会、2007)
「召使い」——これほどに上下関係を意識させる比喩はないといえる。ただし、近時は、音声と文字は、音声言語、文字言語(書記言語)などともいわれ、上下関係というより並行関係のように捉えるのもよくある。たとえばポスターや看板に書かれているような「於奈良女子大学」という文字列はどうだろう。これはふつう、音声化が期待されていないのではないか。しかし、はっきりと、〝場所は奈良女子大学である〟と意味はわかるだろう。つまり、〈ならじょしだいがくで/にて/において〉といった音声による伝達とは別個の方法として存在しているのである(詳細は『日本語の文字と表記』参照)。音声と文字はこのようにそれぞれに別個の働き口があって、だからこそ両立し得ている、両者は並行関係だという考え方である。
そして、以上2つに加えて第三の関係性がある。それは、文字が音声より優位あるいは統御するかのような場合である。たとえば、「緑ではなく碧」(みどりではなくみどり)といった場合、音声としては同語(「みどり」)だが、文字上では違いを表現するものだ。少なくともこの例では文字は音声の「召使い」という比喩は当てはまらない(どちらかというと逆ではないか)。こういうのは古くから日本語にはあって、藤原教長(1109~??)の『古今和歌集注』に、
マタ、ハジメノ五字ハ浅緑トヨムベキナリト、フルキ人マウシキ。マタ朝緑トモイフハ、ハルノナナリ
とある。乾善彦『漢字による日本語書記の史的研究』(塙書房、2003)はこの言説について、
「浅緑」「朝緑」といった漢字表記が重い意味を持っており、これを仮名で表記すると注が意味をなさなくなってしまう。「あさみどりはアサミドリとよむ」では注釈として無意味なのであり、ここは「浅緑という漢字によってあらわされる意味によむということでなければならない。
と指摘している。
西洋の伝統と表音文字を巡る研究
先に、ソシュールによる、明らかな音声優位、文字を下に見る扱いを紹介したが、実は、同じようなことが、さらに二千年以上前にすでにソクラテスが次のように言っている(『パイドロス』(藤沢令夫訳、岩波文庫、1967))。
書かれたものは価値の少ないものだ
書かれた言葉の中で最もすぐれたものでさえ、実際のところは、ものを知っている人々に想起の便をはかるという役目を果すだけのもの
弟子のプラトンも同じようなことを言う。
書かれた言葉は、その当のものを知っている人に知識を思い出させる役割しかなく、それ以外には全く不要である
「価値が少ない」だの「不要」だのとなかなか言いたい放題だが、よくみると「想起の便をはかる」とか「知識を思い出させる」とも言っていて、一定の役割を認めているのである。扱いは言葉の上では低いが、存在価値が皆無だとは思っていないようである。彼らが駆使したギリシア文字は、古代エジプトの象形文字、ヒエログリフから出発したものだが、子音と母音の両方を兼ね備える体系で(それまでの、先行するフェニキア文字は子音のみの体系)、ソクラテスもプラトンも、おそらくギリシア文字ができて数百年後の世界に生きていた。はるか未来の、ソシュールに一脈通じるような文字観が早くも抱かれていたというのは、ある意味で驚きでもあるが、近時は西欧でも、かつてのような「召使い」やら「価値の少ないもの」観から脱して、文字への関心は高まっている。
たとえば英語の文字表記とその問題については、大名力氏の『英語の文字・綴り・発音のしくみ』(研究社、2014)がある。本書では「 name のように読まない e を語末につけるのはなぜか」「 sitting と綴るのにどうして visit は visitting とは綴らないのか」「冠詞の発音が母音と子音の前で違うのはなぜか」「アルファベットの A はなぜアでなくエーと読むのか」といった疑問に対する考えが解説されている。表音文字の世界でも、多くの、表記論的謎に満ちていて、大変面白いのである。
フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)は、「logocentrisme」すなわち音声中心主義というのを批判した。音声中心主義というのはまさしく上に挙げた、書かれたもの——エクリチュールへの批判を繰り返したソクラテス(上述)にまでさかのぼるものである。ソクラテスはプラトンとともに、パロール(ここでは、エクリチュールに対する話し言葉というほどの意味)の優越を述べたてることを繰り返している。デリダは、エクリチュールがパロールを覆うような事態があるとして、ソシュール批判を展開した(これが、デリダのいわゆる「脱構築」)。「エクリチュールがパロールを覆う」つまり、文字優位である。これは西欧における文字表記と言語観からすれば、一つの大きな変革であったといえるのだろう。が、このデリダの批判、お気づきのように本コラム冒頭でみた、文字と音声の関係性をめぐる第三の見方——つまり日本語では漢字表現をもってよくよく見られるあり方を言ったものにとてもよく似ている。特に古代まで遡れば、日本語表記にとっては、もはや出発点といってもいいような関係性だったといえる。そういう意味では、もうデリダにとっては生きた証拠の宝庫のようなものだろう。
(その②へ続く)
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。