第14回 
言語における「文字」の位置 その② 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

「読み違い」が起こるしくみ

 「書かれたもの」を書き手の意図の100%、全くの過不足なく読み手が受け取る、というのは実はない。というか100%だと確かめる術もふつう、ない。80%、90%——つまり読み切れていない、あるいは反対に120%あるいは150%——筆者が考えていないことまで読み取ったりする、というのがたいていのところだ(そして、読者当人は、往々にして100%過不足なく読みとった、と思うものだろう)。しかし、本当に、常に書き手のことばと思惑を過不足なくパーフェクトに解釈してくれる読者ばかりなら、誤解や誤読、ひいては炎上事件などは世に起こり得ないことになるではないか。実際は、そんなことは有り得ず、日常あちらこちらで「ボヤ」から「大火事」まで頻発している。いったん炎上すると、「そんなつもりはなかった」という書き手の弁明などたいていは焼け石に水で、「ごめんなさい」とひたすら謝るか、大炎上上等でさらに反論するか、いずれにせよ最終的には自然に鎮火する(=みなが関心を失う)のを待つしかない。その頃にはもはや「焼け野原」が残るばかり、かもしれない。
 もちろん、文章や語句を巡って炎上が起きるそもそものこととして、書き手の力量(文の構成力、用語の適切・不適切、表現の巧拙など)に左右されるところはあるだろう。また力量はあっても、あるときある瞬間、うっかり間違えたり、ことばのチョイスを勘違いするのも、人間の常だ。そして根本的な話だが、読み手のリテラシー(読み書き能力)によって、これまたいくらでも変わりうるのも確かである。文章を書く、書かれたものを読むというのはそういう宿命にあることは間違いない。

『日本語の文字と表記 学びとその方法』より

 ただ、ここで立ち止まりたいのは、そういうところだけ、つまり書き手のスキルの問題、読み手のリテラシーの問題という、ひたすら双方の「能力」というところだけに、行き違いや読み違いの原因を求めるのでは、読み違いが起きるしくみや、書き手の意図せぬ炎上事件などの謎は解けないということだ。なぜなら、それは結局〝理論上は過不足なく100%理解し合える〟という前提があることになるからである。しかし、すでに上に述べたように、筆者はこれは一種の幻想であると思っている。文字表記に託されたことば、意図と、読み手が引き出すことは、、別の次元ですれ違っている。書き手が託したXと、読み手が引き出すYは、別物というのが、それこそ理論的な関係性なのである。

 それでも、たとえば「今日は良い天気だし、散歩でも行こうよ。2時に駅前でどう?」という文章は、誤解のしようもなく、100%伝達できているではないか?といわれるだろう。もちろんこのように短く事柄を伝えたものは、そういって差し支えないかもしれない。しかし、それも、〈唯一のことば〉が書き手と読み手の両者から離れて超然とあるのではなく、書き手が託したことばと、読み手が読み取ったことばとが限り無く重なりあっているだけのことなのである。重なりあっているので、唯一であるかのように見えるだけである。そうでないと、おそらくは次のごとき、幻のイメージにいきついてしまう——入れ物(文字表記)に乗せた「ことば」を相手に届け、読み手は、荷台から荷物を降ろすかのようにその「ことば」を入れ物からひょいと受け取る、と。しかし、これは錯覚だ。唯一無二の「ことば」がキャッチボールのように両者の間を往き来しているのではない。
 書いた人と書かれたもの、その書かれたものを読む人、三者の関係について、2022年にノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノー『嫉妬』(堀茂樹・菊池よしみ氏訳、早川書房、2004)に次のような一節がある。

私は今、書くことによって、自分の妄執と苦しみを開陳しているが、(中略)書くこと、それはまず、人に見られないということだ。(中略)これらのページに見出すことができるもの、それはもはや欲望、嫉妬ではなく、欲望、嫉妬なのである。そして、書いている私は、人に見られることのない次元にいる。
(圏点は本文ママ)

「誰のものでもない」のに「具体的」とは、これいかにと刹那思ってしまうが、これは読み手の数だけ、読み手のことばとして引き出されるということですぐに理解できる。
 ところで、この話から、ロラン・バルトの「作者の死」( 「The Death of the Author」1967)」を思い浮かべる人もいるかもしれないが、この場合、作者が何を書いたかというのも当然重要だから、書き手にも「生きて」おいてもらい、読み手双方で、X、Yとそれぞれ設定してみた。

書き手の手を離れている

 いまや小説のあらすじや感想も、個人が、自由にネットに上げることができる時代である。またそれに、ああでもないこうでもないと意見が集まる。たとえばそれを目にとめた作者が違和感をもったとして、それを一々「自分はそんなことを言ったつもりはない」などと演説してまわることは不可能だ。そして、できたとてそれは時に、無意味である。提示されたことばがどう解釈されるかというその一点で、全ての読み手はまずは読むはずだから、根本的な誤読はさておき、基本的にはそのような構造で捉えられなくてはならない。
 昔、某深夜番組で入試問題の国語について、その文章の作者自身は解けるか、という企画があった。結果は、予想通り100点満点など無理だった(むしろ作者は、出演者中得点最下位だった)。このことは、書く人、書かれたもの、読む人という上にみた関係性からいうと全く、何の不思議も、不審もない結果だとおわかりだろう。もし作者が「いやボクそんなこと思ってなかったよ」といっても(番組的には盛り上がるだろうが)、あ、そうなんですね、で終わる。読者は、作者の頭の中——言語化するプロセスとそれにまつわる無数の要因、意図や目論見などを直接覗いているのではない、いや、覗けるはずもなく、ただただ、提示されたからである。
 では、仮に作者自身がじきじきに出題し、採点をしたときに、ある回答者が見事100点満点だった、ということもあるのでは?——確かにあるだろう。しかしそれこそ、まったくのたまたまなのである。

匿名であることと自身の「読み」

 現代では、ネット空間に匿名の投稿やコメントがたくさん存在しているので、バルトの時代に比べて、その文を書いた人が匿名(作者が見えない)だということについて、かえって理解しやすいかもしれない。「どこの、だれが」ということを知らないままに、あるいは知る必要も無く、ただ、出されたそのことばを読んで、感想をもち、意見を言い合うこと——もはやまったく珍しくない。たしかに、現代こそ「作者は死」んでいるという比喩は理解しやすい状態だといえそうだ。コラム第4回末尾で、「もう「作者」という存在はどっかにすっ飛んでしまっている」と述べた。作者なるものを無視して考察や研究することが有り得るのは、まさにこういった点において、なのである。そしてこれは、決して作者という〝創造主〟をなおざりにしているのでも、軽んじているのでもなく、アニー・エルノーのいうとおり書き手は「人に見られることのない次元にいる」ということで取り組まれている姿勢なのである。そのように区別して、こちら(読み手、分析する人)は小説なり評論なりのことばを研究できる、といういわば立場表明のようなものである。無論、筆者その人、そしてその考えをあらゆる方面から取材して、作品に取り組む研究もあるが、そういうのは、作家論などと呼ぶ。たとえば、夏目漱石は、この小説を書いているとき、朝日新聞に勤めていたかどうか、病気で修善寺に行っているときだったかどうか、といったことを考慮にいれ、手掛かりにしていくというものだ。これは広い意味での作品の「成立論」でもあり、これはこれで非常に多くの蓄積がある研究領域である。

 山田俊雄という国語学者は、書かれたものについて、「読む人の勝手次第」と喝破した。これは言い得て妙である。しかも書かれたものは「時空を超越」するので、その「勝手次第」は永久に起こり続けるということになるのである。

 次回(その③)では、徳川家と豊臣家にまつわるかの有名な京都方広寺の梵鐘——「国家安康」「君臣豊楽」を巡る一件を、今回のシリーズ(①②)を踏まえて、表記論的に考えてみたいと思う。

(その③へ続く)


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

次回は3月25日頃に掲載予定です。

第15回 言語における「文字」の位置 その③——方広寺梵鐘銘文事件と「マルハラ」
第13回 言語における「文字」の位置 その①