第16回 
現代日本語ローマ字事情 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

日本語とローマ字

  日本列島にローマ字がやってきておよそ470年と少しになる。キリシタン宣教師たちによって、ポルトガル式に綴られることから始まったそれは、現在、大きく分けて、くんれい式、日本式、ヘボン式およびそのいずれでもない〝個別ケース〟(後述)が日本語社会には存在している。
 日本式とは、ごくシンプルに日本語を母音+子音で表すもので、ダヂヅデドだと、da di du de do になる。物理学者で、ローマ字推進論者であったなかだてあいきつの考案による。50音図に基づいており、日本語音韻の構造がよくわかるという利点があるが、これをもう少し整備したのが訓令式で、ヂとヅを zi、zu と書く(ほかにもいくつか違いがある)。後から述べるように、この訓令式が長らく日本語における〝目安〟とされてきた。

 日本語には二枚看板ともいうべき漢字、平仮名という大きな表記の中核があり、そして語ごとに、片仮名の役割分担が決まっている(片仮名が、語ごとに用いられるものであるというのは、小学校の学習指導要領にも明記されている)。
 一方で、ローマ字は、小学校3年生で学習することになっている(昔は4年生だった)。が、日々、ある時、ある場面場面で、絶え間なく生成される日本語表記にはあまり、このローマ字が入る余地はないのが現状であろう。漢字、平仮名をはじめとする交ぜ書きの一員には実質的になれていないといっていい。たとえば、SNS などで、「それは mottainai」と記すとする。これは事実上、「もったいない」という日本語をカギ括弧にくくった表記上のとくりつに近く、ふつうに平仮名や漢字で書かれた「もったいない」ないし「勿体ない」を一方において対照された、特別な意味合いを持たせた表記のように受け取れてしまう。ということは、つまりはローマ字が日本語表記一般のレギュラー要員とは言いがたいことを示していよう。

 しかし、このように日本語話者によって日本語表記が生成される場面ではイマイチ存在感がないかと思われるローマ字も、一歩家の外に出れば、道路交通標識や電車の駅名などで、頻繁に目にすることになる。次の節で述べるように、実に70年ぶりに、ローマ字表記の綴り方が改訂される運びとなった(なお、存在感がないとはいったものの、多くの人が、PC の日本語入力をローマ字入力によって行っているという現実はあるが)。

70年ぶりに改訂

 ローマ字の日本語綴りが見直されることになった(2024年2月報道)。「ち」を ti と綴り、「し」を si と綴るような、シンプルに母音と子音を組み合わせて表記するのは、先にも述べたように日本式であり、これを少し整備したものが訓令式である(1937年の内閣訓令で出されたことから)。しかし、身の回りを見渡せば、「ち」は chi、「し」は shi と綴る方がむしろなじみではないだろうか。クレジットカード、パスポートの名前の表記、そしてスポーツ選手のユニフォームに記された名前などのほか、道路に設置された看板にある地名も多くはそうだだろう。こちらがいわゆる「ヘボン式」である。アメリカ人のヘボン(James Curtis Hepburn、1815ー1911)が開発した。ヘボンは医師で幕末から日本に滞在し、牧師でもあり、明治以降には聖書の翻訳にも尽力した人物であった。『えいりんしゅうせい』という和英辞典を作ったことでも有名だ。このヘボン式は、基本的に子音+母音の示し方であることは変わりないが、英語話者にとって発音しやすい表記になっているのが特徴で、上に述べたように、クレジットカードにせよ、パスポートにせよ、〝世界でその日本語がどう読まれるか〟という観点では、理にかなっているところがある。ただし、当然だが世界は英語話者だけではない。chi と書けば世界中誰でも日本語の「ち」に近い発音をしてくれるとは限らない。Chichibu(秩父)がチャイチャイブと読まれるリスクはあるのである。この点は後で触れよう。

 今回、「70年ぶり」の改訂というのは1954年内閣訓示から起算してのことになる。2022年から実態調査が始められ、現状、社会的にはヘボン式、その他の表記と混在している実情があるとの見解で、「しかるべき手当てをするべき」と調査委員会は報告している。実際には文部科学省への答申を経て、次年度以降に具体化していくようだ。実態は結構多様であって、社会の場面場面で様々な変異が生じて不統一状態になっているから、これをもう少し整然と、統一的にできないかという方向で検討されていきそうだ。

表記揺れの現場

 ローマ字表記が揺れているのは実は町中のそこここにある。サコさんを satiko と書こうが sachiko と書こうが自由ではあるが、市町村名は普通、揺れないのではないか——しかしそういうことが現に起きている例がある(なお、名前表記については、パスポートもそうだが、希望すれば、訓令式で綴ることもできる)。市町村名の表示とは、結構、公的性格が強いとおもうのだが(つまり表記は統一性を志向し、揺れにくいはず)、そうでもなかったりする。たとえば「二本松市」(福島県)は、JR の駅名表記では「nihommatsu」と、「松」の ma の前にくる「日本」のンを m 表記にする——結果、m が重なるのだが、二本松市のホームページでは、ンをそのまま n とした表記になっている(同市HP の URL も同じ)。

二本松市 HP より

 日本語で問題になるのが長音である。日本語の長音に相当する音がない言語話者(たとえば英語、中国語、ベトナム語など、結構多い)には、そもそも聞き取りからして難しいという(例:「うん」(肯定)、「うーん」(逡巡など)、「ううん」(否定)、「おばさん」と「おばあさん」)。
 湖南と甲南などは、konan としか普通書かれないので、文字上は一緒になってしまう(そして耳で聞いても、わかりにくいそうだ)。
 大阪府箕面市は、HP で、Minoh とはっきり h をいれている。そもそも、日本語仮名表記でも、「みの」であって「みの」ではないのだが、仮に Mino だと、日本語話者の直感でも「美濃」になってしまう。なお、町中では「箕面」のローマ字表記は様々なバリエーションがあるらしく、それをリポートしたサイトもあるので、是非ごらんいただきたい。

箕面市 HP より

 筆者の勤務先奈良は、外国人観光客が大変多く、町中にローマ字表記が結構ある。学生がフィールドワークをした際に、面白い事例を見つけてくれた(写真は、近鉄奈良駅近く某店で奈良女子大学学生が撮影)。

 

 これは、1つの店の中である。matcha は訓令式でもヘボン式でもなく、英語風表記というべきかもしれない。

語の言い換え・簡易化とローマ字表記への変更を混同してはならない

 外国人労働者が増えている。介護、医療の現場で活躍する人も多い。そこでよく議論になるのが、〝難しい〟医療漢語だ。よくやり玉にあがるのが「褥瘡ジョクソウ」(いわゆる「床ずれ」のこと)——たしかに普段見ないし、まして書かないので〝難しい〟といえるだろう。他に「清拭」(セイシキ。「セイショク」ではない)など、医療現場にまつわる漢語は、外国人学習者に立ちはだかる壁とされ、枚挙に暇が無い。
 こういった事情にまつわって、日本語にローマ字を導入することの、その意義を主張するなかに、言葉の言い換え、引いては日本語自体の新たな創造という形で積極的に向き合い、ここにローマ字の存在を認め、関連付けていく論がある(たとえば竹端瞭一「ローマ字日本語の可能性」『日本語表記の新地平 漢字の未来・ローマ字の可能性』くろしお出版 2012)。

 結論からいうと、ローマ字で書くこと(表記を改めること)と、日本語の語彙をやさしく言い換えていくことはさしあたり別であって、ただちに紐付けるべきではない。語彙が抱える同音異義語の問題や、耳慣れない漢語の言い換えは、それはそれで意義あるテーマだが、それをローマ字で書くかどうかは別問題だ。直接接続したり、いきなり同一平面上では議論できないのである。
 たとえばこういうのはどうだろうか。「清拭」を、seishiki と書く——これで、漢字がハードルになるリスクは、クリアできるかもしれない。漢字で書かれる日本語をローマ字で書く、というシンプルな表記改変論は、一つ意義は、ある(ただし、平仮名で書くのではなぜダメか?という議論や、ローマ字に見慣れない多くの母語話者はかえって seishiki に戸惑うかも知れないという問題も同時に考えられるべきであるのだが)。

 しかし、ここに、セイシキという語自体が耳慣れないので、「体を拭くこと」と言い換え、かつ「karada o huku koto」とすれば、外国人の看護師を目指す人にも分かりやすいのでよい、という提案がなされたらどうだろう?筆者は、この話の持っていき方はちょっと問題だと思う。まずローマ字表記以前に、「清拭」を「体を拭くこと」と言い換えて良いかどうかということを重々議論しなければならないはずだからである。

 実は、厳密には「清拭」と「体を拭くこと」の二者は同じ意味にならない。「清拭」は医療行為であり、水分を拭き取ることはもちろんだが、患者の血行をよくするようなマッサージも兼ねたものを多くはいう。一方「体を拭く」は、一般的な意味にどうしても引き寄せられるはずで、医療現場ではなく、単に風呂から出た際にバスタオルで体を拭く行為をも含むことになるだろう。たとえそれが外国人で看護師を目指す人、あるいは現場にすでにいる人たちのためであるとして、その易しい言い換えが、医療現場の意思疎通の不全を起こすリスクもでてくる。医療行為としての「清拭」をせねばならないはずが、皮膚上の水分を拭き取るだけでよしとしてしまう行き違いが起きるリスクも考えなくてはならない。

 言い換えは、おおよその意味が通じればよい、ということもあるだろうが、それだけでは済まない場合——まさに医療用語「清拭」などはこれを如実にかたる実例である。そのようなことから、ローマ字表記かつ言い換えの「karada o hukukoto」案は、様々な立ち止まるべき議論をすっ飛ばした勇み足になってしまう、と危惧されるのである。

 それに、「karada o hukukoto」で学んで、それで医療現場に来た人が、医師からの指示のメモに「清拭すること」と従来の用語と表記で書かれていたらもうお手上げということになってしまわないか。つまり、試験のときだけ易しくしても仕方ないのである。ここには、ローマ字表記や難語の言い換えを、〝国際化のために〟推進するとして、いつから、どのように、何を見据えて、どういう範囲で、いかに現状変更を行っていくのかという、種々の問題が横たわっていることを、浮き彫りにするのだ。

真の「国際化」を見据えて

 簡単に世界中でいくつ言語がある、ということはいえないが、試みにここ日本という場所を基準に、どれだけの国と行き来できるかという観点で考えてみよう。すなわち国交の有無でいうと、2024年3月現在、日本と国交がある国は195か国ある(外務省HPによる)。確かに、この中に、ラテン文字(アルファベット)を使う国は多い。そして英語も広く第一、第二言語として使われているのは事実だ。だから、最大多数、というのなら、ローマ字は国際的に存在意義が高いことになるし、日本語を発信するには現状最適であるというのは頷ける。そして、おそらく英語の発音に寄せたヘボン式が一番穏当なのだろうとは思う。

 ただ、「外国人」とか「国際化」という、総括したり、大きくて抽象度が高いキーワードに惑わされてはいけない、とも思う。
 たとえば漢字は国際的な文字ではないのだろうか?筆者は台湾にいったときに、「停」という字に斜め線が入っているのをみて駐車禁止だろうとすぐ分かったし、バスがウィンカーを出して右に曲がるときに、同時に電光掲示板に「右轉(転)」と点滅して出たのも理解できた。発音は分からないが、地下鉄の路線図から目的の駅を探すのもそれほど苦労しなかった(むしろ発音表記は見なかった)。漢字はこの場合、どう考えても「国際的」だった。もし、漢字が国際的な文字だとはいえないのだったら、ローマ字がもたらす、ローマ字が可能にする「国際」って何なのだろう?と問いたくなる。

 学術論文「会話教材におけるローマ字表記—英語/イタリア語の母語話者を事例として—」(小林ミナ 藤井清美 栁田直美/『早稲田日本語教育学』19 2015)では、イタリア語話者と英語話者を例にとって、日本語ローマ字表記を、それぞれの母語を考慮して個別に開発するということが考究、検証されている。たとえば「chiesa」という文字列は、日本語話者がローマ字読みすれば、「チエサ」になるだろうが、イタリア語話者にとっては「キエザ」になるという。「mike」は英語話者にとっては咄嗟に、「ミケ」ではなく「マイク」と浮かぶ。こういうところに配慮するというのである。たとえばイタリア語では k を使わないので、「これ」を「core」のように記すことを提案している。非常に時間は掛かるかも知れないが、〝ローマ字で書いておけば外国の人にも日本語が読める〟というのは、様々な言語を話す「外国人」をじっひとからげにした、非常に粗い見方なのだと、よくわかる。
 同論文では、「日本語教科書でローマ字表記を用いる際には、「音として理解、産出するためのローマ字表記」と「文字として出力するためのローマ字表記」のどちらであるかを峻別するべきである」とし、さらに「会話教材におけるローマ字表記、すなわち、日本語を「音として理解、産出するためのローマ字表記」は、学習者の母語を考慮し、母語ごとに開発される必要がある」としていて、首肯できる意見であると思う。

 日本と関係する外国人といっても、日本語学習が目的ではない旅行者をはじめ、留学生、労働者、そして家族を持って永住する人など本当に様々である。日本というくくりの中におけるローマ字の統一的な表記は歓迎すべき面もあるが、それで万事解決という話では全くないし、日本の国際化推進とも単純に言い切れない課題を依然として多く有し続けているのである。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

 

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