第17回 
人は世界を「物語」で知る(前編) 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

「物語」といえば

 「物語」といえば、『源氏物語』『竹取物語』『伊勢物語』、現代では『指輪物語』(ロード・オブ・ザ・リング)に『探偵物語』『南極物語』……ほんとうに果てしないほどに、ある。そういえば『果てしない物語』というのもあった(『ネバーエンディング・ストーリー』)。amazonで、検索を本に限って、単純に「物語」と打ち込んでみたら「60,000件以上」ヒットした。多すぎるので、「~以上」としか出なかった。
 生まれてこの方、「物語」というものに触れたことがないという人はいないと思う(そもそも多くの人は生まれて最初の2年くらいをほとんど覚えていないが、テレビも見るだろうし、絵本などを読み聞かされているだろうから。そういう意味でも、「触れたことがない」はまずないだろうと思う)。同時に、「物語」と言えばフィクション、創作物というイメージも強いかも知れない。それはそれで、狭い定義としては良いのであるが、もう少しこの「物語」という概念を広げてみよう。
 まず、〝ことばで語られる〟というのが大前提として(映画などはセリフやナレーションということばのほかに、映像も情報として当然加わる)、モノ・コトが順をおって紹介、説明あるいは展開され、その展開・連接になんらかの意味を付与したり、あるいは見出す——つまり読み手・聞き手(結局は、語り手、書き手もであるが)は、この展開を追うことで、そこに語られていることを追体験したり、寓意を読み取ったりする。かように、絵本や小説などに限定せず、映像メディアを含めて、〈語り起こし〉から展開をもち、そして最終的に一括りのものとして閉じられるものを「物語」の概念だとして広くとらえたとき、フィクション、ノンフィクション(ドキュメンタリーなど)、伝説、伝承(いわば昔話)、そして時には世間話さえもが、実は広くこの「物語」に含まれることになる。世間話まで?——これは後編(次回)で見てみよう。
 「物語」は、実は、私たちがこの世界に生きて、そしてこの世界を知るうえで、最も基本的かつ身近な、慣れ親しんだ方法であり、である。このことを、以下、様々なケースを例にとって見ていこう。

小さな子に教える道徳・倫理として

 子どもが0歳、1歳、2歳と長じていくにつれて、この世界で生きていくための知識を大人はどんどんと授けていかなければならない。挨拶や人の呼び名、ワンワンやブッブーを教えるのも楽しいが、なんといっても、やはり「人と接していく上でのあり方」「あるべき心のもちかた」「してはならないこと」(このように書くと実に堅い言い回しになるが)を教えるのも重要である。このとき、乳幼児にむかって、それらを箇条書きにしたものを読み上げてみても、まず効果などないだろう。表現を柔らかくしたとて、脈略がなく、抽象的だし、実体験もそんなにないところへ、唐突にひたすら細切れの文章で道徳的・倫理的なことを列挙していっても、なかなか深く理解できるとも思えない。おそらくは、実際の現場——つまり、プレゼントをもらったら「ありがとう」といおうねとか、「よかったね、嬉しいね」と声を掛けて一緒に喜び合ったり、いきなりべちっとお友達を叩いてしまったら「だめよ、痛いよ、謝ろうね」などといった具合に、実体験的に教えていくのが、もっとも分かりやすく効果も望める学習・教授の手法だろう。
 
 しかし、すべての事象を、都合良く実体験できるはずもないし、そもそも実体験などしないほうがいいこともたくさんある。そこでもうひとつの方法が、まさしくその「物語」なのである。人に優しくする内容の本、だれかをおもいやることの大切さを説いた本。「いや!」ばっかり言ってるとどうなる?誰かの大切なものをとってしまったら?壊したまま黙っていると?——様々な〝この世界にありうる事象とそれへの向き合い方〟を教えてくれる、その装置としての「物語」、わたしたちは、結構そういうものに触れて成長してきたのではないだろうか。動物や乗物が主体のお話であっても、擬人化されていればそれは同じく〝この世界のしくみ〟〝あらまほしきこの世界のさま〟を教えてくれる。たとえば働く車の本などは定番のひとつだろうが、ショベルカーやブルドーザーが交替したり、協力したり、それぞれ得意なことがあって仕事を分担したりということを、学ぶことになるのである。

 大人とて、物語を通して学ぶほうが、効果的なことは多いかも知れない。自動車教習所では、飲酒運転の危険さ、被害者・加害者ともにその後の人生を終わらせてしまいかねないことを、法令の文言にあわせて文章説明で説く他に、ドラマ仕立ての短い動画で見せたりすることもある。映像媒体の「物語」である。そこでは、泥酔したまま、上機嫌で居酒屋の前から堂々と車にのるところからはじまり、案の定ひどい事故をおこしてしまう。しかもあろうことかひき逃げ、そして最終的には、起訴、収監されて、仕事や家族、一切合切を失ってしまったという、関わった人全員が悲惨な末路を辿るさまが語られる。飲酒運転と分かって見送った居酒屋の店主、同乗してしまったこれまた泥酔した友人も、行政、刑事両面でどういう処分を受けるかも知ることができるようになっていたりするが、ともかくも、視聴していると、分かっているけれども、あらためて絶対にしてはならない、こうはなってはならないのだと思い知らされる。

 物語は、ある枠組みの中、それこそ〝とある世界〟にものなので、突然、その話をはじめることができ(つまり「この本読もっか」と始められる)、そして完結できる(面白かったね、と読み終える)。イソップ童話などを日常生活にえんしたり再解釈したりということは誰しも経験があることだろう。物語をもって、また「物語」の枠組みでもって、現実の、この世界を、知識・想像上で知る(蓄える)助けを得ているわけである。

神話は〈この世界〉の説明

 聖書には天地創世の話が載っている。「光あれ」と神がいうと光ができて、闇が分かれ、それぞれ昼と夜と名付けられたとか、7日目=日曜日に休むのは聖書のこの話が由来なのだと知ったりする。この世界は、いつ、どうやってできたのか?という疑問に答えるものとなっているわけである。それはまさに「物語」として展開していく(実際、第3日目、第4日目、と進んでいく)。日本の場合だと、始まりはイザナギとイザナミによって淡路島からまずは生まれたところから説かれている。そこから黄泉国での二神の決別、イザナギのみそぎの際に生まれた三神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)の話、そしてアマテラスの孫が地上世界を治めるために天から降って(天孫降臨)、初代天皇・神武に至るまでの神話が連綿と語られる(主に『古事記』上巻、『日本書紀』神代巻)。

 なぜ?どうやって?どのように?ということにこれらの「物語」は答える。
 神話、伝承ときけば、すかさず、本当にそういうことがあったのかどうか、ということに現代人の関心は向きがちであろう。「それは客観的なモノ・コトなのか?証明できるのか?」というのは実によくあるツッコミだ。測定したり、観測したりできるものであれば、数字がそれを証することもあるだろう。私たちはそういうものに強い信頼を寄せている。事実、数理的実証は今日の人類にとって大きな指針ではある。だからそれはそれとして重要だが、測定、数理的実証ができないものは存在を認めない、価値をみとめない——というのはやはり無理だし、それではあちこちで、おかしいことになってしまう。今日、私が何を食べたいか、なぜそう思うかを、客観的に数値化して他者に示すことなんてできないし、その意味もないはず。「昨日焼鳥をたらふく食べたのに、今日も鳥が食べたい」という欲求は、外側から見てなんら客観性がないが、だからといってこの感情が偽物だとか、承認されないなどといわれる筋合いはないだろう。

 伝説、伝承(昔話)は、近現代に近づき、そして語られる内容の時点から隔たるほどに、「ほんまにそんなことあったんか?証拠は?」といわれがちある。しかし、私たち人間が、どのような「物語」を必要としたり、見出したりしてきたかということそれ自体、またその重要性は、客観的にその内容が証されるかどうかとは違う価値があると知らねばならない。同時にそのことは、そもそも客観性とは何なのか?私たちは客観性ということに一体何を期待しているのか?ということを、逆に問い返してもいるのである(こういう方面に興味があれば、村上靖彦氏『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)がお薦めである)。

 筆者は僧侶として葬儀や法事にいくのだが、祭壇や仏壇に、故人のメガネや腕時計がおいてあることがよくある。故人が大事にしていたもの、かつて自分(遺族)が一緒に選んだもの、何度か無くしたけど、いつもひょいと見つかったりするんですよ…様々な「物語」を聞く。それらは、モノにまつわることとして、もうそれを身につける当人はいないけれども、ことになる。
 故人の遺品、形見に限らず、そういう「物語」を私たちは実は四方八方に持っていたり、知っていたり、伝えたりする。少しずつ、内容は変わることもあるが、それこそが「物語」である、ともいえる。つまり、ある出来事のリアルドキュメントでは必ずしもないし、厳密なリポートとも限らない。そしてそのモノ自体はどこまでいっても「モノ」でしかないのだが、私たちは、そこによく「物語」が宿されていて、そこに深く感銘を覚えたり、共感したり、追体験したりして、しかもまただれかにそれを語ることがある——ということを知っている。

繋がりを見出すとき

 あえて箇条書きからはじめよう。

  • 息子を事故で亡くした。
  • 葬儀の日、開式前に棺の側にいて、ふと気づくと頭上を蝶が飛んでいる。
  • 自身の周りを飛んで離れようとしない。やや戸惑っていると、ふいに後ろから係の人によばれ振り向いた。すると、すぐに蝶は葬儀場のあいた窓から出て行ってしまった。
  • 一年後、法事をする日の朝、仏壇の前で準備をしていると、またもや蝶が部屋にはいってきた。今度はあまり驚かず、しばし見守った。
  • 部屋の中を一通り飛び回ると、遺影の額の淵に止まった。

いかがだろうか。
 箇条書きにしたそれぞれを、繋げて、として受けとめ、そこに様々なことを想起するのは、当事者でなくてもすごくよく理解できるのではないだろうか。もちろん、蝶は、ここ以外にも飛んでいるし、部屋の中に入ってくることもある。額縁に止まることだってあるかもしれない。だからこれらの要素は、相互にという解釈も、もちろんあってよい。が、それはそのまま〝繋がった話〟を、否定するものとはなり得ないはずだ。

 後編では、私たちが日常生活の、世間話という次元でも、様々に「物語」を紡いだり、語り継いだり、あるいは、この世界を生きてこの世界を知るべく、読み解いていることをみてみよう。それは決して、いつも不可思議なことを語るということではなく、また必ずしも空想を語ると言うことでもなく、ごく身近にあることなのだ。

(後編に続く)


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。

次回は5月25日頃に掲載予定です。

第16回 現代日本語ローマ字事情