シーズン2 第20回
「メタい」
尾山 慎
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

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「メタい」とは
「このバトルではいったん主人公が負けて、次の回で覚醒するやつだな」
漫画やアニメの戦いのシーンを見ていて、ついこんなことが浮かぶことがある。物語の中ではまだ主人公は劣勢、苦戦している段階だ。しかし、こちらはすでに物語の「型」を知っている。強敵が出る。いったん負ける。仲間のことばをうけ、不屈の修行を経て、主人公は再び立ち上がる。そして次は、逆転勝利する。そういう流れを、作品の外側からつい予想してしまう。こういうのを、最近「メタい」という。
「メタ」の語源は、古代ギリシア語の meta で、「〜のあとに」「〜を超えて」などの意味を持つ語である(ちなみにアリストテレス(前384~前322))の著作『メタフィジクス』(形而上学)は、本人の命名ではなく、後代の編集者が同著作『自然学』の後に置いた書物群をそう呼んだことに由来するとされる。はじめは配列上の呼び名だったが、内容が存在や原因など自然を超えた根本問題を扱っていたため書名として定着した)。そして「一段上から対象を捉える」という意味合いを帯びた。
「このあと、こうなるな」みたいに分かってしまうのは、漫画なりアニメを見る「私」の認知として「メタい」のだが、ドラマの登場人物についてもそんなことがありえる。たとえば台詞として「ここで私が怒ったら視聴者に嫌われるよね」などといえば、それもまたかなり「メタい」。『ドラゴンボール』や『Dr. スランプ アラレちゃん』では、作品内で「読者」ということばがしばしば出ていた。ドラゴンボールのピラフ一味に至っては、週刊少年ジャンプに連載されているということにまで言及している。登場人物は、本来ならそのドラマの世界の中で生きているはずである。ところが、その人物が「視聴者」や「読者」、「好感度」や「物語の展開」を意識できてしまっているのだ。作品の中にいるはずの人物が、作品の外側を見てしまっていて、「メタい」のである。
高次の視点をもつ私は冴えている?
学生が授業の発表準備をしている最中、友人と「ここは先生に突っ込まれそうだから、先に説明しておくか」などと話し合うとする。これもなかなか「メタい」。発表内容そのものを語っているだけではなく、「発表という場」「先生が質問するという構造」「聞き手がどう反応するか」という、場面そのものの仕組みを俯瞰して、先取りして語っているからである。会議でも同じことがある。議題について話し合っている最中、少し沈黙が流れたとき、上司がやや皮肉を込めていう——「今、本当はみんな反対したいけれど、空気を読んで黙ってるんですよね?」などと。この発言は、議題の中身ではなく、会議の空気、沈黙の意味、発いしにくさの構造を指摘している。その瞬間、会議は会議の外側から眺められている。これもまた「メタい」のである。
「メタい」とは、単に「冷めている」とか「鋭い」という意味ではない。その場を成り立たせている仕組みが俯瞰的に見えてしまっている(と思う)状態である。物語なら物語の型、授業なら授業の構造、会話なら会話の空気、ことばならことばそのものの仕組みが俯瞰されている。ふつう、私たちは物語を見るとき、物語の中にまずは入り込む。授業を受けるときは、授業の流れに乗る。会話をするときは、その場の空気の中で、空気に従って話す。ところが「メタい」瞬間には、その流れがあたかもいったん静止され、「高次」の視点でそれを眺める自分がいる。そして、今自分がどのような形式の中にいるのかが見えるのだ(あるいは見えているつもりなのだ)。世界の中にいながら、世界の外側を意識し、かつその視点から俯瞰するような感覚——「井の中の蛙 大海を知らず」ということわざを知っている蛙がいたとしたら、実に「メタい」蛙である。
ところでこれを「メタる」などと動詞化するのではなく、「メタい」と形容詞化するのは面白い。「メタい」が行為ではなく、発言・作品・場面に生じる性質や状態を表す語だからだろう。「この発言、メタい」「この漫画の、ここの台詞メタい」などというとき、問題になっているのは動作ではなく、内側にいながら外側の仕組みを意識しているように見えるその感じや状態である。従来もしいうなら「メタ的である」という表現だったところが、それよりもどこか軽く、感覚語のように使われる点に現代通俗語の「らしさ」がある。
「メタ認知」能力をもつヒーロー
漫画、アニメにでてくる特殊能力、超能力というのは、『ジョジョの奇妙な冒険』『ONE PIECE』でほぼ出し尽くされているといわれる。この日本の二大少年コミックが長年にわたってあらゆる能力を登場させてきたため、あらたな、能力バトル系作品を生み出すにおいて、これまでに全くない能力を思いつくのは今やかなり至難になっているらしい。特にジョジョは1980年代から連載されているので、その影響はすさまじい。『ゴールデンカムイ』の作者・野田サトル氏のインタビュー(『公式ファンブック 探究者たちの記録』集英社)では、野田氏以外にもあまたの作家が「これから描かれる能力バトルものはすべて先にジョジョがやっている」と口を揃えていることに同意、「もうビートルズですよね」と賞賛している。
そこでだが、あまたある超人の中でも、一風変わったなかなかない「能力」をもつ者として、海外からマーベルの『デッドプール』を紹介したい。デッドプールはマーベル・コミックの型破りなヒーローである。口が悪く、驚異的な再生能力(つまりは不死身)と卓越した戦闘技術を持つが(しかしこれはまぁある意味で「平凡」)、最大の特徴は、自分がフィクションの住人だと自覚しているメタ認知能力をもつことだ。彼は、現実と虚構を隔てる目に見えない境界線「第四の壁」を頻繁に突破する。これはもう公式設定である。「第四の壁」とは演劇に由来し、舞台の左右と奥にある三枚の壁に対し、客席と舞台を隔てる透明な四枚目の壁のことである。本来、演者(登場人物)はこれに気づいてはならない。しかし彼は、この壁を破って読者に直接語りかけ、大人の事情を暴露する。作品の内外を縦横無尽に行き来するこのメタ的な振る舞いこそが、他のヒーローと一線を画す唯一無二の能力の一つとして謳われている。
映画シリーズ第1作目『デッドプール』では、「X-MEN」(超能力者集団)の本拠地である屋敷を訪ねるシーンがある。広大な屋敷なのに、出てきたメンバーは2人だけ。そのとき、デッドプールはこういい放つ。「この広い屋敷に2人だけ? 映画会社が他のX-MENを出す予算をケチったみたいだな」。劇中のキャラクターが、「自分は20世紀フォックス(当時)が制作費を出している映画の登場人物である」と理解し、その懐事情までメタ的にイジって笑いを取る、というわけだ。また、彼が「ミュージック、スタート!」とカメラの方に向かっていうと、BGMが流れ出したりする。2作目では、「この映画は実はファミリー映画だ。いや、本当だ。よいファミリー映画は、たいてい残酷な死から始まる。『バンビ』、『ライオン・キング』……」といった調子で語るのである。このように、「今からお前たちが見る映画のジャンル」「これは映画で、その第2幕が始まる」といった、私たちの世界、映画というエンタメ——これらを観客にダイレクトにプレゼンしてくるのである。もはや映画の登場人物ではなく、観客と一緒に自分の映画を鑑賞しているコメンテーターの領域である。
1990年代、一世を風靡した『古畑任三郎』では、番組が始まると、画面が真っ暗になり、スポットライトを浴びた古畑任三郎(田村正和演)が一人で立っている。彼は画面の「向こう側」の視聴者に向かって直接語りかけ、これから始まる事件のヒントやちょっとした雑学を披露する。古畑はまさしく第四の壁を破り、視聴者を「事件の目撃者(相棒)」として物語に巻き込んでいく。
神に問いかける「メタい」私
「神よ」と人が呼びかけるとき、そこでは何が起きているのだろうか。もちろんまずは祈りであり、願いであり、訴えであるだろう。「助けてください」「どうか守ってください」「なぜこんなことが起こるのですか」と、目に見えない存在へ向かってことばを投げかける行為である。そこには、慰めを求める心があり、すがる気持ちがあり、感謝があり、畏れがある。そこでこの、神に問いかけるという行為を、「メタい」と重ねてみると、なかなか興味深い。人は、苦しみの真っただ中にいるとき、ただ苦しんでいるだけではいられないことがある。「なぜ私はこんなに苦しいのか」「この出来事には何か意味があるのか」「この世界はどうしてこのようにできているのか」と問う。そしてその問いが、時に神、この世界の外側へ向けられる。
このとき人は、自分の内側だけに閉じこもっているのではないことになる。苦しんでいる自分、迷っている自分、怒っている自分、祈っている自分を、どこか少し外側から見ようとしている。自分の感情に巻き込まれながらも、その感情をもう一段大きな枠組みの中に置こうとしている。つまりこれはメタいのではないか、ということだ。
もちろん、人は本当に世界の外へ出ることはできない。私たちは世界の中に生きている。自分の身体、自分の時代、自分のことば、自分の経験から完全に自由になることはできない。
それでも人間は、世界の外側を想像することができる。「この世界を作った存在がいるのではないか」「この出来事を、私とは違う高い場所から見ている存在があるのではないか」と考えることができる。これは、世界の中にいながら、世界を外から見ようとする営みである。その意味で、神という存在を考えることには、世界そのものを対象化する働きが含まれている。その神に向かって自分の苦しみや願いを語るとき、人は自分自身をも対象化している。「私はいま苦しい」「私はいま迷っている」「私はいま救いを求めている」。そうした自分のあり方を、神という大きな視点の前に差し出しているのだ。
もちろん、こうした神への祈りや呼びかけをひとくくりに「メタい」とだけいうことはできない。たとえば、「神様、どうか合格させてください」と願うとき、それは自己を客観視する行為という前に、率直な願望の表出というべきだからだ。「神様、助けてください」とすがるとき、それは冷静な自己分析というよりまずは切迫した救援要請であるだろう。情緒や身体性や切実さというのは、「祈り」とは何か、ということにおける肝心要である。ただ、それを踏まえた上で、やはり神への問いかけには自分をもう一段外側から見ようとする契機があると思うのだ。自分の苦しみを、ただ「苦しい」で終わらせず、「この苦しみは何なのか」と問い直す。自分の人生を、ただ「自分の人生」としてだけでなく、「この世界の中に置かれた私の人生」として見直す。これはやはり「メタい」のではないだろうか。「この世界を作った主」へ問いかける様は、あたかも第四の壁を突き破る「メタい」登場人物達のようだ(そういえば、『古畑任三郎』と同じ三谷幸喜脚本のフジテレビ系ドラマ(2025年10月~12月放送)「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」は面白い題名だ)。
宗教は、単に超自然的な存在を信じることだけではない。人間が、自分の生を、自分だけの視点からではなく、より大きな枠組みの中で理解しようとする営みでもある。死、苦しみ、不条理、罪、救い、感謝、畏れ。これらは、日常の利害や合理性だけでは受け止めきれない。だから人は、それらを見つめるための高い視点を求める。その高い視点を、ある人は神と呼ぶ。ある人はさとりと呼ぶ。ある人は天と呼ぶ。ある人は自然、宇宙、いのち、祖先、縁と呼ぶ。
呼び名は違っても、そこには、自分自身と世界を、もう一度大きな視野の中に置き直そうとする「メタい」認知の働きがあるのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)、『文字の窓 ことばの景色』(花鳥社、2026)。

