シーズン2 第21回
「お葬式」と時代性
尾山 慎
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

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ありえないから笑えた『テレビ葬式』
1980年頃から桂文枝(当時桂三枝)が演じ広く知られるようになった〝創作〟落語に、『テレビ葬式』という噺がある。この噺では、葬式がテレビ番組として実況を伴って進行する。厳粛な読経や弔辞の途中に、テレビ番組よろしくコマーシャルがしっかり挟まる。しかもそれが葬儀社の広告であったりする。当時は、それが大いに笑いになった。なぜなら、葬式をテレビ中継するなど、普通では考えられなかったからである。もちろん葬儀社のコマーシャルもおそらくはタブーであって、あり得なかった(ご存じの通り、いまは普通にいろいろ流れている)。葬式は、親族や近しい人々が集まり、死者を送る場であって、お茶の間に向けて放送されるものではなかった。そこにテレビ番組の形式をかぶせるから、不謹慎で、場違いで、だからこそ笑えた。

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しかし、〝早くも〟というべきか10~15年ほどたった1990年代中盤以降に、桂枝雀が『くやみ』という噺のまくらで、この『テレビ葬式』について触れ、さすがに有名人の葬式ではあるものの、それでもテレビ中継自体はもういまや当たり前になってしまいましたね、という趣旨のことを語っている。あのネタはそういう意味でやりにくくなってしまった(普通にテレビで見られるようになったので、笑いが起きにくい)というのだ。この間わずか十数年である。
笑いの設定に、現実が追いつくと、その設定はもはや笑いではなくなってしまう。いまでは、家族葬、葬儀の動画配信、遠方からのリモート参列などが現実になっている。もちろん、それらはコントでもなければ不謹慎なものでもない。遠方にいて参列できない人、病気や高齢で移動できない人にとっては、むしろ大切な弔いの手段である。このように、かつて「ありえないから笑えた」ものが、いまや「普通に行われる」ものになっているわけで、この変化は、なかなか興味深い。
伊丹十三『お葬式』が描いたこと
故・伊丹十三監督の映画に『お葬式』というのがある(日本アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞などを受賞し、キネマ旬報ベスト・テンでも第1位に選ばれた高評価作)。1984年公開のこの映画は、伊丹十三の監督デビュー作であり、妻・宮本信子氏の父の葬儀を主宰したその実体験から着想された作品である。物語は、突然身内の死に直面した夫婦が、戸惑いながら通夜・葬儀・火葬までの三日間を経験するというものだ。劇中では葬儀の具体的なプロセスを、遺族がマニュアルビデオを見るというシーンまで交えることで、結果的に実用的なディテールをもち、ドキュメンタリータッチで描かれた、いわば日本初の「ハウツー映画」でもあった。また、独自のアングル、カット割り、洒落の効いたセリフ回しといった「伊丹調」と呼ばれることになるスタイルが、デビュー作にしてすでに随所に見られ、日本映画の地平を広げた、時代を代表する作品であると評されている。当時としては、葬式をここまで正面から、しかもユーモアを交えて映画にすること自体が新しかった。葬式は悲しみの場であり、厳粛な場であり、おおっぴらにするものでもないから、そもそも映画の題材になるなんて、という感覚が強かったのである(そういう意味では、落語『テレビ葬式』は映画『お葬式』よりさらに数年早いから、かなりの先取りである)。
変わりゆく葬儀のかたち
この映画は、決して葬式そのものを茶化したり卑下するものではない。死者を送るという重い出来事を前にして、段取りがわからず、親戚に気を遣い、僧侶への応対に戸惑い、挨拶のことばを探し、費用のことも考えなければならない、また時に激しい現実逃避をしたり(主人公はなんと不倫しているという設定)という生々しい生者たちの姿を描き出したものだ。そこには、葬式=悲しみ、というだけでは片づかない遺族の現実がある。遺体をひとまずどこに安置するか。誰に連絡するか。僧侶にはどう頼むか。食事はどうするか。お布施はいくらか。参列者への挨拶はどうするか。こうした一つ一つの段取りの積み重ねで、死者を送る儀礼は成り立っている。現在は、そうしたことの多くを葬儀社が補助、代行してくれる。家で葬式をすることもめっきり少なくなった。マンションではやりにくいというのももちろんあるだろう。社会の変化とともに、葬送儀礼も変わっていくのだ。従って昨今、葬式不要論が出てくるのは必然だろうと思う。個人的にはもちろん、僧侶という職業柄、不要とは全く思わないのであるが、21世紀も四半世紀を過ぎたいま、大いにあり得る意見だろうなとひしひし感じている(寺や葬祭業者的には、なかなか危機的な空気である)。そもそもこの種の不要論は、葬式に限らない。年賀状も、結婚式も、卒業式や入学式も、不要という意見は大小問わず必ずでてくるものだ。年賀状なら LINE でよい(あるいはそもそもなくてもよい)、結婚式なら入籍だけで、卒業式なら証書だけ送付すればよいといった具合。〝形骸化した無駄な儀礼であり、手間も費用もかかって不合理、面倒なだけ〟——これが不要論のよってたつ根幹であり、ベースは経済論的コストでシビアに、現実的に測る、合理・功利というところにある。しかし、そもそもこれらの儀礼について、合理性・タイパ・コスパといった観点で捉えていない人たちにとっては、そこが議論の焦点にはならないから、必然的に不要派と論点がかみ合わないままずっと平行線を辿ることになる(もちろん、「お互い」に好きにすればいいとおもっている、という意味での「平行線」もあるだろう)。従って、蓋を開ければ、下火にはなっても完全にはなくなりはしないという現実がひたすら続いているわけである。
儀礼の意味
葬式という儀礼形式によって、遺族は時間を前へ進めることができる面があるのは事実だ。ぎこちなくても、わからなくても、人はそうして儀式・形式に支えられながら死者を送り、残された自らはまた、明日からも相変わらず生きていくのだ。伊丹監督はそういった姿を、けなげで、懸命で、しかし時に滑稽でさえあると捉え、描いてみせたといえよう。だから、見ている側からすれば我が身の不幸でないがゆえに笑えてしまい、また、我が身の不幸でないのに、どうしようもなく切なく身につまされる。落語『テレビ葬式』では、喪主が「死ぬ前までは生きてましたのに!」と泣きながらいう台詞があって、大きな笑いどころなのだが、本当にその通りであり、大真面目にそう言ってしまう気持ちもまた、わかる気がする。単に、いわゆるお笑いの「ボケ」としてかたづけられない「切実さ」にどこか共感もしてしまう——そうだよな、死ぬまでは、生きていたんだ、と。
サンドウィッチマン『葬儀社』と商売のことば
さらに時代が下って、お笑い芸人サンドウィッチマンのコント『葬儀社』というのがある。漫才の M-1グランプリで優勝して全国区になる前の、2007年以前のネタとして知られ、葬儀社に相談に来た客と、やたら商売っ気のある葬儀社スタッフとのやりとりで笑わせる。このコントで面白いのは、葬式という厳粛な儀礼に臨むにあたり、営業トーク、サービス、特典、割引、ポイントカードのような消費社会のことばが入り込むところである。設定としては、まだ亡くなっていないのだが、いずれ遠くないうちに葬式を出すことになるので事前相談にきたというもの。そこで、「ポイントカードはお持ちですか」などと言われてしまう、その場違いさが笑いになる。しかし、いまは実際に、葬儀社の会員制度、事前相談、事前予約、割引特典、支払い方法の多様化、ポイント付与のような仕組みが実在する。葬式は、死者を送る儀礼であると同時に、現実には場所、人手、道具、費用、段取りによって支えられている。そこにサービス業の論理が入り込むことは、ある意味では当然なのかもしれない。だからこそ、サンドウィッチマンの笑いは当時として、実に鋭かった。葬式が現代社会の中で商品化され、サービス化され、営業のことばによって説明されていく、それを〝先取り〟して、笑いにしたのである。その世界は、やはりほどなく、本当にやってきた。かつて『テレビ葬式』がそう長い時間がかからないうちに現実になったのと同じように。
笑いが現実に追いつかれる——現代の葬送とこれから
冒頭に紹介したように、かつて「笑い」になったのは、現実にはそれがありえなかったからである。葬式をテレビ中継する。その中継の途中にコマーシャルが入る。葬儀社がポイントカードを出す。こうした発想は、死者を悼む場に、テレビ、広告、商売の論理が入り込むというギャップを笑いどころとみるものであった。しかし、社会が変わると、その「ありえない」は、いつのまにか「ありえる」ものになる。遠方の人が葬儀をオンラインで見る。生前に葬儀を予約する。費用の見積もりを取り、会員割引を使う。支払いでポイントが付く。従ってもはや今、それ自体は笑いでもなんでもなくなってしまった。
葬式は本来、人が集まり、手を合わせ、お経を聞き、香を焚き、同じ空間に一堂に会して死者を送る厳粛なる儀式である。そこに、テレビ中継、動画配信、予約、会員制度、ポイントカードといったごく日常的な商業的な様態が入り込む。そのちぐはぐさがかつては笑いになったが、いまはそうして商業社会の仕組みの一つになっている。良いとか悪いとかではなく、これは〝事実〟である。
先ほども少し触れたが、一部の宗教学者をはじめ、現代社会にあっての葬送儀礼の無意味さ、不合理などを指摘する言説が、しばしば出される。しかし、実際には冠婚葬祭儀礼は社会とともに、非常に柔軟に姿を変えてもいるのである。40数年前、たしかにここ日本では、葬儀社のテレビ CM なんてあり得ないと笑っていた。しかしいまや CM を見かけない日はないほどではないか(一見なんの CM か分からないときもあるが)。葬送儀礼ということ一つとっても、旧態と新規とがドラスティックに同居するさまが、見て取れる。これからも、社会変容の縮図として、変転し続けていくことだろう。
葬制と死生観を専門に研究する山田慎也氏によれば、現代の葬送は、家や地域が死者を送る時代から、個人が自分の死を準備する時代へ移りつつあるという。しかし、弔いは本来、本人一人で完結するものではない。死者は、残された者のことば、記憶、儀礼を通して、はじめて生者たちの世界との関係を結び直される。葬儀や法事は、単なる形式ではなく、死者と生者、過去と現在、個人と共同体をつなぐ「場」でもあると指摘している。弔いとは、死者を孤立させず、生者もまた孤立させない営みなのである(朝日新聞 2026年6月13日付け オピニオン&フォーラム 山田慎也氏インタビューによる記事)。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)、『文字の窓 ことばの景色』(花鳥社、2026)。

