軍記物語講座の始発◆シリーズ企画会議を公開
5. 太平記の表現—和歌的なものと漢文的なもの—
松尾 そうするとだんだんもう項目が狭まってくるんですけども、ここに挙がっていないもので、立てた方がいいっていう、従来の太平記研究に不足していたテーマ、皆さんからご提案どうですか。
小秋元 私はやはり、太平記研究で重要な進展というのは、北村さんがやられた和歌のことが大きいなと思っています。
松尾 こないだ出た『中世文学』63号(2018年6月)で。
小秋元 ええ、その前に、『『太平記』をとらえる』の第1巻(笠間書院、2014年11月)でしたっけ。
北村 ええ、第1巻ですね。
松尾 表現論だよね。
北村 そうですね、『『太平記』をとらえる』に書いたものは、やっつけ仕事的だったんですけれど。
松尾 許せない!
北村 やっつけ仕事というか、自分の中では不完全燃焼というか、全然納得いってないんですよ。ただもう、とりあえずデータだけ集めて、棒グラフまで載せて、それらしく見せかけただけなんです。そのうえで、『定家八代抄』と『歌枕名寄』が実は太平記の和歌的な表現の下敷きにあるんじゃないかっていうことを、状況証拠だけで言ってみたわけです。ただその後、連歌を研究している方から教わったんですが、連歌の寄合書とか連歌師が参照していたような資料で調査すると、実は同じ傾向があるんだそうです。『定家八代抄』と『歌枕名寄』を連歌師たちはよく見ていた可能性があるらしくて。私は連歌についてはまったく不勉強で、照らし合わせも何にもしていないんですけれど、太平記と連歌資料との関わりは追究する必要がありそうです。実際、太平記本文を見ていく中で、いかにも和歌的な表現なのに、でも『国歌大観』で検索すると見つからないっていうのが、ちょこちょこあるんですね。
松尾 でもそれは、軍記全体に言えるんじゃないのかな。それで?
北村 それもあって、太平記の表現研究というテーマは、連歌由来のレトリックも本当はちゃんとやらないと完成しない、さらにいえば、和歌と連歌と漢詩文と全部揃えないと終わらないんだなっていうことです。で、それ全部終わらすのって、何年かかるかな、結構手間暇かかるなあと。
松尾 やります?
北村 やってみたいんですけれど、でもこの論集は来年(2019年)出されるんですよね。来年までに間に合わせる自信はないです。
松尾 連歌師の教養って、あの当時としては大したもんだよね。『源氏物語』が、データベースのように頭の中に入ってなきゃいけないし。「連歌師と太平記」で1本、「和漢混淆文」で1本というふうに、表現論を2つ立てますか?
北村 和漢混淆文については、『中世文学』63号に書いた論文の最後に、結びにかえてという形で書いてみたんですけれど、太平記の中には、和歌的なものと漢文的なものをただ混ぜるだけじゃなくって、方法として何かこう……。
松尾 使い分け?
北村 方法としてうまく使おうとしているところがあるなって。
松尾 うまく使おうっていうのは?
北村 論文の中でちらっと触れたのが、例えば、新田と足利がそれぞれ陣を張って対立しているときに、新田のほうを漢詩文的な表現で書いて、足利を和歌的に書くとか。あるいは戦じゃないんですけれど、巻四で万里小路藤房が流罪にされるっていうところで、彼が惚れた女性の様子が、「琵琶行」あたりを引いて、漢詩文的に書いてあって、
松尾 あの「間関タル鶯ノ」とか何とかっていう、
北村 で、それに対して、藤房のほうを和歌的な表現で書いたりしています。まあちょっと意外な組み合わせかもしれないんですけれど、漢文的なものと和歌的なものを、男女を描写する文脈のなかでわざとぶつけてあわせているようなんです。
松尾 普通逆だよね、漢詩と和歌が。
北村 そうですね、ちょっと面白いなあと思ったんですけれど。
松尾 面白いね。
北村 何かそういう、単なる和漢混淆文として混ぜるだけじゃなくて、物語の方法として。
松尾 ああ、意図的にね。
北村 そうです。
松尾 平家物語ははっきりそうだよね。漢文的な文体の合戦場面に、突然和文的なものが入ってくると、インパクトがつよい。
小秋元 そうですね、どういうきっかけでどういう文体が綴られるようになるのかというのは、面白い問題ですよね。
北村 今、私が1年以内に書けって言われたら、それかなと思います。
松尾 じゃそれで、決まった。表現論を、仮題で「和漢混淆文」として、これは北村さん。じゃあ表現論は2本。「連歌師と太平記」って題で依頼したら、執筆者がどう書くかは分かりませんけどね、こちらとしては太平記の表現の基盤、背景となる教養について書いてほしいという断り書きをつけて依頼しますかね。あと、項目に関してどうですか。
6. 日本語学から見た太平記
小秋元 私は今まで欠けてた視点として、日本語学との関連性という問題があるのではないかと思っています。
松尾 例えば。
小秋元 長門本平家物語を読んでいて、常々その言語のことを考えていました。松尾先生も長門本に出てくる語彙には、室町のものが多いのだとおっしゃっています。そのように、言語から何か照らせるものが、太平記の場合にもあるのではないでしょうか。
松尾 日本語学専門の人はね、そういう、語彙の様相から時代を絞るのに極めて悲観的。
小秋元 ああ。
松尾 てんから相手にして貰えない。
小秋元 そうですか。
松尾 非常に難しいっていうか。だから、時代をあぶり出すというよりは、日本語学との関連が今まで不足していたのはその通りだと思うんで、日本語学に何を望むかですね、皆さんが。
小秋元 例えば、『源氏物語』なんかでも、紫上系と玉鬘系の言語を比べると、意味のある形で差が出るなんていうことを、私の同僚の日本語史の教員なんかは、言ったりするんですね。で、そういうことを考えてみると、太平記を素材に、言語学的に扱うと何が分かるのだろうか、何か考えてくれないでしょうかね。
松尾 テキストはどうします?
小秋元 ああ、そうですね。
松尾 日本語学の人はね、テキストに何を使うかに厳格。検索するときに、それによって違っちゃうから。
小秋元 検索できないといけないんですか。
松尾 そう。用例の数で勝負するわけじゃない? 1例違っても全然違うから、校本のできてないものに関しては、責任持てないみたいに言うんですよ。どうですか、今の諸本研究の状態で。
小秋元 いや、校本がなければ研究できないとは言わず、言語学者が太平記読んだときに、何が分かるか、を。妄想でもいいから。
松尾 例えば第一部と第三部、まあ今までの三部構成説で、第三部とそれ以前とではどう違うかとか?
小秋元 それはいいかもしれませんね。
松尾 じゃむしろ、日本語学の人に選んで貰うか。太平記を題材として何がやりたいですか、と。それで1本。あとどうですか。
小秋元 基本項目とあるのは、どういう論文をイメージされているのでしょうか?
松尾 これは必須としてなきゃいけないだろうという項目を、一応挙げたんですよ。成立と展開で1本。諸本論で1本。それから、構想と構成、こういう題名がいいかどうか分からないけど、これで1本。で、人物造型論はどうするか。いわゆる人物論は日本史の方に任せて、人物造型っていうふうにすれば、文学の方になるけども、要るか。1本だけで書くのが難しいでしょ?
小秋元 今、軍記研究で人物像に関する論というのはあまりないですよね。
松尾 ただ、太平記の作中人物で今最も注目すべき人がいて、それが研究されてないとかいうのであれば、ここで。
小秋元 それはむしろ和田さんあたりが。
松尾 人物でなくても階級でもいいけど、階層とか。
和田 階層、階級?
松尾 だから、日本史的なテーマを文学側からやる。一時期は佐々木道誉が流行ったでしょう? 今は後醍醐天皇が、流行っているっていう言い方は悪いけど。
和田 その前は大塔宮が流行りましたよね。
小秋元 大塔宮流行りましたね。
松尾 今は特に、そういうテーマは、思いつかないですか。
和田 私は、書きたいって人があんまりいないです。
松尾 じゃあこれは削って。ほかに今、必要なテーマっていうのは、いいですか、特に。