第11回 
時間は流れているけど、止めてみる(後編) 
尾山 慎

好評発売中の『日本語の文字と表記 学びとその方法』(尾山 慎)。
本書内では語り尽くせなかった、あふれる話題の数々をここに紹介します。
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。

 

無常観

をんしやうじやの鐘の声、しよぎやうじやうの響きあり。 しやさうじゆの花の色、じやうしやひつすいことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春のの夢のごとし。(『平家物語』)

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。(『方丈記』) 

 有名な日本の古典、その出だしだが、そらんじているかたも多いことだろう。この2つに共通している考え、それは仏教の無常観である。何事も永遠はなく、すべてのものは移りゆき、そしていずれ滅するという考え方で、仏教世界観の根幹を成している。生老病死ということばがあるが、いずれも、「変化」であって、「不変(普遍)」の対極にあるような出来事だ。この「無常」とどう向き合うか。特に老・病・死という「無常」の象徴のような、しかも誰しも降りかかるこれらにたいするあり方、仏教はそれを繰り返し説く。
 さて、言葉の変化も、まさに「無常」であって、片時も止まることはない——というべきところだが、そういうふうに考えても、なかなかピンとこないのではないだろうか。

構造物としてみるには

 言語学では、様々なアプローチがあるが、西欧を中心によく取り組まれてきたのが構造主義というものだ。言語学に限らず、文化人類学や哲学領域にも広く大きな影響をもたらした、20世紀を代表する思考様式、考察の型のようなものだが、元はといえば言語学に端を発する。
 「構造」というのは、一般にも普通につかう言葉だが、学術シーンでは、骨組みをもって各要素が張りあっている関係で、互いに支え合っているそのあり方、あるいは仕組み総体をいう。ほかでもない言語の研究は、こういう関係性で把握する方法が伝統的にある。いわゆる構造主義言語学である。一言で言えば、言葉の仕組みや関係性をとして観察するもので、言葉や統語(文法)のシステムや張り合い関係を明らかにしていく。日本語はどういう音の集まりからできていて、アとイ、アとカはどのように違うか、という差異を見出していったり、どのように語彙が分布しているかというマップを考えたりもする。たとえば「高い」は「低い」と対応するが、「安い」とも対応している。「あたたかい」は「さむい」と対応する(気温)が「つめたい」とも対応する。「つめたい」は「あたたかい」(料理など)以外に「あつい」とも対応している(温度)。

 「動物—ほ乳類、は虫類、両生類……」「ほ乳類—ヒト、サル、イヌ……」と示されると、仮に唐突に見せられたとて違和感はないが、「動物、ひまわり、魚類、鉛、江戸時代」としめされると、いかにもばらばらでカテゴリーが合っておらず、いったい何のリストなのか戸惑うことだろう。その戸惑いは、階層を無作為に横断していることによる意味のわからなさから来ているし、おもわず、背景に〝貫く何か〟があるのではないか?と考えてしまう(この例では、本当に何も関係がない)。構造を思わず知らず見出そうとしたり、あるいは既存の構造に照らして「なんのリストだ??」と不審に思ってしまうのだ。
 さて、こういう言葉や知識のカテゴリーや階層とか、関係性をかんがえるときに、とりあえず「静止」していることとして観察し、捉える必要がある。仮に、(本当の建設現場の)建造物の骨組みである鉄骨が、大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりと、常時動くようでは、いっこうに構造の全容が見えてこないだろう。ビルの建ちようがない。言葉は常に変わる、変化するとはいっても、構造を見る場合は、とりあえずポチッと静止ボタンを押して止めないことには観察出来ない、というわけだ。たしかに、静止してこそ見えてくるものがある。このとき、「動物」という言葉も、「ひまわり」という言葉も、全部既存のことばとして、そういう意味で公平に扱っている。それだからこそ、どういう相互の位置関係にあるかということが重要になってくる。言語の構造主義的研究というのはそのように、「静止物」とみなして、そしてそこから主として理論的なことを見出していくのである。うねうねと動き回り、現れたり消えたりするものから理論を見出すのはなかなかむずかしい。だからちょっとポーズにしてみてみよう、というわけだ。

そうはいっても言語はやはり変化する

 現代語とて変化している。たとえば去年どんな言葉が流行したか覚えているだろうか(是非「ググって」みてほしい)。あ~そんなのあったな、と思うとすれば、少なくとも今現在は、去年と一緒ではないという言い方も可能だろう。意外におもわれるだろうが「ググる」というのもかつては流行語だったが、いまやごく一般化してしまった。あれだけ流行ったはずの「おもてなし」は、もとの普通の言葉に戻ってしまった感がある。ここ最近で、教育現場にいる筆者の周りでよく使われたものとしては、なんといっても「対面授業」というのがある。現在、リモート(WEB)と選択の可能性がある場合のみ用いられ、辛うじて生き残っているが、ほんの1年前は、対面か、リモートかを明言しないといけない場面がまだまだあった。コロナ以前は、授業と言えば対面しかなかったので、わざわざそんな言葉を冠する必要などなかったが、対面とリモート/ WEB という新たな対立が生まれた。では、これは一種の変化なのだから、静態的な構造物というならおかしな話ではないか?とも思えるが、実際はこのような例はというように考える。歴史的変遷という大げさな話ではなくて、構造の中の対立関係の変化ということである。鉄骨がいくつか組み変わったり増えたりしたようなものだ。

私たちの認識

 私たちは、時間が刻一刻と過ぎて、モノ(肉体含む)・コト・ココロが移りゆくことを知っている。それは、実は身に染みて知っているはずである。ただ、蛇口をひねってお風呂がたまっていく、あるいは栓を抜いたら排水されていくプロセスのように、明白に、如実にはわからないし、どちらかといえば花弁が開いていくような、気づけばそうなっている、というところだろうか。それに、変化するとわかってはいても、昨日と同じく今日がやってくるわけだし、また明日もきっと同じように明けるというふうに思う。日本語は昨日も今日も明日も変わらず通じる。すべて、それは、さしあたりその通りである。本当に静止しているとは思わないが、肌身に感じるほど変化しているとも思えないことが身の回りには沢山ある。変化のスピードがゆるやかなものほど、普遍性を感じてしまうのは当然かもしれない。
 冒頭の文学作品はじめ、仏教が、口やかましく「無常」を繰り返すのはなぜだろうかと考えてみたとき、それは、ついつい普遍(不変)を思いがちだから、ということができるのではないか。不変だとおもうものが失われたり、損なわれると、私たちはひどく狼狽し、不安に思う。その前に「すべては移りゆく」と知っておけ、というわけである。古来より、もっとも「不変」という錯覚にも似た感覚が打ち砕かれるのは、身近な人の「死」であっただろう。「死」ほどに、人間に無常という思いを深く刻みこむものはない。あらゆる宗教は生と死とを語るけれども、仏教は、無常観の中に死を語るところがある。

 繰り返すが、私たちは変化(無常)も知ってはいるし、一方で、不変(普遍)に遊んだり思いを委ねたりもする。これを、認識のスイッチングないし〝両刀遣い〟とみれば、言語学の通時論も共時論(前回コラム参照)も、いずれかが、無理筋の方策というわけでもなさそうではないか。ルーマニアの言語学者エウジェニオ・コセリウは、共時論に批判的な目を向け、言語は変化するという宿命にあること、言語研究のあるべき道を述べた(田中克彦・かめいたかし共訳『うつりゆくこそことばなれ ——サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア』クロノス 1981年、田中克彦訳『言語変化という問題——共時態、通時態、歴史』岩波文庫、2014年)。また、コセリウは、ラングとパロール(前回コラム参照)という二分も批判している(中途的なものを想定する三者を提唱)。筆者は、古典語を研究しているので、個人的にコセリウの言葉は心強いのだが、ソシュールをはじめとする構造主義言語学が、時間変化を無視してみたり、個人を無視して抽象にだけ振れたりするということについて、それほど荒唐無稽な論陣をはったわけでもあるまい、とも思えてしまう。上にのべたように、そもそも我々は、変化と不変の両方を見ようとする生き物ではないかと思えるからである。もっといえば、両方でとらえるのが得意なのだ。では、静止物と見做したら何が見えるか。不変でないのは分かっているが、いま一旦不変としてみて観察してみよう——こういうことだったのではないか。いわば、百も承知で想定してみた、というところだ(それをいうならコセリウも、それを承知で、しかしあえていおうと、かの書(前出)を記したのかもしれないが)。
 ところで、不変(普遍)と無常の間にあって、混乱と不安の時代にもがきつつ、死をはじめとする無常と、この世界の永遠性を願うというあまりにも相反する思いに見舞われて、歌に託した人たちがいる。それは遥か昔のことなのだが、我々は幸いにそれを万葉集に見ることができる。これはまた機会を改めて紹介しよう。

 


著者紹介

尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。


第12回 「この世のどんなものより」と言われて