第23回
生み出され続ける言語表現
尾山 慎
既存のパーツの〝組み合わせ〟と〝使い回し〟
いきなりで恐縮だが、コラム表題は「生み出され続ける」としたものの、言語表現の実際は、既存の組み合わせと、使い回しがほとんどである。
この世界のすべてを、人間目線で、できるだけ大きく切り分けるとすると、「モノ」「コト」「ココロ」の3つに分けられると思う。
モノ——物理的な存在(生物としてのヒト、様々な物品や、空気、木や火などまで)
コト——目に見えない事象(人と人との関係性、立場、法律など)
ココロ——感情
という3つである。当然、3つは相互に関係し合う。たとえば「おもちゃの取り合いでお兄ちゃんと喧嘩したけど仲直りできてよかった」「放火で家財を失ったが、家族は無事で安堵した。犯人は逮捕、収監された。罪を償って欲しい」といったことは、いずれもこの3つの要素からできている――厳密に言えば、振り返ってことばでもって記述しているのである。「おもちゃ」「家財」や「炎」はモノ、「お兄ちゃんとわたし」「喧嘩」「犯人」「罪」などはコト、「よかった」と思ったり、「被害をショック」に思うのはココロである。「犯人」は生身の人間(モノ)だが、犯罪を犯した人という(コト)がそれを覆っている、あるいはタグ付けしていることになる。
3つそれぞれの内実の多様さ、時間にともなうそれらの変転、変遷(モノの変化、コトの変化、ココロの移り変わり)や、個別性(人によっていろいろ)、状況のいろいろ、そしてなにより3つの相互の関係性が常にあるから、結果として、発生する事態(パターン)は、ほとんど無限である。つまり、ことばで記述したいことが、そうして過去・現在・未来にわたって無限に産出されつづける。モノだけは有限のようにもおもえるが、次々に生み出されるので、やはり、事実上無限であるといっていい。このとき、無限にありうる事象に、ことばを無限に用意して一つずつあてていくかというとそんなことは有り得ず(というか不可能)、冒頭に述べた通り、組み合わせと使い回しで対応する。
あいまいさがあることの良さ
ことばは、3つの事象それぞれに名前を与えて私たちに認識させてくれるが、とくに、コトとココロは、目に見えず、匂いがあるわけでもないので、ことばが頼りになる(目に見えないものを認識させ、想像させる道具ということは以前に述べた(第12回))。と同時に、ことばで言いようがないこともまた、たくさんあるのはもちろんである。そういう場合、どうしても言わなければならないとしたら、既存のことばのつぎはぎでいうしかない(全く新しいのを生み出す、というのは滅多にない)。「ネコのしっぽの付け根の所」「お肉を焼いたときの、脂身のそのカリカリの部分」などと。
「机」ということばがあるが、「机の角」などは複合(ことばの組み合わせ)でいうことにして、一語は用意されていない。またことばは様々な場面で〝兼業〟しているので、その分、細かな違いに対しておおらかだったりする。たとえば「机の前」というのは結構曖昧である。教室で、黒板に向かう形で座っているとする。そのとき「机の前に立って」、といわれると立ち上がって、椅子とは反対側の方向にいって、なおかつ黒板のほうを向いて立つと思う(背中側に、いま座っていた椅子と机がある状態)。しかし、そもそも「机の前」に座っていたともいえるのではないか。よく「遊びに行く前に机の前にまずは30分座って宿題を」などといったりするではないか。「前」ってどっちなんだ、というのは、視線や基準によって曖昧である。曖昧なままコンテクスト(文脈、状況)、先行知識に依存しつつ、いわばだましだまし使っている。ちなみに、関西方言だが、「前(アクセント:ま低・え高」だと前方を意味し、「前(ま高・え低)」だと過去、ないし後方という意味になる。なんと、正反対に近いことを一つのことばが担当しているのである。こういうのをなんとなく、よしとして、皆の共通記号として使っている。
なんとか工夫して伝える
ことばは、ものすごい数があると思われているが(辞書にいくつのっているか、という基準だとわかる。『日本国語大辞典』(小学館)だと、52万語ほどだが(第1回参照)、それ以上に、世の中のモノ・コト・ココロのほうが遥かに多く、既に述べたように、その場その場、一瞬一瞬で多種多様であり、結果的に事実上無限だ。絶対に、ことばの数のほうが上回ることなどあり得ない。従って、ことばは、先ほどからみてきたように、それらを言い表すべく、兼業、掛け持ちをあちらこちらでしている(し、ことばで記述されないままのことのほうが、実際は大半である)。
「シンドイ」ということばで表される気持ちも、本当は1人1人、その場その場で違うはずだが、みんなが使う記号として、それでよしとしているのだ。
〈もししんどかったら赤い旗を上げてください〉といって旗が皆に一本ずつ配られるとしよう。しんどさは人それぞれ、「もう無理だ」とおもうタイミングや状態も様々。しかし、〈赤い旗をあげる〉を共通のサインにしておけば、ともかくも他者に伝わる。ことばは基本的にはこの〈全員に配られた赤い旗と、定められたその使い方〉に相当する。
そのうえで、ちょっとでもしっくりくるように、ちょっとでもニュアンスが伝わるように、「かなしいような、つらいような、なさけないような……」「かなしいといえばかなしい」「かなしくないと言えばウソになる」などと、あれやこれや言ってみるのである。組み合わせの自由度というところに委ねて、対応している。
毎年流行語大賞などが発表され、新しいことばが次々生み出されているように思われるかも知れない。しかし、実際は、音のならびそのものが全く新しいものなど、まずない。そんなのは生み出したとてなかなか通じないからである(知らない音の響きでは、意味は喚起されない)。大体は既存のことばの転用である。たとえば昨年のユーキャン流行語大賞の一位は「アレ(A.R.E.)」(阪神タイガースの優勝にまつわって)だったが、日本語の伝統的な指示詞そのままである。ほかにベストテンにはいった「地球沸騰化現象」は、この組み合わせは初でも、「地球」「沸騰」「——化」「現象」は、いずれも知っていることばの組み合わせだ。
「ノイラートの船」
哲学者、オットー・ノイラート(オーストリア、1882-1945)は、言語の運用とその変化を、航海に譬えた。乗船中の船に改造、改良が必要だとしても、大海原の中、途中で降りるわけにもいかないし、部品をよそから調達することもできない。船をばらばらに分解することもできない。従って、乗ったまま船の中で、部品を使いまわしたり再利用したりするしかない、というのであり、そういう意味で新しくはなっていくが、非常にゆっくりにしかできない、と。このノイラートのたとえ話は、アメリカの哲学者、言語学者の、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908-2000)の著書 “Word and Object” で紹介されたことをきっかけに、有名になった。クワインもノイラートの比喩をうけつつ、次のように言っている。「われわれの船が浮かんだままでいられるのも、それぞれの改造に際してその大部分には手をつけず、船を動かしたままにしておくからである」「それに乗ったままでしか改造できない船の一部」(『ことばと対象』勁草書房、大出晁、宮館恵 翻訳、1984)——と。
ことばを運用しながら、せっせと組み替えたり、あっちのをこっちにもっていって、こっちのをあっちにもっていったりして対応する。そのとき、期せずしてその修理がうまくいったり、前よりも優れた部品になることがある。つまり、ことばは、そうした使い回しと掛け持ちと、あらたな組み合わせによって、いままで誰も気づかなかった絶妙の表現に据えられることもある。ことわざや故事成語は、モノ・コト・ココロにまつわるある象徴的な一シーンを普遍的に切り取るフレーズとして、あるとき発せられた〝絶妙の表現〟として、のちに定着したもの、ということになるだろう。
知識や、ことばの手数、話のネタの、脳内のストックを「引き出し」ということがある。これはとあるお笑い芸人発の表現だという。日頃からことあるごとにネタになりそうなことを考えておいて、引き出しにいれとくねん——と。それを初めて聞いた芸人仲間は、斬新で分かりやすい!と当時思ったそうだ。専門用語なら脳の「海馬」(新しく入ってきた知識の保存)、「大脳皮質」(これまでの知識の集積場所)ということばはあるが、医学的な会話をしている分けではない分けだから、「引き出し」のほうがよほど分かりやすい。言い換えれば「引き出し」ということばは、こんなところにまで出張してきたのだ。実際、新しいことばを生み出すより、経済的である。いまやかなり一般にも知られた表現になった。「頭の引き出しの奥の方にある」といえば、滅多に持ち出さない、という意味にも使えそうだ。このように応用がきくものはなおさら広まりやすい。また、そもそも、初めてきいても分かるというのがポイントだ。初めて耳にしたというその芸人仲間も、「机の引き出し?頭の中に?家具があるの?どういうこと?」とは、当然ならなかったわけである。すぐに理解できたのだった。比喩というのは基本的には〈目に見えない、わかりにくいA〉を〈分かりやすいB〉で言い換える、ということだから、説明なしにそのABがただちにちゃんと繋がるものは、あるとき、ある場面の一回きりの表現に留まらず、そうして一般に広がっていく可能性がある。
航海途中の船で、改修を繰り返すうち、別の場所から持ってきた資材なのに、もとの材料よりしっくり、ぴったりくるものができたりすることもある――ノイラートの船の話自体こそが、まさに、〝目に見えないコト〟をなんとか言い表したものだが、実に絶妙な〝ことばによる記述〟だろう。
文学作品や歌は、大きな源泉のひとつ
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆んど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔よしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
中島敦「山月記」の有名な一節だ。太字にした箇所、普通、もし言うとすれば、「臆病な」は「羞恥心」と結び付き、「尊大」は「自尊心」と結びつくのではないだろうか。しかし、それがそれぞれ別の方と結びついているところに文学表現の妙味がある。下線を付した箇所、「~とでもいうべきもの」とあって、この場であらたに持ち出された、試みとしての表現であることがわかるように語られている。そしてその、ことばの新しい組み合わせによって、これまで切り取られなかったことが切り取られた。「己」は、そうやって言い回しを創出しながら、これまでの自身を振り返って述べ立てていくというシーンだ。そしてことばの受け手(読者たる我々)は、そのテクストを通して世界をまた一つ、知ることになる。一人の人間に人生は一回だが、文学は、こうして擬似的に他者の人生、他の世界の見え方、世界の新たな切り取り方を、提供してくれる(これは過去のコラムで述べた(第17・18回参照))。それこそ、私たちの〝引き出し〟に、世界の切り取り方の手数が増えていく。
back number というアーティストに、「ハッピーエンド」という曲がある(youtube の公式で聴ける)。まだ気持ちが残っている女性が、別れようとする男性に思いを吐露するというのが歌詞の大まかな内容だ。これ自体は実によくある事態ではある。しかし、それをどうことばで切り取って語るか。女性は未練を残しつつもなんとかうけいれようとして「大丈夫」と繰り返すが、思い出がこみ上げては恨めしい思いも隠しきれない。そのような中「青いまま枯れていく」という一節がある。普通、植物は青いうちは枯れていない。それをそのようにいうことで、己の気持ちは全く変わっていないのに、関係が終わってしまうことを言うのである。〈己の気持ちは全く変わっていないのに、関係が終わってしまう〉ことは古今東西あるだろうが、それが、ある言語表現で切り取って見せられたのであった。しかも曲名が「ハッピーエンド」である。この題名は、本当に様々なことを受け手(曲を聴く我々)に思い起こさせることだろう。「青いまま枯れていく」その人との関係を、「ハッピーエンド」と名付けて切り取る世界を、聞き手はどのように追体験できるだろう。
文学的表現は、あるときは使い古された、またあるときは新たなことばの組み合わせで、世界を拓き、分節し、開示し、「ああこんな切り取り方もあったのか」と、受け手に発見せしめる力がある。言い換えれば、それだけ、われわれは、モノ・コト・ココロの認知を、ことばに依存しているのである。たとえそれが〝間に合わせ〟のものであっても、なにか、新しいのである。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。
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