第27回
「ハラスメント」あれこれ
尾山 慎
コラム延長戦!「文字の窓 ことばの景色」。
「ハラスメント」の造語力
造語力とは文字通り、新しいことばを作り出す力であるが、ゼロからではなく何かと組み合わせることで新しい語ができるという場合をふつうは指す。つまり、ある既存のことばが、何かとコンビを組んで、結果、新たな語(表現)を作り出せる、その可能性をいうものである。たとえば「~系」という接尾辞は、ほとんど何とでも組むことが可能で、その場限りの即席の新語を造ることもできる。居酒屋で、
「唐揚げ食べないの?結構余ってるけど」
「実は私、唐揚げ苦手系で」
といった具合。「唐揚げ苦手系」なんて絶対辞書に載っていないが、意味は分かる。それにしても「唐揚げ苦手で……」とはいわずに、なぜ「苦手系」というのだろうか。最近は「界隈」ということばもよくみかける。「風呂キャンセル界隈」など(お風呂に入るのが面倒、嫌いな人たち)。「~系」と意味合いは似たようなところだろうが、共通しているのは、自分個人ではないという仮想のグループを背景に作り出してしまうことだ。わがことだけの話にしない言い回しで、〝見えない味方〟〝見えない同志〟を作り出せる。「唐揚げ苦手な人、他にもいるよね」というのを作り上げて、私はその一員である、というわけだ。だから、こんなの自分以外いないんじゃないだろうか、とおもえるようなことでも「~系」とか「~界隈」といってしまうと、でっち上げてしまえるところがある。「ミカンむくとき力いれすぎて果汁をあたりに飛ばしてしまう系」とか。
個人的には「風呂キャンセル界隈」は結構驚いた。まぁそういう人もいるだろうなとこれまでも想像はできたが、そういう一団があるのかと知ってしまうと(一団というのがそれこそ仮想かもしれないが)、おいそれと「入った方がいいんじゃないの」などと意見もいいにくい気がしてしまう。
野村雅昭『漢字の未来 新版』(三元社)では、「防」と「耐」という二字を取り上げ、「防」のほうは水・火・風・砂・刃・カビ・サビなど漢語(中国語由来)や和語(日本古来からある土着の語)としか結びつかないが、「耐」は「水」「震」のほか「アルカリ」「ダンパー性」など外来語とも結びつける、ということに注目している。もとより両者には意味領域の棲み分けがあるが、造語力という点では「耐」のほうが、外来語ともタッグを組める分、将来性があるという見方も可能だということを指摘している。
さて、このような観点からすると、「ハラスメント」はなかなかの造語力をもっている。本コラム15回で、「マルハラ」をあげた。「。」を文章終わりにつけることによる圧迫感についていうもので、筆者は個人的には、「ハラスメント」ということばの価値と機能を下げる恐れがあって、これはあまりよくない活用(造語)だとおもっている。「嫌な気持ちになる」ということを指す点で決して間違ってはいないのだけれども、世にある、アカハラ、セクハラ、パワハラとの深刻度がさすがに違いすぎるとおもう。ハラスメントということばがここまで広く薄く意味領域を担当してしまうと、相対的に、セクハラ、パワハラの本当に深刻なほうの、そのことの重大さがぼやけるのではないかと危惧されるゆえである。
「~ハラスメント」が果たす役割
あるベテランの舞台女優の人がかつて、雑誌でこのように語っていた——「セクハラということばがない時代から、セクハラはありました」。たしかに、それはそうだろうな、さもありなんとおもう。むしろ昔のほうがなお酷そうな気さえする。ことばがないと、性的な嫌がらせおよびその被害などをひっくるめて指すことばがないので、もし訴えるにしても、個別的な説明になってしまう。たとえばであるが、
「卑猥なことばをかけられた」
「断っているのに、執拗に、食事に誘われた」
「体を触られた」
——以上を、この半年繰り返されている。
というようなことがあるとして、個別的だけに、全部をつぶさに上げることも出来ず、そのうちのいくつかは、「コミュニケーションの一環でしょ」「また、冗談を真に受けて~」といった具合に却下されてしまうかもしれない。個別的に糾弾する、しかし、それゆえに個別的に反論されたり棄却されてしまうというわけだ。これは、いまや典型的なセクハラをめぐる二次被害と理解されることである。被害者にとっては、〝感覚的に全部ひっくるめて〟というおもいがあるけれども、それを一括りにして訴えることばが昔はなかった。なので、代表的な事例(「何月何日、休憩時にこれこれのことばをかけられた」などと)をいくつか訴える——訴えること自体も大変なことだが——ことにならざるをえないわけである。あるいは決定的な出来事を代表で報告する。しかしそれが、のらりくらりとかわされたり、はぐらかされたり、相手にされなかったりする、あるいは、それはそれとして解決をつけられてしまう。一つずつ、あげた事例がそれぞれ「解決済み」扱いされてしまうということも起こりうる。それはいったい、どれほど無念なことであろうか。
一方「セクハラをうけました」というと、性的嫌がらせという抽象化された概念がまずは提示され、これに合致するかどうかということで各事象が検証されることになるから、一括りに事象がまとめあげられる、という機能が発揮される。これはことばというものの面目躍如だ。被害者からすると、そうやってまとめ上げることばがあることで、もう少し話が前に進みやすいところがあるだろうとおもう。また社会に対しても問題提起することが可能になる。その舞台女優の人がいいたかったことのひとつに、社会問題化されない無念というのもあったのではないかとおもう。結局その加害者との間でのこと、だけでおわってしまうからである。現在も、一つ一つの事件は、まさに個別の事例ではあるが、「セクハラ」ということで概念化され、名付けがなされる以上、事例として蓄積され、そして社会的に提起、共有される機運となる。社会的にそれを学習、問題共有することが、ひいてはその社会の倫理的成熟へと繋がる。それが、人間の知性と進歩というものではないだろうか。
なんでも「ハラスメント」の功罪
現在、なんでも「ハラスメント」というから窮屈だ、という意見がしばしばある。また、こんなことがセクハラになるのか、あるいは、冤罪はどうするんだという声もある。それはそれでもっともな意見であるが、一言でいえば、ある意味で牧歌的な反論だともいえる。それくらい、「○○ハラ(スメント)」ということばの出現が当たり前になってきた証でもあるだろう。あることばやそれによる造語が定番化してくると、こんどはそれによる問題点が見え始める(あるいは「問題に見える」人が現れてくる)。だから、用語を乱発しすぎではないか、これはほんとうに「ハラスメント」と名づけ得るのかといった議論がでてくるのも、一つの進歩的な状況である。結局、こういったことは常に、監視、観察対象であって、皆でたゆまず、揉んでいくのである。社会的にどう扱われていくか、しっかり見届けて、捨てるあるいは消えるものはそれに任せるというのも時に一案だ。ことばはそうやって変転してきたわけだから。
たとえば「家事ハラ」ということばがある。とある人の発案らしい。このことばを聞いたとき、とっさにどういうことをおもい浮かべただろうか。
①家事を軽んじる、家事への無理解。目の前で家事に奔走している人がいるのに、全く無関心で、手伝おうともしない。また普段から会社勤めの自分の仕事を引き合いに、家事を労働とも認めないような発言を繰り返す。実は、家にかえってみれば、汚れた食器は洗って片づけられ、部屋、風呂、トイレは掃除され、ゴミも綺麗にまとめてすてられ、机の上にあった新聞雑誌も片付いているのに、「君はいいね~1日中家で休憩時間なんだから」などということばを浴びせる。
②人がした家事をめぐって、難癖をつける。皿洗いをしたら、洗い方がなってないとなじって、その本人のまえで全部やり直してみせたりする。洗濯物を干したら、その干し方ではだめだということで、「ハァ……自分でやったほうがよかった」と吐き捨てる。「時間かかりすぎ、これだったら頼まなかった」「これくらいのこともできないわけ?」「まだ汚れてるんだけど?本当に拭いた?」などなど。家事の上手下手は現実にあるかもしれないが、それに対して投げかけることばと態度を主に問題にする。
「家事ハラ」と聞いて、まず①を想像した人は一定数いるとおもう。が、実際は②である(のだそうだ)。しかし、①だとおもってしまうのも理解はできる。なぜなら〈家事を巡るハラスメント〉とこのことばを解きほぐせば、①も②も該当するからである(だから②だけを目論んで「家事ハラ」を造語したのだとしたら、そもそも、ちょっとうまくはなかった)。こういうふうに意味が二重になってしまったりする場合は、あまり定番化しない。たぶん、②の場合は、モラハラといったことばが担当するほうがふつうではないかとおもわれる。
筆者は、「アルハラ」(アルコールハラスメント)ということばをはじめて聞いたとき、酔っ払って人様に迷惑をかけるほうなのか、いらない、飲めないといっているのに「おれの酒が飲めないのか」と強要するほうなのか、どちらかわからなかった(後者が正しい意味のようである。宴会で「イッキ!イッキ!」などでまわりが煽って、辞退できないように追い込むのも含まれる)。しかし、「ガリハラ」(ガーリックハラスメント)は、ニンニクのせいで口臭・体臭を発してしまって、そのせいで周りが不快にさせられることをいう。つまり、決して、もう食べられないといっているのにどんどんニンニクを食べさせることではない。
〇〇ハラスメントの、〇〇に入ることばが、限定的すぎると、必然的に該当するケースが少なくなったり個別的になったりする。いずれの側の、何を指すのかも、よく分からなくなるのは上に述べたとおりだ。単に「~についてイヤな気持ちがした」をキャッチーに呼んでいるだけになってしまいかねない。あきらかに、パワハラやセクハラの内実の多様さ、深刻さと次元が違ってしまっている。
セクハラを巡って述べたように、無数の事例を一括りにするところにこのことばが活躍する所以がある。「マルハラ」は、文章のおわりに「。」が打たれている(絵文字などがない)ということによる心理的負担、不安、抑圧というケースだから、どうしても事態が局所的である。心理的負担や抑圧を覚えると言う点ではたしかに通じ合うが、局所的すぎて、パワハラ、アカハラ、セクハラ、モラハラといった、多くの事象を括りあげるその「ハラスメント」という語がもつ機能が、かえって発揮されにくい。「マルハラ」ということばの必要性を今一つ感じない人にとっては、このあたりが理由になるのではないか。
「~について不快感・抑圧を覚える」という意味合いで、「~」には個別的事象が入るが、世の中にはそんな事象がある、ということを知らしめるのには、「マルハラ」なども一定の役割を果たしたとはいえよう。そういう意味では「パッケージ化」の能力はやはりここでも発揮されていることにはなるのかもしれない。
前二回(前編・後編)で方言をとりあげた。そして、方言を巡る軋轢やトラブルにも触れた。「ダイハラ」(ダイアレクトハラスメント)」なることばもまた、方言をめぐる不快なおもい、心理的抑圧などを指すもので、人の方言を嗤う、揶揄する、などを指す。また非方言話者の、ネイティブではないしゃべり方を揶揄する、も不快や屈辱を覚えれば、ここに含まれるだろう(関東出身の人の大阪方言を、似非大阪弁だとなじる、笑う)。既に紹介したとおり、実際、方言をめぐっては、深刻な事件は過去あるから、このことばが持ち出される社会的意義はあるだろう。ただ、現状このことばの社会的認知度が低いため、「ダイハラされました」と訴え出ても、今一つ訴求力に乏しい憂いはある。山のように個別的「○○ハラ」があるがゆえに、一つ一つが軽く見られたりしてしまう危惧もある。それはかつてセクハラということばがなかった時代に苦しんだ人々と同じところへ、奇しくも回帰してしまっているかのようだ。
○○ハラと造語することや、それが無尽蔵にあふれてしまうことには、目を光らせておかねばならない。まわりまわって社会に生きている私たちにとって不合理、不利益になるかもしれないからである。しかし、それでも、上記の、かつてからの経緯を振り返れば、「ハラスメント」ということばがない世界に戻ることはもうできない。それは、社会的な道義や倫理の成熟という観点からして、あきらかに逆行だからだ。注意深く付き合っていく、乱発に目を光らせておく、ということが必要であろう。
著者紹介
尾山 慎(おやま しん)
奈良女子大学准教授。真言宗御室派寳珠院住職。
著作に『二合仮名の研究』(和泉書院、2019)、『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021)、『日本語の文字と表記 学びとその方法』(花鳥社、2022)。