シンポジウム「保元物語・平治物語の注釈から」

軍記物語講座・第1巻『武者の世が始まる』(2019年11月刊行予定)の執筆者三名に編者をまじえて、文学研究の基礎となる注釈をテーマに、議論をかわしていただきました。


シンポジウム「保元物語・平治物語の注釈から」

【出席者】
 早川厚一(名古屋学院大学名誉教授)
 清水由美子(清泉女子大学・中央大学・成蹊大学・白百合女子大学非常勤講師)
 谷口耕一(元三重県立桑名西高等学校教諭)
 松尾葦江(司会)
【開催日】2018年12月23日
【会場】アットビジネスセンター東京駅(東京・八重洲)

【目次】
 はじめに…………………………………………………松尾葦江
 古態論にこだわる―『保元物語』の場合―…………早川厚一
  1. 私の軍記物語研究事始め
  2. 古態論華やかなりし頃
  3. 半井本『保元物語』上巻末の名寄せに古態を探る
 『保元物語』の諸問題 ………………………………清水由美子
  1. はじめに
  2. 為朝の評価をめぐって
  3. 軍記文学にとっての「洗練」とは
  4. その他の課題
 四類本『平治物語』注釈から見えてくるもの………谷口耕一
  1. はじめに
  2. 四類本『平治物語』が作られた時代
  3. 四類本『平治物語』を生んだ土壌
  4. 四類本『平治物語』の世界の一端
  5. おわりに
 質疑応答
  1. 伝本の呼称
  2. 四類本平治物語の時代性
  3. 御伽草子との関係
  4. どの本文を選ぶか



はじめに…………………………………………………松尾葦江

 軍記物語講座第一巻『武士の世が始まる』には、初期軍記と呼ばれる『将門記』『陸奥話記』『後三年記』と共に、『保元物語』『平治物語』、そして『承久記』に関する論考を収める予定です。近年、初期軍記の研究が賑やかになっていますが、一方で『平治物語』や『承久記』は、文学研究の方面では、進展が遅いように見受けられます。研究の第一歩は注釈から、まず一語一語の考証に基づく丹念な読みから、と私たちの世代は教えられてきたので、こつこつと注釈を進めてこられた方々に、この分野の研究の問題点や見通しをふまえて、それぞれの作品の面白さに通じる扉を開けて戴こうと思います。
 当初は座談会として企画しましたが、講師の方々は研究発表会のような力の籠もった報告を用意して下さり、殊に早川さんは、本書に寄稿する内容をほぼそのままお話しして下さったので、不慣れな司会者は、座談形式にまとめることができませんでした。そこで、ウェブ上でも読みやすいよう、シンポジウム形式に再構成してみました。当日は発表の間に質疑応答が挟まれたのですが、ここでは各講師の論旨を並べた後に、質疑応答を抜粋し、説明を足して配置しています。
諸本論にせよ、語釈にせよ、かなりディープな議論になっているので噛み応えがあるかもしれませんが、最後に参考文献を挙げておきましたので、それらを参照しつつ、さらにもう一歩、軍記物語の世界へ踏み込んでいく気になって頂ければ幸いです。

 

古態論にこだわる―『保元物語』の場合―…………早川厚一

1. 私の軍記物語研究事始め
 私が、『平家物語』研究を始めたというといささか大げさですが、そのとっかかりは、大学二年の夏休み前のことです。翌年、大学三年の秋には教育実習があり、一年後には出身高校に戻り、後輩に授業をしなければならない時だったのです。しかし、その頃の私には、自分自身に何の取り柄も、人に自慢しうるような自信もありませんでした。とにかく何でも良いから勉強して、自分自身に自信をつけ、教育実習に臨みたいという思いだけでした。そうした不安を、私だけではなく、周りの級友も多かれ少なかれ持っていたようです。そんな時、仲の良かった友達と、何を始めようかと相談したのですが、一も二もなく『平家物語』をやろうということになりました。なぜかと言えば、昭和四十三年(1968)当時、日本には、いやこの名古屋の地にのみ、『平家物語』を語られる琵琶法師が何人もいらっしゃいましたし、私の通う大学(愛知県立大学)には、岩波日本古典文学大系『平家物語』の編者でもありました高木市之助先生や渥美かをる先生・小沢正夫先生がいらっしゃったからです。とりあえず、友人と覚一本の巻一「祇園精舎」から読み始め、関連論文を苦労して集めて読んで(時には書き写しながら。と言うのは、その当時、今とは違い、コピーなどは簡単に取れない時代でした)自分なりに検討し、レポートを書き、それを交換しながら議論を交わすということを始めました。そうしたことを暫く続けた後に、いくつか書き溜めた中から、自信のあるレポートを選び、意を決して渥美先生のもとに持って行きました。渥美先生は大変喜んで下さり、翌週には真っ赤に添削されたレポートを返して下さいました。そんなこともあり、翌年には、希望者多数で入るのも難関であった渥美ゼミに、友人と共に入ることができました。ゼミでの教材は、その当時古態本として注目を浴びていた一類本『平治物語』でした。そのゼミで、私は初めて級友と共に、軍記物語研究のイロハを学びました。ゼミの発表当日などは、胸を躍らせながらその日を迎えたことが、いまさらのように蘇ってきます。

2. 古態論華やかなりし頃
 『平治物語』のゼミでは、その当時新進気鋭の研究者として注目されていた『平治物語』古態論の先駆者でもある安部元雄氏の論文(『軍記物の現像とその展開』桜楓社、1976年11月)を一生懸命に読んだ記憶が懐かしく蘇ってきますね。そのように、当時の軍記物語研究は、古態論研究が花盛りでした。『保元物語』では、半井本が注目されていましたし、『平家物語』では、共に真字表記で簡略な記事を持ち、一見古態本かくやと思わせる四部合戦状本と源平闘諍録が注目されていました。そんな中、昭和四十年代から、赤松俊秀氏や水原一氏らにより、延慶本古態説が唱えられるようになり、四部合戦状本や源平闘諍録の古態性が少しずつ揺らぎ始めてきた頃に、私の『平家物語』研究は始まったわけです。私の大学院時代の研究対象が、四部合戦状本であり源平闘諍録であるのは、その渦中に巻き込まれた結果でしかありません。私としては、その古態性が少しずつですが揺らぎ始めた四部合戦状本や源平闘諍録を自分なりに確認しようと考えたのです。
 そんなこともあり、私自身、『平家物語』は言うに及ばず、『保元物語』については、半井本を中心に論を書き、『平治物語』についても、一類本の論を中心に、古態論にこだわりながら現在も書き続けています。私自身、古態という桎梏からはなかなか抜け出せないようです。

3. 半井本『保元物語』上巻末の名寄せに古態を探る
 今回は、半井本『保元物語』上巻末の「官軍勢汰ヘノ事」の内、官軍と新院方の名寄せ記事について考えてみましょう。人名列挙の記事であることもあり、古態論として従来余り注目されることの少ない記事ではありますが、そんな中、野中哲照氏(『保元物語の成立』汲古書院、2016年2月)により、重要な指摘がなされています。官軍方の名寄せの冒頭は次のように始まります。

義朝ニ相随(あひしたがふ)手勢ノ者共ハ、乳母子ノ鎌田次郎正清ヲ始トシテ、川原ノ源太、近江国ニハ佐々木ノ三郎秀義、八島冠者、美濃国ニハ吉太郎、…(新日本古典文学大系四一頁) 

 野中氏は、この名寄せが、半井本では、ほとんどすべての武士が、「近江国ニハ……美濃国ニハ……武蔵国ニハ……」という国別の枠組みの中で語られているにもかかわらず、冒頭の鎌田と川原源太の二名だけは、その枠組みに収まっていないことに注目します。そして、本来の名寄せは、「乳母子ノ鎌田次郎正清ヲ始トシテ、川原ノ源太……ヲ始トシテ、(郎等、乗替シラズシテ、)宗トノモノ共、二百五十余騎ニテ馳向フ」を枠組みとしたもので、名前が明示されたのは数名だけであった可能性があろう(鎌田と川原の二名だけであった可能性もある)とします(189~190頁)。こうした記事が、半井本だけならばいざ知らず、鎌倉本・宝徳本・京図本・流布本(流布本は、「川原ノ源太」を欠き、「河内源太朝清」を記す。いずれも系譜は未詳)のいずれにも見られるのですから、無視できません。重要な指摘と考えられます。しかし、そうした場合、義朝の乳母子の鎌田次郎正清が特筆されるのは納得できますが、「川原源太」という氏素性がはっきりしない人物がここで特筆されなければならない事情が分かりません(野中氏が推測されるように、「川原源太」が河原兄弟の父祖だとしても事情は同じです)。だからと言って、一蹴してしまえない問題であることは確かです。
 さらに野中氏は、武蔵武士の異様な突出に注目します。つまり、相模武士は六名であるのに対し、武蔵武士は「豊島ノ四郎」を初めとして計二九名にも及んでいるのです。さらに武蔵武士のみ国名だけでなく、「横山ニハ」「粟飯原ト猪俣ニハ」「児玉ニハ」…などという郷党別によって語られているのです。その事情について、野中氏は、鎌倉後期に相模武士にとって代わるほどの武蔵武士の台頭という実態があって、それが物語に反映したと見た方が良さそうだとされるのですが、この点についてはどうでしょうか。
 むしろ、この武蔵武士の突出については、峰岸純夫氏が指摘されるように、大蔵合戦の影響を考えるべきではないでしょうか(「鎌倉悪源太と大蔵合戦―東国における保元の乱の一前提―」。『三浦古文化』43号、1988年。26~27頁)。大蔵合戦とは、保元の乱の前年久寿二年(1155)八月十六日に、武蔵国大蔵館で起きた合戦で、この時、悪源太義平が、父義朝の弟義賢を討った事件です。まさに、大蔵合戦は、保元の乱の前哨戦であったわけで、この時の勝利により、義朝は、武蔵国の大量動員をなしえたと考えて良いのではないでしょうか。
 また、元木泰雄氏によれば、義平による義賢討伐は、共に後白河天皇の側近であった武蔵守藤原信頼と義朝との連携によって行われたとみられ、その武蔵から多数の武士が動員されたことは、義朝と受領信頼との緊密な連携の結果と考えられるとします。さらに、半井本『保元物語』によれば、信濃国からも、武蔵国に次ぐ十人の信濃武士が動員されたとあります。これについても、元木氏は、信濃の場合も、頼長と激しく敵対する忠通、もしくは彼の義兄伊通が知行していたことから、義朝を支援する武士が国衙を通して多数動員されたとみることができるとします(「院政期信濃守と武士」。『信濃』〔第三次〕65巻12号、2013年12月。6~7頁)。他に、信濃国の中小武士が、保元の乱時に、義朝の勢力下に編成されていたことを説くものとしては、村石正行氏の研究もあります(「治承・寿永の内乱における木曽義仲・信濃武士と地域間ネットワーク」『長野県立歴史館研究紀要』16号、2010年3月。15~16頁)。
 以上のように、一見増補記事かとも見られる名寄せに、『保元物語』成立当時の古態性が留められているかと見られる記事は、他にもあります。
 例えば、清盛麾下の兵として、「郎等ニハ筑後左衛門家貞、同新左衛門貞能、新兵衛尉家季、余三兵衛景康」(新大系四二~四三頁)が記されていますが、その内、「家季」の名は、他諸本では消えてしまいます。しかし、佐々木紀一氏によれば、家季の名は、南北朝期から室町初期写とされる「古系図集」に、家貞の弟として薩摩守家季の名が見られます(「桓武平氏正盛流系図補輯之落穂」『米沢国語国文』25号、1996年12月。60頁)。
 また、清盛麾下の兵として、「備前国ニハ、難波三郎経房、同四郎光兼、備中ノ瀬尾太郎兼康」(新日本古典文学大系四三頁)の名がみえますが、後出本では消え、流布本に至ってまた記されます。経房や兼康が保元や平治の乱で平家に従っていたらしいことは野口実氏によれば確かで(「平家と瀬戸内の武士」『芸備地方史研究』268・269号、2012年12月。5頁)、ここでも、半井本の名寄せに古態性を見ることができます。
 あと二つ例を挙げましょう。一つは、古澤直人氏が指摘されたことですが、保元の乱時下野守であった義朝のもとに駆けつけた下野武士として記されるのは、僅か「八田四郎、足利太郎」の二人のみです。義朝による下野武士の動員が、他の諸国、特に相模国と武蔵国に比べて圧倒的に少ない理由として、下野の武士は、おそらく下野に地盤を有する足利義康に組織されたのであって、義朝は、それ以前の歴史の中で基盤を有した南関東を中心とした武士動員をしたものと考えていらっしゃいます(「平治の乱における源義朝謀叛の動機形成―勲功賞と官爵問題を中心に―」『経済志林』80巻3号、2013年3月。185頁)。
 今一つは、長村祥知氏が指摘されたことですが、清盛麾下の郎等として、「八幡美豆左近将監、同太郎、同次郎」(新日本古典文学大系四三頁)の名が見られます。半井本にしか見られない名で、これまでも特に注意されることもなく、注を付されることもない人物でした。長村氏によれば、「美豆」は、『吾妻鏡』文治五年(1189)閏四月四日条に見える、「御厩管領地」とある巨椋池西岸の左馬寮美豆牧と関係があり、鳥羽院政期の伊勢平氏と末茂流の提携の下で、左馬寮領美豆牧の在地領主が院(後院)御厩別当であった清盛の家人に編成された結果であろうと言うことです(「中世前期の在京武力と公武権力」『日本史研究』666号、2018年2月。41~42頁)。
 以上は、それぞれ各氏によってなされた別々の指摘ですが、このようにまとめてみると、半井本に見る名寄せが、保元の乱当時の状況を鮮明に映しているように考えるのですが、いかがでしょうか。もちろん、成立当初から、半井本に見る形で成立していたと主張するわけではありませんが、かなり古態を映し留めていると考えて間違いないのではないでしょうか。