シンポジウム「保元物語・平治物語の注釈から」

質疑応答

1. 伝本の呼称
松尾 今日のお話は、大きく括ると、注釈を通して見えてきたものという……
早川 そういうことですね。
松尾 まずは早川さんのお話の中で、分からなかったことがあれば聞きましょうか。
清水 「宝徳本」とおっしゃっていたのは、四類本ということでしょうか。
早川 そうですね、従来いわれていた「金刀比羅本」。

清水 金刀比羅本と宝徳本は別では?
松尾 厳密にいえば別ですね。
早川 四類本は宝徳本が代表するだろうということで、『保元物語』の四類本は宝徳本で読むべきだという考えです。
清水 それでは、四類本というふうに置き換えて伺えばよいということですね。
早川 四類本というよりは、宝徳本系統というべきだと。犬井さんや原水さんはそうおっしゃっていますので。(犬井善壽『鎌倉本保元物語』三弥井書店、1974年。原水民樹『『保元物語』系統・伝本考』和泉書院、2016年)
松尾 ただ、研究者の間ではそれでいいかもしれないんですけど、原稿を書かれるときは注をつけて頂くか、あるいは付録に用語一覧をつけるかですけど、ご本人がご自分の論文で注記して頂いたほうがいいと思うので。つまり、従来四類本と呼ばれてきたグループには、四類本、金刀比羅本、それから宝徳本系統という三種類の呼び方があるわけで、「宝徳本」と言った場合には、私なんかは、一伝本を指すというイメージが強いんですよ。研究者の中でも、四類本のグループ全体を呼ぶとは理解していない人があるかもしれないので、こういう経緯があるけれどもここではこういう使い方をする、と論文をお書きになるときにちょっと断っておいた方が。
早川 諸本をじっくりと見られてきた犬井さんと原水さんが言われるわけですからね、まぁ間違いないだろうと。
松尾 それはそうですけど、研究者によっては用語いじりをしたがる時期っていうのがあって、それが後の役に立つ場合もあるけれど、あんまり伝本の名前をころころ変えられると、研究史が混乱しちゃうんですよ。今言ったように、グループの名前なのか、伝本の名前なのか、その辺が現代の人にとって曖昧になってしまうといけないので、原稿のどこかに書いておいて下さい。
早川 いちおう、宝徳本系統の本文としては、新編日本古典文学全集『保元物語』(底本は陽明文庫蔵宝徳三年奥書本)がありますからね。一般の方も見られますので。ですから今後はやはり「金刀比羅本」ではなくて、「宝徳本」系統というふうに、基本的には私は言っておこうと。
松尾 ただ、金刀比羅本系統とか四類本という呼称にこだわるのは、『保元物語』『平治物語』は一揃いになって伝本が残っていることが多い、対でね。『平治物語』には宝徳本がないので、まだ注の必要な呼び名じゃないかと思っています。
早川 そうですね。
松尾 清水さんは、今日は宝徳本と呼ばないで、何て呼びますか。
清水 私は全部、四類本にして、四類本のなかでも金刀比羅本と宝徳本はやはり違うんじゃないかというところが大事なんじゃないかということを申しあげたかったので。
松尾 それは一大事だ。
清水 それで、金刀比羅本の本文を引いて、宝徳本というふうに言ってしまうと……
早川 今回清水さんがやられる『保元物語』は、底本として九条家本を使用されるという事ですが。
谷口 『平治物語』の諸本は、基本的に永積安明氏の分類されたもので大きなくくりとしてはいいと思います。ただ、細かいところでいくつか、再考を促すところも出てきていますよね。四類本に限って言えば、蓬左文庫本の系列と金刀比羅本の系列に二分されるわけですが、多数派は蓬左文庫本系列の諸本になります。一類本は完全な本がないので、忸怩たる思いで、取り合わせ本を使っているというのが現状でしょうか。
 金刀比羅本を四類本の代表本文とするのには、私はものすごい抵抗があって。四類本を全部校合してみましたけど、金刀比羅本は駄目なところいっぱいありますよね。

清水 『保元物語』ですか。
谷口 『平治物語』。
清水・早川 ああ『平治』。
早川 原水さんは、九条家本はあまり評価されてませんよね。どちらかというと、かなり間違いの多い本、注意しなくちゃいけない本と書いていらっしゃいますからね。

2. 四類本平治物語の時代性

原文① 大方は病もはなれば。常に馳引〔挽イ〕をもして風にあたり。中にも普通のには超えたる具足にて。物毎に弓の眼を引折て。身をせめらるゝ事。今は有べからず。(『渋柿』所収の「泰時御消息」)
原文② よるになればしうとが馬ひきいだいてはせひきしたり、海の底十四五町、廿町くゞりな(ン)どしければ、……(覚一本『平家物語』巻十二「六代被斬」)

松尾 谷口さんのお話の中で、「馳引」という語の意味ですけどね、遠乗りという意味にとるべきだと仰言いましたが、確たる証拠はないと思う。レジュメにある『渋柿』の例に、「風にあたり」とありますが、要するに馳引きというのは、馬上に乗ったまま、いわゆる流鏑馬のような射撃のやり方でしょ。だから風にあたるんですよ、別に遠乗りしなくても。ただ覚一本平家物語の例で、夜に馳引きっていうのは、確かにおかしいといえばおかしいけど、何で「夜になれば」かというと、こっそりと、という意味でしょう。後に続く「海の底十四五町、廿町くゞり」なんていうのも非現実的な話だから、それほどひどい乱暴なことをするんだという意味で書いてあるだけで、何も本当に夜、的をねらって弓を引いていると思わなくてもいいんだと思うんです。
谷口 世を忍ぶというか、隠れて逃げ回っているのに、ですよね。
松尾 そうそう。止まったまんま射撃するのと、馬を走らせながら射撃するのとでは、後者の方が体力が要る。だから、病み上がりにはいけない、と言っているので。この例を見て、遠乗りでなきゃならないとは、私は思わないんですけど。
谷口 ただ、『渋柿』の例は「病もはなれなば」ですね、病があけたら「常に馳引をもして風にあたり」、ここのところはちょっと面倒くさいんですけど、両方ともやっちゃいけないになっているのか、馳引きをすることを奨励して、そして普通にはこういった身体に負担になるようなことはやるなというふうに読むのか、ちょっと……
松尾 あのころの射撃というのは、本来は止まって射るのが普通で、馳引きが普通ではないんでしょ。
谷口 馬を全力で走らせて弓を引くというのは、体に負担になる。
松尾 そう。別に遠乗りである必要はないんじゃない?馬が走れば当然、向かい風にあたるわけだから。
早川 ここは『新日本古典文学大系』(底本九条家本)でも、「馬を走らせながら弓を引くこと」っていう、注がついてますし。
谷口 それは通常の解釈に従ってつけられた注だと思います。室町時代にはまちがいなくそういう意味なんです。
早川 陽明文庫本にはもう一か所ありますよ、『新大系』151頁に。「馬の馳引きに身をならはし」っていう形で。

原文③ 馬のはせひきに身をならはせ、力わざをいとなみ、武芸をぞ稽古しける。(一類本上巻「信頼信西不快の事)
原文④ 馬の足だちよき所にては、馳挽、物射ならふてぞ下りける。(一類本下巻「牛若奥州下りの事」)

谷口 この二か所ですね。ただ、後の待賢門の合戦のところでは、一類本、四類本ともに、信頼は弓を持ってないんですよね。師仲もそうですね。弓をもたずに合戦に臨む人が、馬を走らせながら弓を引く練習をするかということで。
松尾 この例は、信頼が力技だの、普通はやらないでもいいことをやる、ばかげたことをやっているっていう話でしょう。身の程に合わないことをやっているという。で、現実に戦場に出たら、まったく役に立たない。
谷口 でも、病気明けの前にどうするかというのを考えると、馬で全速力で走らせるっていうのは体の負担になるでしょうから、やはり体に負担にならないように、ゆっくりゆっくりと馬を走らせて、そして常に風にあたって、やっちゃいけないことというのは、「弓の眼を引折て」、この表現がちょっと、いろいろ調べたんですけど、よく分からない。
松尾 谷口さんは、『渋柿』では、馳引きは肯定され、推奨されていると思っているわけ?
谷口 そうです。

谷口訳『渋柿』 「病が癒えたら、外出して、遠乗りでもして風に当たって体をならすようにし、特に普通よりも重い具足を身にまとい、物毎に弓の眼を引き折りて、体に負担を与えることは、今はあってはならない」。

こういう意味だと思うんですね。
松尾 私はそう思ってない。馳引きや重い具足なんかは、禁止されているんだと思う。
谷口 「をも」ですから。「をも」ですからね。
松尾 「中にも」だから、いろいろ禁じることがあるので、その中でも重い具足はいけないって言っている。「弓の眼を引折」るってどういうこと?
谷口 これ分からないんですよ、いろいろ調べたんですけど。「物毎に」っていう、そのあとの「身をせめらるゝ事」っていうのは、要するに「物毎に弓の眼を引折」るということが「身をせめ」ることのひとつだろうと思うんですけど、この文からいって。
松尾 「弓の眼」っていう言葉はない?
谷口 調べたけど見つからない。
松尾 誰に向かって言っているわけ?息子たちとか?
谷口 これは故実書みたいななかに、やっちゃいけないこと、あるいは武士の心得として引用されている手紙ですので、事情はちょっとよく分からない。
松尾 私が思いつきで訳せば、弓矢取りである、射撃のことをしょっちゅう考えている人にむかって、病み上がりの時にはこれこれはしちゃいけない、射撃の目で見ないで、身を責める(苦しめる)ようなことは、今は慎みなさい、と。早川さんどうですか。
早川 いや、この解釈はちょっと分からないですよ。いずれにしても一類本の場合は、馬上で弓を引くというふうにしかとれませんので。その『渋柿』だけによってというのがちょっと苦しいことは苦しいですよね。
谷口 「身をならはし」というのが気になるんですね。そのあたりがやはりこう、イメージの違いなんですかね。私は、病気明けの人間が馬に乗ってそして風にあたるっていうのは、今まで寝室に寝転がっていたのが、戸外へ出て、だんだんと外気に体を慣らしていくための重要な手段だというイメージなんですよ。
松尾 私は、この『渋柿』の前半は、馬に乗って矢を射撃するような、風にあたるようなことはやめろと禁じているんだと思う。馬に乗ってゆっくり歩くのは構わないけど、馳引きをするためには走らせなきゃならない、しかも普段より座高が高くなるでしょ、馬に乗って。普段より高い位置で速いスピードで、風にあたる、そういうことはやめろと。
谷口 その上の「常に」というのが非常に気になる。
松尾 「常に」で一旦切れるんじゃないですか。いつも、これこれのことは駄目だよ(有べからず)、と。常にやれ、じゃなくて。何か全体に屈曲した文章ですけどね。

3. 御伽草子との関係
谷口 四類本『平治物語』下巻「常葉落ちらるる事」では、常葉の美しさを「我朝には小野小町・和泉式部もこれにはすぎじ」と称えています。しかし、我が国の文芸作品においては、小野小町と衣通姫を番えて美人の代表とする作品は多くありますが、小野小町と和泉式部を番える例は私の見た限り、皆無です。唯一お伽草子『ふくろふ』に、衣通姫、小野小町をはじめ、我が国の美人を列挙した中に和泉式部の名が見えるだけですね。でもこの作品では小野小町と番えるという形になっていません。小野小町と和泉式部を番えるのは異例中の異例なんです。
本章段では、常葉について「いひすつることのはまでもかたくなゝること一もなし」と記されていますけど、これは、御伽草子『和泉式部』に「いひすつる言の葉までも情ある也。たゞいたづらにくちはつる身を、と云、歌の心を忘れずして……」とあり、また仮名草子『薄雪物語』下に「そのうへ小町も、いにしへの身を後悔して、関寺にて、「言ひすつる言の葉までもなさけあれたゞいたづらに朽ちはつる身を」とよみ置き候」とあります。この表現が小野小町の歌と称するもの(現存しない歌)の一節を利用した表現であり、それがお伽草子『和泉式部』に見られるところから、小野小町と和泉式部をつがえる発想が湧いたのではないか。ちなみに、この「いひすつることのはまでも」という句はもちろん、「いひすつる」という句さえも国歌大観で検索する限り、使用例はありません。美女の代表として類例のない小野小町と和泉式部とをつがえる四類本『平治物語』には、このお伽草子『和泉式部』の影響があると思えるのですが、いかがでしょうか。
早川 『和泉式部』との関係に関しても、これも私は個人的には無理かなとちょっと思いますけどね。これだけの理由で、御伽草子を……
松尾 見たというのは?
早川 うん、ちょっと厳しいように思いますけどね。
松尾 「言ひすてる」は、たしかに歌言葉じゃないですよね。だから『国歌大観』では出てこないだろうなあとは思うんですけども。ただ、『和泉式部』を見たかどうかはともかく、全体に四類本の語彙が御伽草子的だと、言いたいわけですね。
谷口 お伽草子が使っている言葉と同じような文化圏というんでしょうか。そういうもののなかに『平治物語』の改作者がいて、そういうものの影響をうけて、こういう文章が書かれたんだろうという。
早川 まあその可能性はあると思いますけどね。
松尾 座談会の企画段階で、谷口さんから四類本は室町時代のものだということを言いたいというメールを頂いたとき、ちょうどこの講座の他の巻の企画もあれこれ調整していたところでした。私たちは『平家物語』ばかりやっていると、鎌倉時代の文学とか、鎌倉時代の史実とか言っているけど、じつは軍記物語は室町の文芸じゃないかなあって思ったりして。だからもっと、その室町時代的雰囲気が注目されていいんだよなあとか思いながら、企画・構成をしましたけれども。『保元物語』の場合には、古態本はもっと早いんですか。
早川 それはそうでしょうね。
松尾 いつごろだと思いますか。
早川 それは分からないですね。
松尾 鎌倉? 室町?
早川 まあ鎌倉でしょうね。
松尾 鎌倉末期?
早川 だと思いますけれど。ただ野中哲照さんが言うように(注 『保元物語の成立』汲古書院、2016年)あんなに鮮明には分からない、正直いって。早いとは思いますけれど、それなりに。
松尾 『平家物語』よりは前ということですか、古態本は。
早川 そういうことですね。そういう部分がいくつか指摘されてもいますから。